シヰラカンスと月の檻

 その魚は、自分のかたちを知りませんでした。仲間に出会ったことが、一度もなかったからです。魚は深く、暗い海の底に暮らしていて、生まれたことに気づいたときにはとっくに一人で泳いでいました。ゆっくりと、冷たい水を散らして進みます。時折、傍を見知らぬ魚や大きな甲殻類が通りました。魚はそのたび、彼らと自分の鰭の色を見比べましたが、仲間どころか、見たことのある魚に出会うことのほうが少ないくらいでしたので、いつしかそれも諦めて目を凝らすこともなくなりました。
 そうして気づけば、いつしか魚はすっかり大きくなりました。体は重くなり、お腹も前より空くようになり、ますますゆっくり泳ぐようになりました。魚は毎日、代わり映えのしない景色に目を閉じて、色々なことを考えながら泳ぎます。水のこと、砂の色、僕という体の青について。
 中でも一番、気になったのは、ここより上の世界についてでした。魚は硬い背中を反らせて、時々上を見てみます。かすかに明るいように思えるのです。しかしその明るいほうへ向かって泳ごうとすると、不思議に胸が苦しくなって力を失って沈んでしまいます。魚はここが自分の在処なのだと理解して、無理に昇ろうとすることをやめました。また上の世界という存在に気づく前の、平らな毎日が訪れては行き過ぎます。
 そんなあるときのことでした。魚が一人、海の底を泳いでいると、上ではなく自分の下に、かすかな光があるのを見つけたのです。暗い海の中で、真っ白な光が砂の下から零れてきていました。魚は始め、それを他の魚の目の光か何かだろうと思っていましたが、近くまで行っても、自分の他には何も見当たりません。ただ、地面がぽっかりとそこだけ光っているのです。
 気づけば魚は尻尾や鰭を使って、その光を掘り起こそうと必死になっていました。いつもは泳ぐときにだけ、何の気なしに揺らしている鰭を、こんなことに使うのは初めてです。魚は積もった砂の重さに驚きながら、なんとかそれを掘り返しました。そしてようやく出てきたものを見て、わずかに目を丸くしたのです。
 それは、小さくごつごつとした、石のようなものでした。所々尖っていて全体は黄色く、仄かな光を放っています。見たことのない、不思議な生き物でした。
「貴方、誰?」
「わ、喋った」
 食べ物なのか、違うのか、生きているのか。分からないことだらけだった魚がつついてみようとしたとき、その光る石がふいに声を上げたのです。魚は飛び上がって、大きな水泡をひとつ吐きました。ゆらゆらと昇っていくそれを見ていた光る石が、何も言えずに目を丸くしているだけの魚に代わって、もう一度口を開きます。
「砂に埋もれて、もうこのままかと思っていたの。助けてくれてありがとう」
「そう、そうだったんだ。どういたしまして」
「それなりの時間をかけて沈んできたけれど、初めて見る魚さん。貴方は、シーラカンスよね?」
 光る石はそう言って、礼を言うように瞬きました。けれど魚は、その質問に困った顔で聞き返します。
「それが、僕の名前だったの?」
「ええ、名前……と言えるのかは分からないけれど。知らなかった?」
「うん、ここにいる大概の生き物は、自分の呼び方を知らないよ。きみは、どうして知っていたの?」
 シーラカンス。魚は口の中で、その響きを繰り返しました。何だか初めて聞いたのに、昔から知っていたような気がします。これが名前というものなのだろうかと考えながら、魚は光る石に首を傾げました。
「ここに落ちてくる途中に、本で見たの。人間が広げていた本で」
「ホン?」
 躊躇う様子もなく答えた光る石の言葉に、耳慣れないものがありました。魚に聞き返されてそれに気づいたのか、光る石は、そういえばここにはないものねと頷いて答えます。
「本は、色々なものを書き溜めた塊のことよ。貴方によく似た魚の姿も、絵で描いてあったの。深い海の底に住む、静かな魚って」
「ふうん? それは、どんな生き物が見るの」
「人間よ。ここよりずっと上の、地上っていう世界に住んでいる動物。私は本を読まないけれど、たまたま落ちていくときに、人間の持っていた本が目に入って」
「……ちょっと、ちょっと待って」
 光る石の話すことは、魚には半分か、その半分くらいしか分かりませんでしたが、それでも声を上げないわけにはいきませんでした。何、というように言葉を遮られて瞬いた光る石へ、魚は何年も、餌を食べること以外に開かなかった口を動かして、言葉を選びます。
「今、ここよりずっと上って言った。チジョウ? きみは、そこから来たの」
「私は、そのさらにもう一つ上にある世界から、かしら。天とか、空とか……宇宙とか、呼ばれるわ」
「ウチュウ……」
呆然と呟いて、魚は上を見上げました。骨がキリキリと痛むようです。そういえば、こうして上を向くのも何年ぶりのことでしょう。
「すごいなあ。こんなことってあるんだ。暗い海の一番底で、そんな遠くから来たものと会えるなんて。僕、ずっと向こうの世界に興味があったんだよ。ねえ」
「何?」
「きみは、ここへ何をしに来たの? 僕みたいに、下の世界が気になって来たの」
かつて見上げ続けていたこの大きな水の先には、確かに別の世界があったのです。あの頃に思い描いたものは絵空事ではなかったのだと分かり、魚はそれだけでも嬉しくなって、光る石へ一歩近づきました。しかし、光る石は抑揚のない声で答えます。
「別に、何も」
「え?」
「目的があって、ここに来たんじゃないの。私は空から、落ちてきたから」
「落ちて、きた」
「浮かんでいる力が、なくなったのよ。宇宙の中にいられなくなったの」
 落ちるという感覚は、魚にはよく分からないものでしたが、浮かんでいる力がなくなるということは、沈むことと同じだろうかと思いました。海の生き物が、時々年老いてこの海底に沈んでくることがあります。魚がそれを言うと、光る石は息を吐くように笑って言いました。
「そうね、同じようなものね。死んだらみんな、行き着くところは同じなんだわ」
 魚はびっくりして、多分、生まれて初めてそんなに目を丸くしました。
「死んでいるの、きみは」
「ばか言わないでよ。死んでいたら、貴方と話すわけがないじゃない」
 光る石は間髪入れず、そう叫びました。それもそうか、と魚は思い直して頷きます。一瞬、幽霊なのかと思ったところでした。幽霊だから、こんなふうに、この世界のものと思えないほど、美しく光っているのかと思ったのです。
「じゃあ、生きているんだ」
「今は、まだね」
「いずれ、死んでしまうの」
「それは、私に限ったことでもないでしょう」
「そうだった。僕もそうだ」
「当たり前だわ。でも、そうね。きっとあと何年か、何十年かしか、私は無理でしょう」
 光る石は、まるでとっくに亡霊になったつもりでいるかのように、あっさりとそう言いました。あまりに落ち着いて言われたもので、魚も思わず、そうなんだねと返事をしそうになってしまったくらいです。いや、待て、と思い直しました。何年か、何十年か。それは亡霊になった気になるには、ずいぶんとまだ、先の長い話ではないのでしょうか。
「星の一生は、長いのよ」
 魚が困惑した顔を見せると、光る石はそう言って、少し笑いました。魚はホシという言葉を、初めて耳にしました。

 それから、何日が過ぎたのでしょうか。海底には日付の境目が、あまりはっきりとは現れません。潮の流れが小さな変化を繰り返すので、魚は何となく、それを知ることができるだけです。数えることはしていません。どんな生き物も、大抵はそうです。
「眠ることが区切りになる生き物はたくさんいるけれど、区切りを決めて、眠ることに追われている生き物は、多分、あまりいないものね」
 暗い海の底で、白い光が瞬きました。くぐもった声が、ふうん、と返事をします。魚の声です。魚は口に、星をくわえて、海底をゆっくりと泳ぎます。
「きみはそれを、見たことがあるの」
 とげを上手くくわえ直して、何度か試してみると、そのままでも先ほどよりは口が利けるようになりました。
 星を砂から連れ出したときは、なかなか上手くいかなかったことにも、すっかり慣れてきたようでした。魚の体に比べれば小さく軽いですが、魚が普段口にしている餌よりはよほど、大きく重いのです。その星を、ふらつくこともなくくわえて運んでいきます。あてのない回遊でした。ただ、魚はそこに星をつれて泳ぐことにしたのです。
「人間はそうみたいだわ。空に私たちが見える時間になると、家に帰って眠ろうと慌てるのよ。もっとも、全員がそうとは限らないでしょうけれど」
 人間。本を読むという生き物です。星が最初にそう言っていたのを、魚は思い出しました。地上に住み、本を読み、星を見ると眠ろうとする。魚はこれだけのことしか分かりませんでしたが、それでも、人間というのは自分とはずいぶん違ったところの多い生き物らしいということだけはよく分かりました。
「きみは、眠らないみたいだ」
 海底で出会ってからずっと、行動を共にしてきましたが、魚は未だに星が眠るところを見たことはありません。魚は時々、砂に星を下ろして、岩陰で眠ります。星はその間も、ずっと輝いているようでした。
 襲いかかってくるもののほとんどいない岩陰では、魚はよくそうして、星の光の中で目を休めました。最初は眩しくて慣れなかったのですが、不思議なもので、段々とその明るさに心が落ち着くようになってきたのです。閉じた瞼の裏が、闇以外に染まることがあることを、魚は何年も生きてきて初めて知りました。星の傍らで眠るとき、その光が瞼を通り越して、ほんのりと奥まで差してきます。魚の瞼の裏側は、ぼんやりと白くなるのです。
「眠らないわ。昼も夜も、ずっと」
「眠っても、いいのに。今度は僕が見張りをするよ」
「食べられることを考えて、起きているわけでもないのよ。宇宙の生き物は眠らないの」
 そういうものなんだって言えば、伝わるかしら。眠りが必要ないとはどういうことなのかと思いましたが、魚は星の問いかけに、うんと答えました。自分は、眠る生き物で、星は眠らない生き物。そう思うと、不思議ではありますが、理解することはできたからです。
 魚は、星も自分とは違ったところばかりの生き物だと思いましたが、それを嫌だとは思いませんでした。今日も海底に、白い光を零しながら泳ぎます。

 さらに、何週間が過ぎたでしょうか。魚はまだ、星と一緒にいました。通りすがりの年老いた蟹が、白い光に目を細めます。魚がそれをくわえているので、すでに捕らえられた獲物だとでも思ったのでしょう。何事もなく、ゆっくりと遠ざかっていきました。
「深海の生き物は、光に食らいつくと聞いていたけれど」
「ふうん?」
「なんだか、思っていたほどでもないわ。貴方が運んでいるからかしら」
 星がその硬い背中を目で追いかけながら、呟きました。それもあるとは思うけど、と言って、魚が答えます。
「見たことがない生き物だから、だと思う」
「そうなの?」
「光を出すものが、何でも食べられるとは限らないから。きみって硬そうで、海月や魚の仲間には見えないんだもの」
 光を漏らして泳ぐ小さな生き物は、海底で目を引き、狙われます。けれど、星はどうでしょうか。小さな生き物と思うには光が強く、近づいてみれば硬そうで、それこそまさに光る石なのです。
 先ほどの蟹もきっと、魚が石を食べようとしているばかな奴だと思って、声もかけずに通り過ぎていったのでしょう。輝くものが美味とは限りません。綺麗な体に毒を抱えている生き物がいることも、みな、充分に知っているのです。
「海月だったら、私を食べた?」
 その問いかけには、少し答えを考える時間を要しました。魚は普段、あまり海月ほどの大きさのあるものを口にはしません。でも、星がたずねているのがそういった意味ではないことも、分からないわけではありませんでした。
「きみが、きみだと分かる前に、多分」
 答えは、イエスです。海底では、食べ物は決して多くありません。情けをかけていては、大きな体を生きながらえさせることなど、できはしないでしょう。飢えることは、魚にとって寂しく、怖いことの一つでした。お腹の中が真っ暗になっていって、少しずつ力が抜けていく感覚は、味わってあまり平然としていられるものではありません。
 でも、星が例え食べられる生き物であったとしても、口を利いてしまったらきっと食べられなかったことでしょう。あなたはだあれと、たずねることは、その存在を一つの存在として、はっきりと認識してしまうことです。言葉を交わせば、そこには情が芽生えてしまいます。魚が星と話をすることができたのは、その体がとげとげしていて、食べ物かどうかを判断するのに時間がかかったからでした。
「貴方が、何でも丸呑みする無用心な鯨や鮫じゃなくて、良かったわ」
 飲み込む気のない魚の青い口にくわえられたまま、星はそう言って笑いました。気まぐれに鯨の歌を歌ってくれます。その歌声は聞いたことのない鳴き声で、鯨の歌だというそれは、単なる星の鼻歌にしか思えませんでした。けれど暗闇に吸い込まれていく歌は、透明な一本の糸のようでした。

 季節が一つ、移り変わろうとしているのが、海の底でも感じられました。あれから何ヶ月が過ぎたのでしょう。わずかに温かかった水が纏わりつく温度を少し下げ、滑らかに魚の周りをすり抜けてゆきます。
 時折、脆くて茶色いものが遥かな水面から降ってきました。毎年この季節になると、形を崩しながら海底を漂うそれが、木の葉というものであることを、星が教えてくれました。
「秋は恵みの季節なのよ」
「巡り?」
「いいえ。恵み」
 砂地を這うように砕けながら泳いでいく木の葉を、ぼうっと追いかけていたからでしょうか。聞き違いをしたようでした。水の温度が春と少し、似ていたせいかもしれません。春は巡りの季節です。魚は、秋にはあまり頓着していませんでした。恵み、と改めて正しいほうを口にすると、星は面白そうに声を弾ませます。
「どっちでもいいわ。悪い聞き間違いじゃなかった」
「そういうものなの」
「地上や宇宙ほど、ここに秋はないもの。春が二回訪れたって、別にいいのよね」
「どういう意味?」
「概念を知らなければ、何でも自由だってこと」
 軽やかな声に合わず、わざとそうして、魚には分からないことを口にしました。星はいつも、魚が知らないことを話すとき、言葉を丁寧に揉み砕いて話します。そして時々、ふいにそれをやめて、難しいことを口にするときがあるのでした。そういうときは何度、どう問い直しても、するりするりとかわされることを、魚もすでに学んでいます。
「恵みの季節って、何がそんなに恵まれているの?」
「地上では、食べ物が」
「それはいいことだ」
 間髪入れず、魚は答えました。お腹が弱々しくへこみそうです。ここ数日、まともな食事にありつけていませんでした。深海では珍しいことではありませんが、それでもやはり、空腹は慣れるものではありません。食べ物に恵まれるのであれば、それは確かに、何よりの恵みです。
「じゃあ、宇宙では?」
「地上が、楽しそうにしているのが見えるわ」
 星は当たり前のことのように、そう答えました。ふうん、と返事をします。
「きみって、優しいんだね」
 魚の言葉に、星は聞こえないふりをしました。同時に魚は、宇宙に恵みの季節は訪れないことを、何となく知りました。宇宙にいた星がそれを知っているのは、地上を見つめていたからなのです。楽しそうに浮き足立つ下の世界を、眺めていたからなのです。
 ふとずいぶん昔のことを思い出して、魚は久しぶりに上を向こうとしました。けれど長い年月、動かさなかったためでしょうか。背骨は以前よりずっと硬くなり、到底、上など見られはしませんでした。
 なんだかあまり、それを寂しくも思いませんでした。どうかしたの、とたずねる星に、何でもないよと答えます。

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