泡沫シーソー

 傾く瞬間、すべてが変わる。そんな一日がここにある。
「嘘はいかが? お一つ十円だよ」
 いつぞやの春を彷彿とさせる台詞に、手にしたコンビニの袋へ向けていた視線を上げれば。昼を目前にした穏やかな日差しに不似合いな、黒ずくめの姿が目に入る。所々朽ちかけたいつものベンチ、そこに落ちる捻れた木の影のような、ゆるりと脚を組んで笑う長身。目元を覆う黒髪の上に、さらに黒い帽子を被っている。その顔を笑みと判断させるのは、口角だけだ。
「相変わらずね」
「あれ、さすがにもう驚かないか」
「まあ、見慣れたっていうのかしら。……隣、空けてもらえる?」
「ん」
 相変わらず。頭の先から爪の先まで変わらずに見える彼へそう言って、叶恵はその左隣へ腰を下ろした。昼食をこの公園で摂ることは珍しくない。習慣のうちのひとつとして、足を運んだだけ。だが、ここへ来る途中で、今日が何の日かということには気づいていた。出くわす予想ができなかったとは言えない。
「エイプリルフール、ね」
「そう。楽しまなきゃ損だぜ?」
「その程度で売れると思ったら、大間違いよ。どうせ楽しむのは私じゃなくて、貴方なんだから」
 それでも進行方向を改めずに歩いてきたのは、偏に、このところ公園で彼と会うのは珍しいことでもなくなってしまったからだ。以前の叶恵であったら気づいた時点で会社へ引き返していたのだろうが、最近はこれといったイベントのない日でも時々ベンチで出くわしているもので、今さら避ける気にもなれなくなってきた。
 厄介ごとの代名詞がいると分かっていて向かうなど、いよいよ感覚が狂ってきたのかと自分でも思うが、どのみち四月一日と十月三十一日に彼を避けることは不可能なのだから仕方ない。こうして昼に会わなければ、叶恵が家へ戻ってから押しかけてくることは存分に分かっている。もしくは帰り道に捕まるか。結局のところ、早めに会うか後で会うか、その二択である。
「で? 買わないの、嘘」
「今の話、聞いてたでしょう。買っても買わなくても、楽しむのは貴方なんだからいらないわよ」
「せっかくのいい日なのに、つまんないなぁ」
「いいじゃない、エイプリルフールって言ったって、実質あと少しなんだから。私、お昼を食べにきたの。お菓子はないけど、サンドイッチならあるわよ」
 膝の上に置いたビニール袋を開けて、昼食にと買ってきたものを並べる。きっといるだろうと気づいたので、いつもより心持ち多めに用意した。だが、彼は差し出されたサンドイッチを見ると、少し迷ってからその手を別の方向へ向けた。
「俺はいいや、こっちだけ一口貰うよ」
「え」
「ストレートね。ホントはアップルティーのが好きなんだけど」
 カチ、とキャップの開けられる音が響く。傾いたペットボトルの中で、紅茶が日差しを吸い込んで光った。ぼう、とその光景を眺める。黒い爪が、赤に近い華やかな透明を背に並んでいた。
「……何?」
「え? あ、ああいや、何でも」
「ふうん」
「何よ、その不満そうな感じ」
「別に? 間接キスでも想像したのかと思ったけど、違ったっぽいから」
「な……っ」
 宙にふらつかせたままだった手を、さっと引く。何言ってるの、と言いかけた言葉は飲み込んだが、とっさに出た表情までは隠せるものでもない。ぺろりと舐めた唇を吊り上げて笑われ、叶恵は空いたほうの手でペットボトルを引ったくった。零れそうになる中身を、揺れるままに飲む。
「……これくらいのことでどうこう思うような、可愛い歳じゃないから。勝手に飲まないでよね」
「しょうがないでしょ、一本しかないんだし。あんたが食べるの見てるだけっていうのも退屈」
「だから、サンドイッチならあるって言ったじゃない。好きじゃないなら食べろとは言わないけど、紅茶もストレートじゃ不満があったみたいだし、何なら良いって言うの? 食の好みが合わないのかしら」
「あんたと合わないんじゃないよ。多分大抵のものが普通か、それ以下なだけ」
「……とんだ偏食。だからそんなに細いのよ」
 売り言葉に買い言葉。半ば話を逸らすために持ち出した話題でもあったが、思いの外、受け答えがあったものでつい本音が漏れてしまった。レタスとチーズのサンドイッチを片手に、固形物を一口も受け取らなかった彼が、ゆるく笑って脚を組み直すのを見ている。言われてみれば、まともな食べ物を口にしているところをほとんど見たことがない。十円玉か、お菓子か。せいぜい先ほどの紅茶くらいである。
「普段、何食べてるの」
「興味ある?」
「そういうんじゃない、って言わせようとしてるでしょ」
「ご名答。イイね、たまには騙されてくれないあんたも新鮮だ」
 いつもは間抜けだとでも言いたいのだろうか。思わずそう反論しかけた口を、固く結ぶ。勢いに乗せられてしまうと、いつの間にか、会話の主導権を奪われるのは目に見えている。じっと見据えて沈黙を保つ叶恵に、根負けしたような声が言った。
「イイけど、内緒。あんたの想像に任せる」
「私、貴方が今さら何を主食にしていようとそんなに引かないわよ。蛙でも蝙蝠でも、蜥蜴でも」
「なんであんたの中の俺は、そんなにおどろおどろしいもんが好きなわけ」
「私の思いつく範囲で、できるだけ人間離れしていそうなものを選んだんだけど」
 人を魔女か何かみたいに、と吐き捨てられて、だって、と言った先の言葉を紅茶と一緒に飲み込んだ。人並みに現実主義の叶恵に絵本の世界を信じる趣味はなかったが、これまでの彼の行いを振り返れば、その自信は薄れる。ハロウィンの夜に、この公園の上空を飛んでいたのは紛れもなく、ここにいる彼であり自分ではなかったか。一度や二度ならトリックと思えるものでも、限界はある。現実主義が手のひらを返して、自分の目で見たものを否定するという現実逃避もできない。
 こうして近づく度に、ふと距離を詰めたり詰められたりする度に。深くなる戸惑いが、胸の奥底にある。貴方は一体なんなのか、という、あまりにも今さらで、率直に聞くのがどうしてか躊躇われる謎。
「残念ながら、あんたの考えつく範囲のものじゃないのかもね」
「……そう。やっぱり好みが合わないのね」
「強いて言うなら、十円玉がいいかな」
「ほらね、大前提から違ってるもの。それに、偏食なのに妙に安上がりだし」
「そう思うなら、買ってくれりゃいいのに。嘘」
 安い、手品のような。始まりに戻る会話に、叶恵は笑った。食べ終わったサンドイッチの包装をビニール袋にまとめ、口を結んでごみ箱へ投げる。外れだ。この手の些細な賭事は、物心ついた頃から当たった試しがない。真っ直ぐに入ったら、一言でいい、聞いてみようと思っていたのに。
「いらないわ、嘘はどうせ嘘だもの。それに、もうすぐ午後でしょ」
 エイプリルフールごっこがしたいのなら、つれなくしても私を相手にするのはどうして、と。
 楽しみたいだけならば、もっとノリのいい人間がたくさん見つかるはずだ。訊ねてみたい気持ちはあったのだが、同じくらいに、どんな返事を聞いたところで今日の日付を思えば、手放しで信じる気にもなれないのだろうなということも分かっている。叶恵はそんな自分の中の拮抗する盾と矛に目を瞑り、鬱憤を払うように言った。
「今から買ったって、間に合うとは思えないから。残念だけど、今年の嘘はなしね」
 公園の中心に立つ、時計を指さしてそう告げる。針は今にも正午を跨ぎそうだ。ベンチを立って、落としたごみを拾い、ごみ箱へ押し込んだ。キィ、と雨風に晒された開閉口が音を立てる。
「叶恵」
 背中に、呼びかける声があった。隣合えばあんた、と呼ぶその声に、振り返って、何、と言おうとする。瞬間、風が前髪を揺らして吹いた。それは叶恵の前だけでなく、向き合った彼の前も通り抜ける。
 あ、と唇だけが動き、声が出ない。古い時計の針が、ぶれるように動くのが見えた。
「――好きだよ」
 ガラン、と脳へ響くような、鐘の音が耳に痛い。正午を告げるそれに重なって、目の前の人から言われた言葉に、叶恵はその場へ立ったまま瞬きをした。弧を描いたまま、どうと続けることもなく動かない口角。いつの間にかベンチを立っていた彼を、ただ見上げる。
 傾く瞬間、すべてが変わる。そんな一日がここにある。午前の言葉は許される嘘、午後の言葉は真のもの。十二を挟んですべてが変わる。ならばそのちょうど真上に、落ちた言葉はどちらへ行くのか。
「今の、嘘……よね?」
 立ち呆け、叶恵はようやくそれだけを絞り出した。彼は答えない。ただ、いつものように深く、にいと笑った。
 鐘の音がゆっくりと収まっていく。頭の中を巡るのは、彼が嘘吐きの日と呼ぶ今日の日付。しかし今日はその嘘を、誰が買ったというのだろう。
 叶恵は答えの返らない問いかけを宙へ放ったまま、立ち去ることも、もう一度同じことを訊ねることもできずに、今さら昇り始めた熱を堪えてペットボトルを握りしめた。
 脳裏に先の一瞬見た、黒い眸が甦る。再び髪に隠されたその目に、今の自分はどう映っているのか。これがすべて嘘だとしたら本当に滑稽に映っているに違いないと、そう思うのにたった一言、雑な嘘ねと否定できないのは。なんてね、を忘れたまま、何事もなかったように手招きをして歩きだした彼のせいなのか、あるいは未だこうして立ち尽くしている自分のせいなのか。

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