梔子の戀
「濡れませんか、そこ」
生まれて初めてできた恋人は、雨の中で出会った。六月も半ばに差しかかった、紫陽花色の雨の降る早朝。掌のような白い花を咲かせた木の下で、座り込んでいた。首の後ろで一つに結んだ束から漏れた黒髪が、水の重さに垂れ下がって、紺色の着物の襟にまで触れようとしている。
「良かったら、どうぞ」
「え?」
「うち、すぐそこですから。使ってください」
芯の仄かに黄色い、灰色の眸。見慣れないその色合いに、ほんの一瞬、傘を差し出す手が止まってしまった。つ、とその目元を水滴が流れたことで、我に返る。大きな白いマスクをしていた。
「どうぞ」
麹塵色の傘に、濡れた黒髪がよく映える。戸惑うその人の手に、持っていたハンカチも一緒に渡しておいた。そのままでいては、風邪を拗らせそうだ。もっとも、これっぽっちの布ではもう手遅れかもしれないが。
「あ……」
「それじゃあ」
傘を渡してしまった私の肩には、ぽつりぽつりと雨が降り始める。短い髪を振り払って、木の下の人に背を向けて走り出した。家までの道は、路地を一本抜けるだけだ。ここからであれば、そう濡れることもない。
「――良い雨ですね」
ふ、と鼓膜を揺らした低く柔らかな声に、回想から引き上げられる。紺色の袖から覗く手が、左肩に回された。必然、右に立つ人との距離が近くなる。果てしなく零に等しいそれに、見つめていた雨景色が跳ねたかと思った。それが自分の心臓が跳ねたことによる錯覚だったと、気づいて人知れず、小さな息を吐く。
そうして平静を装い、隣を見上げて私は言った。
「どうしてですか」
「貴女に、初めて会った日のことを思い出します」
そう思いませんか、と。黒髪の間から覗く灰色の眸を細めて、彼は言った。最奥で揺れた黄色に、ちり、と胸が焦がれる。二人の中心へ寄せるように持ってこられた右手には、たった今、回想の中で見た麹塵色の傘。ぽたり、骨の湾曲を伝って零れた水に、映り込むのは白い花。そんな幻も見るほどに、思い出していたところだ。彼と同じ日のことを。
「……季節が違いますよ。あのときより、雨が冷たいでしょう」
「ええ、そうですね」
「はい」
「じきに、一年になりますが。あれからというもの、雨が降るたびに思い出すので、何度雨の日が過ぎても昨日のことのようでした」
悟られたくなくて、あえて遠く放すようなことを口にしてみれば。緩やかな返答に、思考が閃光を放つ。言葉が見つからずに視線を背ければ、それ以上には何も言わず。彼が淡々と歩いていくので、私も自分の爪先を見つめたまま、同じ傘の下を歩き続けた。水溜りの跳ねる音が、鮮明に広がる。
――季節が一巡りする前の、六月の朝。路傍の木の下にいた人は、今では私の隣にいる。
あの日、散歩から駆けて帰り、玄関のドアを開けた後で、傘とハンカチを返してもらう約束をするのを忘れたことに気づいた。ああ、とは思った。同時に、仕方ないかとも思った。貸してくれと頼まれたわけではない。ただ通りすがりに、私がすれ違いきれずに差し出したのだ。蒸した朝とは言え、水を浴びれば冷えるだろう。どこの誰かも知らないが、使ってくれればそれでいい。川岸に置き去らず、家に帰るのに使ってもらえれば充分だ。
本心から、そう思っていた。だからこそ、翌日の朝、同じ木の下でその人を見つけたときには驚いて足も止まった。
貴女には、ここにいれば会えるような気がしましたので。水に濡れていない黒髪の間で微笑み、差し出された傘とハンカチを受け取る。几帳面に畳まれたそれから、仄かにジャスミンのような薫りがした。
それからというもの、私の習慣であった早朝の散歩に、彼と会って立ち話をするという新たな道が加わった。待ち合わせをしているわけではないから、いつも正確に顔を合わせるわけではない。三度に一度か、あるいはもっと少なかったか。記憶を掘り返しても数までは分からないが、出会いの木の下で、或いはすぐ近くの川岸で。言葉を重ねるごとに感情は形を変え、秋、密やかに熟れた実の落ちるように、私たちは知人から恋人へ関係を変えた。
変わったことはいくつもある。あの、と呼びかけ続けていた彼の名前を知ったこと。手を繋いだり、ふとした拍子に肩を抱かれたりするようになったこと。待ち合わせを、どちらからともなく言い出せるようになったこと。そうして会うのが早朝に限ったことではなく、今のような、私の学校の帰りに合わせた時間である場合も増えたこと。
ただ、それでも決して変わらないことが一つ。
「あ、梔子さん」
「はい?」
「動かないで、ください」
彼が、大きな白いマスクをしていること。羽織の裾を掴んで引きとめ、少し高い位置にある灰色の眸の目尻へ手を伸ばす。睫毛の下に、いつの間についたのか、雨粒が一つ。指の腹で拭うと、傍にあった前髪を引っかけてしまい、それも元に戻した。伸ばした手の先で、閉じられていた瞼がふっと開いて微笑う。
「どうも、ありがとうございます。……それにしても」
「何ですか?」
「貴女から動かないでなどと言われるのは、滅多にないので。少し、期待をしてしまいました――今日は貴女から、してくれるつもりなのかと」
そう言ってとん、と、軽くマスクの上をなぞる仕草に。彼の抱いたという期待の意味を理解して、喉を昇った熱が頬に宿るのを感じた。同時に、冷たく胸を冷ましていくものが思い出される。それが邪魔をしていつものように言葉でかわせず視線を逸らせば、伸びてきた手が、俯いた輪郭を覆う短い髪をゆるりと梳き、言った。
「どうかしましたか。何も言ってくださらないとは、らしくもない」
「何でも言い返すのが癖だって、そう言っていますか」
「いいえ? 耳慣れたはずの冗談を、笑っても怒ってもくださらない貴女に、私が不安になっただけです」
遠回しに、自分を弱く見せて促すのは狡い。言ってごらんと言われたら結構ですと言えるものも、言ってくださいと乞われれば無闇に跳ね除けられなくなってしまう。例えそれが、使い古された常套手段と分かっていても。雨の路地裏、前後の道に人がいないことを確認して、手を引かれるままに口を開いた。
「今日、学校で友達に言われたんです。昨日、和服の男の人と、川岸の木の陰でキスしていたでしょうって」
「お友達が、この近くに?」
「住んではいません。たまたま私に、なくした課題の資料を借りようとして、うちへ行くところだったそうで」
「それは、大事な用事を妨げてしまいましたね。資料は手に入れられたのでしょうか」
「今日、学校で貸しましたから」
さして悪びれた様子はなく、そうですか、それなら良かったですねと、課題を先に終えていた私を褒めるように頭を撫でる。傾いた傘を立て直して、彼は言った。
「控えめなお友達ですね。学校で会うのを待たなくても、せっかく見かけたのですから、貴女に声をかければ良かったのに」
「声をかけられたら、何て言うつもりなんですか」
「何て、とは?」
「……頷いても良かったんですか。私は今日、あの子たちに、そうよ恋人とこっそりキスしたの、って」
顔を上げて、眼前にある眸を真っ直ぐに見つめる。手を伸ばして、指でそのマスクをなぞった。
生まれて初めてできた恋人は、口無しであった。人に紛れて静かに暮らし、香りを食べて生きる。周囲の空気を固めて自らの声を作り、言葉を操るが、本当はそれを放つ口を持たない。雨の季節に白い花を咲かせる、川岸の木に憑いた妖だ。
見開かれていた灰色の眸が、ふっとその視線を和らげた。
「私にとっては、そうですが。貴女にとっては、違いますか」
「いいえ」
答えに、迷いはない。私は初めから、自分のしたことが分からなかったから、学校での質問に答えられなかったわけではないのだ。彼はその返答の背中を押すように、はい、と頷いた。心なしか、安堵したような目をして見える。嗚呼、これも先ほどの手と同じ、幾度となく使われてきた常套手段だろうか。
「貴女にとっても、私にとってもそうならば、それが正しいのではありませんか」
「本当に?」
「はい」
「本当に、梔子さんにとっても、そうでしょうか」
それでもいい。見えない糸の先にかけられているとしても、そうでなくとも。開いてしまう口のある私の秘密の隠し方など、彼の目には穴の開いた障子のようなものだろう。
帰り道、手を離す前に口づけを交わす。いつからか自然と生まれた習慣だが、時折考えることがあった。この邂逅にも似た一瞬に価値を覚えるのは、私だけではないのだろうかと。二つの体に唇は初めから一つで、そこに触れられたという結論は、離れてしまえば私の身にしか残らない。ならばこの心臓の瞬きは、胸の熱さは。もしかしたら、それさえも本当は私だけのものなのではないだろうか。
彼はただ、まるでそこに意味があるように振舞っているだけ。人の身である私の文化に、形を合わせてくれているだけなのではないだろうかと。
「可笑しなことを言いますね。貴女は、何も分かっていない」
「え……」
「価値のないことを繰り返すほど、無意味な嘘で繕ってはいませんよ。思慕の感情を食べるわけでも、魂を頂くわけでもないのに」
「それなら、どうして」
「理由など、本質的には恋そのものと変わりないのではないでしょうか」
緩やかな否定に手折られた言葉が、足元に散っていく。跳ねる大粒の水が弾けて、視界の端で次々と光っていた。
「恋人ができると、幸福なのはなぜでしょう。誰かを、生まれたときから手に入れている人などいません」
「梔子、さ」
「ないものだからこそ、欲しいと思う。与えられると、満たされたように思う。一人で浴びている間は冷たいだけの雨でも、傘を与えられれば、居心地の良い思い出に変わることもあるように」
肩を押されて、雨の続く路地。乾いた軒下の壁に、背中がつく。見上げた私の頬の横に片腕をつけて、彼は微笑んだ。ジャスミンによく似た薫りが濃くなって、水の匂いを遮る。
「私は、口無しなので。貴女の唇に、惹かれるのです」
灰色の眸が近くなってきて、芯の黄色が見えるほどになり、静かに目を瞑る。ふわりと、マスク越しの肌の触れる感触があった。その向こう側に、私と同じ唇はない。頬や額と大差のない、温かな皮膚があるだけだ。
確かにそう、分かっている。けれどそれでも、同じくらいに強く思うのはなぜだろう。この何度触れたとしてまっさらなはずの唇に、口づけとは何であったのかを教えるのは。破れそうで破れない、恋の味を覚えさせるのは、私にとって目の前にいるこの人以外の誰でもないのだ、と。