ヤカリハリネX

 メイはそれを、黙って見つめていた。止めるつもりはなかった。ここで詠唱を止めてしまったら、ハキーカが攻撃を受けることになる。止めないことは、鐘楼魚を倒すことへの間接的な加担になる。魔物といえど、命を絶つことに手を貸す。それを恐ろしいことだと思えるのは、ハキーカがもしここへ来なかったら、いずれ絶たれるのは自分のほうだったと、今ならそれをはっきり理解できるからだ。
 宿命と思っていた生け贄のさだめを、ハキーカが覆した。鐘楼魚から見ればそれは、運命に降って湧いた災厄なのだ。ハキーカが来て、砂の家から小舟に乗って連れ出されるまで、メイは自分の宿命を確かに受け入れていた。あの瞬間まで、死ぬのはメイだった。
 二つの命のさだめが、今、天地を入れ替えられていく。
「ラーナ、ブライン――暗闇よ」
 風に乗って打ちつけた水飛沫を受けて、膨れ上がるローブの上で、フードが外れて白髪が絡むように舞い上がった。白蛇のように、見上げるメイの眸の中で夜空をかき散らす。
 宙に点々と浮かんだ炎に囲まれて怯んだ鐘楼魚を見据え、ハキーカは静かな声で、最後の呪文を放った。
「呑み干したまえ」
 暗い夜の大気が、鐘楼魚の背後で二つに割れる。そのまま漆黒の布で包むように、みるみる闇は色を濃くして、鐘楼魚の体を呑み込んだ。叫び声だけが最後、この湖の上に残った。鐘の割れるような鳴き声が、鼓膜を劈き、やがて消えていく。
 残響さえも聞こえなくなったとき、何の音もそこにはなかった。ただ、微かに震える湖面で松明の灯りが揺れていた。所々、鐘楼魚の放った水で火が消されている。メイは砂の家の足元に映った月を見て、空を見上げた。
「……終わったんですよね」
 鐘楼魚の姿のなくなった空には、また元通りの満月が、少しだけ位置を高くして昇っている。確かめるように呟いた声に、ハキーカがそのようですと振り返った。へたり込んだままのメイを見て、驚いたように瞬きをする。
 ハキーカは鐘楼魚が完全に消滅したことを確かめて、メイの前に屈みこんだ。
「離れすぎないよう、私の足さえ見ていてくれれば、あとは目を閉じていてもよかったのに」
「後ろにいたのに、目を開けていたかどうかなんて、どうして分かるんですか」
「そうですね、どうしてでしょう」
 ふわりと、黄緑の刺繍の入った白い袖が、遠慮がちに頬を掠めた。目尻をなぞられて、メイは反射的に瞼を下ろす。その瞬間、睫毛を伝って瞼の合間から熱いものが零れた。確かめるよりも早く、刺繍の中に隠れて消えてしまったが。
「目を閉じていた人は、そんな顔はできません。……怖かったですか」
「少しだけ。……でも、それは鐘楼魚でも、ハキーカさんでもなくて」
「ええ」
「生きたいっていう気持ちが、強まりすぎて、どうしたらいいのか分からなくて。運命が変わるんじゃないかって、本当に変わるんだって、戦いを見ていたら実感が湧いて、どうか私が生きる未来に、って。気持ちが、強すぎて」
 吐き出すように、メイは言葉を上手く選ぶこともできないまま、そう一息に話した。
 鐘楼魚とハキーカの戦いを見ていたあのとき、頭の中に、村のことなどまったくと言っていいほどなかった。ただ、願っていたことは、運命を覆してほしかった。砂の家にいて、これほど強烈に何かを願ったことなどなかった。願いというには強すぎて息の苦しくなるような切望が、胸を締めつけて、心臓が動いているということを初めて理解する。
 本当はずっと、その重さに気がつかないように、生きてきたのかもしれない。欲し、求めるという感覚の声が嗄れるような苦しさと、貪欲に膨れ上がる感情に制御ができないことへの戸惑いに、俯いたメイの頬から手を離して、ハキーカは言った。
「当たり前の本能を一つ、取り戻したにすぎませんよ」
「本能?」
「生きたいと思うことが、罪やわがままになる人などいません。当たり前を、一つ思い出しただけです。貴方が本当の意味で、砂の家を出られたという証ではありませんか」
 散り散りになって逃げていた人々が、少しずつ集まってくる。ざわめきと松明の灯りの中でそう微笑って、ハキーカはまるで生まれた子供を祝福するように、メイの黒髪を撫でた。

「本当にもう、行ってしまわれるんですか」
 雲一つない空の下を、砂を運ぶ風が透明に流れていく。村を巡る水の、仄かに肌を潤すような湿気。オアシスの風は、オアシスにしか吹かない。この石舟を数歩も外へ出れば、そこはもう、乾いた砂の荒野だ。
「ええ、西へ向かう旅の途中ですから。滞在中、色々と良くしていただいてありがとうございました」
「とんでもない。何度も言うようですが、お礼を言わねばならんのは、我々のほうです。村を救ってくださったこと、このような短い期間では伝えきれないほど、心から感謝しています」
 果てしなく広く、どこまでも続いて見える砂漠を背にして、ハキーカは差し伸べられたタルシの手を取って微笑んだ。白い指、細い腕。白髪の間で蛍石の眸を細めたその人を、メイはタルシの隣から、静かに見つめていた。ハキーカは今日、再び一人の旅人としてラブカを出発する。
 鐘楼魚を倒してからの三日間、ハキーカは村長の家に滞在し、村の恩人としてもてなしを受ける一方で、魔法や魔物に関する多くの知識を村人へ語った。朝晩の食事の席で、昼の集会の場で、夕べの散策のついでとして。魔法は、魔法使いがいなくては扱えない。けれど知識があれば、今後また似たようなことが起こっても誤解や間違いに苦しまず、デウラルの国に正しい対処を求めることもできる。ラブカの人々はそれを一つでも多く、正しく伝えるため、彼の話を丁寧に書きとめながら聞いた。
 メイはこの三日間、ほとんどの時間をそのハキーカと共に過ごしていた。砂の家に戻る必要をなくした今、彼女の家が村長の家だったという理由も勿論ある。メイは村長の、末の孫だ。父親は会うことのかなわないまま、数年前に亡くなっていたが、母や姉、その他の親族とは赤子のとき以来の再会を果たした。
 血縁者だという感覚は、十八年という長い時間に隔てられて、すぐには舞い戻ってくるものでもない。だが、それでも本来の「家族」という形を体験できたことは、メイにとってかけがえのない喜びであった。同時に、自分がその輪の中に入ることにまだ慣れず、記憶がないとはいえ生まれた家だというのに、常に緊張が付き纏う。
 そんなとき、ふとハキーカの姿を探した。彼は人々の集った宴の席でも、入り口の傍にメイの姿を見とめると、左手でとんとんと隣を叩いて、何も訊かずに傍へ呼んでくれるのだった。
 小皿に取った料理をつまんでいるときも、昼下がりにあの湖の横を通って食事処へ向かうときも、夕暮れに村を散策しながら家路を辿るときも。ただ何かが幸福で、できるだけ傍にいたかった。ハキーカに対しても、緊張はする。家族や他の村人たちに比べて、出会った時間の新しさはそれほど変わらない。けれどそこに一匙の、誰とも違う喜びがある。メイ、ここにいたんですね、と彼が自分を連れ出してくれるとき。高鳴る胸の穏やかな緊張は、母にも姉にも、誰にも作れない。
「メイ、君もほら」
「え? ……あ」
「どうしたんだ、ぼんやりして。挨拶をしないと」
 タルシに背中を叩かれて、メイはようやく差し出されていた手のひらに気づいた。指先から腕を辿って、目の前の人の顔を見上げる。ハキーカはいつもと変わらず、落ち着いた表情を浮かべていた。フードの縁からこぼれた白髪が、メイの目の高さで、ちょうど七色の日を弾く。
 握手を、求められているのだと分からないわけではなかった。けれどなかなか、手を動かすことができなかった。餞別の握手だ。繋いだら、やがて離れてしまう。当たり前のことだと思うのに、それがとても、胸に詰まって苦しい。
「……メイ」
 視界の中にあった手が、ふいに持ち上げられて、柔らかな感触が頭に触れた。寂しい、とはたった一言か二言の、ありふれた言葉さえ侵蝕する感情だったのか。さようなら、お元気で。ありがとう、お気をつけて。本当に言うべきことは、この三日間で言ってきた。今さら残された言葉など、それくらいしかないはずなのに、唇が固まって動かない。
 別れの言葉なら考えるまでもなく、最初から決まっているのに。早く言わなくては、と顔を上げたメイの目を見て、ハキーカはふと、いつもの表情を凪ぐように揺らした。
「貴方は何を、迷っているのでしょう?」
「え……?」
「今、何が苦しくて、そんな辛そうな顔をしていますか。表情は、見れば分かります。でも、貴方の胸の内は、貴方にしか分からない」
 ハキーカは両手で、行き場を失ったように握り締められていたメイの両手を包んで、真っ直ぐに言った。
「望むことや願うことがあるならば、時には後悔をしないように、それを口にすることも必要です。思いは、そうやって主張してもいいんです。貴方はもう、自由になったのですから」
 瞬間、メイの胸を圧迫していた灰色の雲が、真っ白な泡になって弾けて消えた。鼓動が抑え込もうとする力をなくして、鮮明に響く。生け贄という立場をなくした今、メイは自由だった。透明な水で洗い流されたように、心がはっきり、ありのままの形を持っていく。
 砂の家を出られただけが、自由ではない。何かを強く望むこと、自分自身に願うこと。
 望むように、生きていくということ。それらもメイに取り戻された、自由なのだ。
「私……、私は――」
 背後で、村の人々が息を呑むのが伝わってきた。皆、メイの出す答えを、息を潜めて待っていた。隣にいるタルシも、すぐ背中側に立っている家族も、まだ名前も知らない大勢の人たちも。
 メイはその中でたった一人、自分の正面に立った人を見つめて、かすかに震える唇を開いた。
「ハキーカさんに、連れて行ってほしい……っ」
 一息にそう言った瞬間、それこそが自分の本当の望みだったのだと確信した。村で育った時間を取り戻すこともしたい。家族と打ち解けて、もっとずっと、共に生活だってしてみたい。村の人たちと、わざわいのしるしがなくなった今、たくさんの話をしてみたい。
 ラブカにはそんな、置いていくにはあまりに大きいものがいくつもある。けれどメイには同じくらい、自分にとってはハキーカもまた、他のどこにもないものであることも分かっていた。これだけ多くの人がいるのに、彼を見送ったら、心にはその後ろ姿の形をした穴が開くだろう。便りを送る手立てもなく、緩やかに日々を暮らすだけでは、その空洞は深すぎて、きっと何を当てても埋まらない。
「――はい」
 視界が真っ白に染まって、メイは初めて、ハキーカに抱き寄せられたことに気づいた。わあっと、背後で歓声ともどよめきともつかない声が広がっていく。ローブの陰で、ハキーカの手がメイの手を強く握った。ばらばらに耳へ落ちて現実味を持たなかった返答が、徐々に色づいて、確信の持てるものとなってメイを喜びで染め変えていく。
「いつ、とは返事ができないですが、里帰りは必ずさせに来ます。だから……」
 握り返す手の細い指から伝わる、強い願いを感じ受けて、ハキーカはラブカの入り口に並んだ人々、一人一人に微笑んだ。
「共に、行かせてください」
 一陣の風が、遥か東から吹き渡ってくる。
 この日、ラブカを二人の旅人が、手を取り合って出発した。魔法を封じた魔法使いと、魔法を手にしたばかりの少女は旅をする。
 やがて雨期が来て崩れ去ることになる砂の家に、わざわいの娘はもういない。蛍石の旅人が、よく似た少女を連れている。

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