ヤカリハリネW

「魔力を、完全に消し去ることはできません。けれど封じることはできます。私は国を出るにあたって、必要以上に魔法を使わず、魔法使いのハキーカとしてではなく、人間のハキーカとして生きてみようと思いました。それくらい、私の魔法使いとしての立場と、人間としての成熟に、大きな矛盾が生じていると思ったのです。……ああ、ふふ」
「ハキーカさん?」
「……懐かしいです、この感じは。四つの封印を解いたのは、いつ以来でしょう。脱退にあたり、私は自分の魔力を、五つに分けて身に封じました。左右の足と、左右の腕で四つ。この四つは必要とあらば、自力での解除が可能です」
「あ、さっきの……?」
 四つ、とハキーカが提示した場所に、メイは白金と薄緑の鱗があったことを思い出して、思わず声を上げた。ローブを羽織ったハキーカが、はい、と頷く。
「鐘楼魚を相手取るのであれば、やはりこれくらいは余裕を持ちたいですからね。四つの封印は、解いた数に応じて扱える魔力の量に違いが出るのです。最後の一つは、胸にありますが、きっともう解けることはありません」
「どうして?」
「両手足の封印は私の意思で行ったことですが、この一つだけはアストラグスの賢者たちが施したものなのです。私自身の勝手による脱退の代償として、魔力の半分を封じることが命じられました。封印の際に科された解除の条件が、呪文ではなく、アストラグスの討伐隊に復帰入隊することなのです。もう一度、あの国へ戻ったら――私はまた、魔法に呑まれて自らの無力を忘れてしまう気がして」
 無力を知ることは、人間であることを思い出し、自分がいかにそれを忘れた生活に身を捧げていたのかを知ることでもあった。戦って、戦って、いつもいつ倒れてもおかしくない、苛烈な戦いの中心に立っていた。住民を逃がし、時には護って、いつしか自分が彼らと同じ人間でなく、魔法使いという生き物になった。
 被害は悲しみの大きさではなく、報告するための数字になっていた。数が多ければ、悲しみを感じた。少ないときは、安堵した。そこに残る一人一人の悲しみの大きさは変わらないのに、全体を見るばかりで、個々に目を留めることを忘れていた。あの頃、世界がとても小さかった。その中に住む人間は、もはや枯れ枝から掘り出した人形のように、個人を区別することの難しい、小さなものに成り果てていた。
 生存者を数える自分の手を振り払って、汚れた銀の髪を振り乱して泣いた子供を思い出す。どうしてそんなに平気なの。赤紫の大きな目が、違う生き物を見る目をして睨んでいた。あのとき、久しく感じ取っていなかった目の前の人間の感情というものが、激しく雪崩れ込んできて、自分の奥底が掻き乱された心地がした。魔法使いに成り果てた自分に、あの少女が向けた憎しみや悔しさ。瓦礫の山で汚れ一つないローブを纏っていた自分の、何も言えずにその手を離した、言葉一つ出せない不釣合いな空虚。
 十二年の歳月が、流れようとしている。今ならば、きっとあの手を離さなかったし、崩れた石の下で泣いていた少女を「いち」と数える前に、ローブで包んで頭と背中を両腕で抱き締めた。
「半分の魔力で、オアシスの怪物と……、鐘楼魚と戦うんですか」
「そうです」
 メイの不安げな問いかけに、ハキーカは笑って、躊躇なく答えた。
 あの頃に比べれば、魔力は確かに弱くなったかもしれない。けれど、だからこそ手にしたものもある。
「魔法使いとして全力を尽くし、人間として、この村の皆さんを護ります。貴方のことも」
 体に満ちる魔力の感触を確かめるように、ふっと指先に息を吹く。人差し指に、炎が生まれた。目を瞠ったメイの前で、その炎は一気に膨れ上がる。そして天井を掠めると同時に、ハキーカの一声で一陣の紙吹雪となって霧散した。

 鐘楼魚との戦いは、それからすぐに始められた。ハキーカがメイを連れて村の中心へ戻ると、すっかり日の落ちた湖の周りには、村中から集められた大小さまざまな松明が燃やされていた。怪物の姿を、ハキーカが少しでも捉えやすいようにという、村の人々による協力である。
 メイは初めて見る松明の灯りの荘厳さに見入って、ハキーカの袖を掴んだまま、立ち止まって湖を見渡した。夜の中に浮かび上がるいくつもの炎が、一つ一つ、湖面にも映り込んで暗い水の上では金色に輝いている。満月が、ちょうどそのうちの一つの先端に映っていた。
 ――まるで、月を灼いているみたい。
 蝋燭、というものを知らないメイだからこそ抱いた、率直な感想だった。松明の一つが風に揺らいで、湖を見つめるメイの横顔を明るく照らし出す。ふと、ハキーカと話し込んでいたタルシがそれを見て、なんと、と目を丸くした。
 首飾りを外されたメイの首筋には、あれほどくっきりと目立っていたはずのわざわいのしるしが、綺麗になくなっている。
「詳細は、戦いが終わってから説明させていただきますが。簡単に言うと、わざわいは解除しました」
 ハキーカはタルシの視線の先を追って、そう答えた。メイも気づいて、出てくる前に鏡で見た自分の首に、そっと触れてみる。
 空き家で自分の両手足の封印を解いた後、ハキーカはメイの身にかかった封印も解除した。理由は大きく言えば二つあり、一つはもうメイが「呪われた子」という誤解を受けずに済むため。そしてもう一つは、メイの封印を解くことが、鐘楼魚を呼び出す策として最も効果的であるためだ。
 メイの首に痣という形でかけられていた封印は、先天性のものだった。時々、生まれながらに魔力を封じられた状態で生まれてきてしまう子供がいることを、アストラグスで育ったハキーカは知っている。彼らは所謂、動物的な言葉で言えば「突然変異」に近い。親族の中に本来、魔法の素質を持つ者がいないのに、突然生まれた子供が魔力をもっていたとき、封印を受けた状態で生まれてきやすくなる。
 魔法使いの数が少ない地域では、そういった子供が正しく理解されずに、呪いをもたらすと言われたり、反対に神の生まれ変わりのような扱いを受けたりと、風当たりの差が激しいのも事実だ。
 ラブカは基本的に穏やかな住民性だが、信仰としては前者寄りの村だったため、メイは殺されこそしなかったものの、生け贄としてずっと幽閉されてきた。首に手をかけられたような痣を持つ者が、わざわいを招く。実のところ、これは真っ赤な嘘であるとも言いがたい。魔力に対する知識の浅さが結果として誇張した表現を作り出しているだけで、根拠のない言いがかりではないのだ。
 生まれながらに魔力を封印された子供は、できる限り早く、その封印を解かないと、魔物を呼び寄せてしまう。
 これは、まだ本人さえ扱ったことのない手付かずの魔力というものが、封印を解除されるまでは事実上誰のものでもないという、独特の性質を持つことに由来している。つまり、メイの中に宿っていた魔力を、その気になれば封印を解除せずに、ハキーカが借り受けて使うことが可能であったということだ。そしてそれは、魔法使いだけに可能なわけではない。
 鐘楼魚はこの「手付かずの魔力」に惹かれて、メイが生まれたことをいち早く察知し、ラブカに現れたのだと考えられる。砂の家やラブカの村を襲わなかったところをみると、よほど大きな傷でも負っていて、それを癒すのに少しでも多くの魔力が欲しかったのかもしれない。そうでなくても、封印を持って生まれた人間が近くにいることは、自分の持っている力とは別に、いつでも自由に使える魔力の貯水池をひとつ抱えているようなものだ。
 魔物は人間を襲うが、縄張りを巡って種族間での争いも起こす。力の源を傍に置いておける環境があれば、そこに住み着くのは本能だろう。
 つまり、鐘楼魚を呼び寄せたのは他ならぬメイなのだが、間違った知識でメイを生け贄として捧げだしてしまったことこそが、鐘楼魚を十八年にも渡ってこの場所に住ませてしまった最大の原因である。封印の解除さえしてしまえば、少なくとも事態がここまで長引くことはなかっただろう。ただ、そうなると自分の魔力の搾取源を奪われた鐘楼魚が、怒りに任せて村を壊さなかったという保証はどこにもない。
 ハキーカは鐘楼魚をおびき寄せるため、あえてメイの封印を解き、魔物の怒りを逆手に取ろうというのである。
「メイ、私の後に続いて唱えてみてください。ラーナ、スプリカント」
「ラーナ、スプリカント……」
「水よ、熱せ」
「水よ、熱せ――」
 かあっと、手のひらに熱が宿る。体の中を何か、空気とも血液とも違うものが巡るような慣れない感覚に戸惑いながら、メイは言われた通りに湖へ手のひらを翳して復唱した。
 封印を解除してすぐに、ハキーカが魔法の使い方を教えてくれた。正確には、魔力の放出の仕方だ。きちんと学んだわけではないので、詠唱は彼に続かないとできないし、ただ魔力を放っただけでは魔法は上手くいかない。コントロールはすべて、ハキーカがメイの放った魔法に自らの力を上乗せすることで行っている。
 そうまでしてもメイに魔法を使わせたのは、きっとこの水底に沈んで松明の灯りを見上げているのであろう、鐘楼魚を呼び出すためだ。手付かずだった魔力がメイのものとなったことに気づけば、鐘楼魚は必ず、それを確かめに姿を現す。
 ボコボコと水面が泡立ち、あっという間に沸騰した。息を呑んだメイの手の甲に、ハキーカの手が重ねられる。一回り大きなその手のひらに従うように、メイは怯んで握り締めそうになった手を、力強く開いて湖へ翳し続けた。松明に照らし出された、砂の家の周囲で水が踊っている。
 多くはハキーカの魔力によるものだったが、中心に一筋、通っているのはメイの魔力だった。か細いながらにその魔力は、沸騰する湖を真っ直ぐに突き進み、水底へと辿り着く。そして、そこで息を潜めて様子を探っていた魔物の背鰭が、その感触を捉えた。
「――下がって!」
「きゃ……!」
 一瞬早く気配を捉えたハキーカが、メイを背中に回し、空中に手を翳す。氷の壁がそこに生み出されるのと、巨大な水の塊がそれにぶつかって方々へ散るのはほとんど同時だった。辛うじて地面に叩きつけられることを逃れたハキーカとメイの前で、氷の壁を伝い落ちた水が、ジュウジュウと音を立てて足元の砂を焦がす。
 やがて、氷が完全に消えたとき、ハキーカの肩越しに見た生き物の姿に、メイは目を見開いた。
 真鍮でできたような、金の鱗。
 剣を支柱に織物を張ったような、薄い膜の向こうに骨格の透ける硬そうな鰭。
 金色に輝く、長く垂れ下がった尾。
 その中心で煌々とこちらを見下ろしている、真珠のような二つの目。
「これが……鐘楼魚……、オアシスの怪物……」
 予想を遥かに凌駕して神々しいその姿に、メイは思わず、無自覚に首を横に振った。敵わない。本能が、目の前に現れたその大魚を恐れていた。体が足首から徐々に震え出し、上手く頭が回らない。圧倒的に勝つことのできない、人間の力の及ばない生き物だと、一目見ただけで分かるものがそこに浮かんでいた。
 戦いの様子を代表として見るために集まっていた、タルシを中心とする男たちが、どよめきながら散り散りに遠ざかっていく。彼らの一人がメイを呼んだが、足が竦んで座り込んでしまって、その場から動けなかった。
「メイ」
 呆然と鐘楼魚を見上げたままのメイに、ハキーカが呼びかける。はっとして我に返ったときには、すでに頭の上に水球が迫ってきていた。氷の壁がそれを弾いて、灼けるような雨が周囲に降る。
 頭上を目がけて翳された手のひらから、螺旋を描く風が立ち上がり、二つ目の水球を鐘楼魚へと押し返した。散々煮え立ったばかりの水が、燻したような金色の鱗を叩く。鐘を撞くような鳴き声が上がった。くらりと起こった眩暈に、ぼんやりしないよう、何とか目を開ける。
「できるだけ離れずにいてください。鐘楼魚は、私よりも貴方を狙っています」
 魔物が怯んだ隙にそう伝えて、ハキーカは躊躇することなく、再び前を向いた。鐘楼魚は初めこそ、確かにメイを狙って攻撃していた。それは戦いを知らないメイにも分かるくらい、明白なものだった。
 だが、何度となくハキーカがその攻撃を防ぐうち、鐘楼魚は目標をまず、邪魔なハキーカに定めたようだった。力任せに水を操り、ハキーカを、そしてあわよくばメイを呑み込もうとでもするかのように、二人を目がけて正面から水球を放つ。前に立ったハキーカは、メイに復唱させるために唱えたときとは比べ物にならない複雑な呪文を唱えながら、詠唱なしに扱えるものでその攻撃をかわしたり、跳ね返したりしていく。
「ラーナ、ヘイブル。土の導き、水の蓮脈、此処に遇いて結せ」
「……っ」
「我は名の下に律する。ラーナ、デュスパ、雷鳴を纏い、矢となりて注ぎ降りたまえ」
 ――これが、魔法使いの魔法。
 湖から盛り上がった水が、周囲の砂を含んで固まり、青白い光を帯びた雷の矢となって鐘楼魚の左目を貫いた。目の前で繰り広げられる光景に息を呑むことさえ忘れながら、メイは慌てて耳を塞いだ。鐘楼魚が叫びを上げる。くねらせた身を滑り降りていく月光の、硬質な金色が眩しい。
 ガンッと金属質な音を立てて、水の盾が振り下ろされた尾を弾いた。跳ね返すと同時に、壊れた盾はいくつもの氷の礫となって鐘楼魚へ向かっていく。鐘楼魚の鱗もまた、金属のような音を立てた。松明に照らされた水面へ、金色に輝きながら、砕けた氷と傷つけられた鱗の破片が落ちる。
 その、薄く削られた花びらのような鱗の一つが、ハキーカとメイの間に舞った。白い背中の上で、金色が今、一片散っていく。メイは戦うということを、その瞬間に、生まれて初めて知った言葉のように、真新しい形で理解した。舞い落ちた鱗は、メイの目に「生命の終わり」を焼きつけた。生物の体だったものが、削られ、剥がれてこぼれる。
 命が削られていくということを、初めて本当に、言葉では言い表せないものだと思った。鐘楼魚の背鰭がついに貫かれる。叫びに耳を塞がなかったのは無意識だった。ハキーカは鐘楼魚が湖底に戻る暇を与えず、次の呪文を唱える。

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