ヤカリハリネV

 メイは首の後ろに手を回して、首を一周するように覆い、三角形に鎖骨の間まで垂れ下がるビーズの首飾りの留め金を外した。あえてさらけ出すものでもないので、日頃はこうして目につかないようにしている。そういうものだと、物心ついた頃から何となく教えられてきた。誰が言ったのかなど覚えていないが、疑ったこともない。
「……ああ、やはり」
 首飾りが外されて、ビーズがしゃらしゃらとメイの手の中で音を立てる。ハキーカは晒されたしるしに目を留めた途端、納得したようにそう呟いた。
「ただの痣というわけではありませんが、やはり、そうですか。これはわざわいのしるしと呼ぶには、少し違ったものです」
「違うんですか?」
「わざわいというより、封印ですね。分かりますか? 呪文であったり、魔力であったり、そういうもので何かを抑え込んで、箱の中に閉じ込めるように、本来の姿や力を現せない状態に抑えることをそう言います」
「つまり、これはわざわいを封印しているってことですか?」
「いいえ、そうではなくて、そもそも貴方のそれはわざわいではないのです。貴方の中に封じられているのは、もっと別のもの。魔力ですよ」
 ノクターンブルーの眸が、いっぱいに見開かれる。魔力。呟くようにそう繰り返したメイに、ハキーカは確信を持った声で説明した。
「魔法使いが最も大切とする、魔法を生み出し、操る力です。この辺りの地方では、術士というのでしょうか。魔力を持った方が、術を使うのは聞いたことがありませんか?」
「あります。……その、オアシスの怪物を倒すのは、普通の術士ではできないことだ、って」
「ああ、では非力な印象でしょうね。私も同意します」
「え?」
「人間は、魔法使いなどは本当に無力なものです。術士というのは、たまたま才を開花させて魔法を扱う権利を得ただけの、普通の人間ですからね。……でも、魔法そのものは、時として人の手に収まらないくらいの、強大な力を持ちます」
 ゆるりと立ち上がって、ハキーカはメイに背中を向け、ローブを脱いだ。目深に被っていたフードが一緒に外されて、窓から差し込む夕日の下に、肩甲骨の辺りまである白髪が晒される。薄く布を張ったような、柔でもないがごつごつもしていない印象の背中を、細やかに光を弾きながら流れた。袖の短いシャツから覗く右の肩に、それと左の肘に、ほとんど消えかかった傷跡がある。
 それは特別痛々しく残った傷跡ではなかったが、ハキーカの面立ちとは不釣合いに生々しく、メイは思わず焦ったり恥らったりすることも忘れて、その後ろ姿を見つめた。振り返った眸と視線がかち合い、ようやくはっとして背ける。
 しかし、ほんの少し斜めに背けたその先で、メイの視線はまた止まってしまった。
「メイ、オアシスの怪物という大魚の、鳴き声を聞いたことはありませんか?」
「……っえ、あ、鳴き声?」
「ええ。魚の声だとは、にわかには信じがたいようなものでも構いません。砂の家にいた貴方なら、湖の底から響いてくる声を聞いたことがあるのではないかと思いまして」
 一瞬、話が頭に入ってくるのに時間がかかった。ハキーカはそんなメイの様子に構わず、右の手のひらをおもむろに左の腕へ翳して何かを唱える。そこはたった今、メイが目を留めざるをえなかった部分でもあった。
 左の腕、ハキーカのあまり日を浴びていない肌に張りついた、それよりも白く冷ややかに光る――白金と薄緑の硬質な鱗。
 ハキーカはその部分に手を当て、さらに一言、呪文を唱えた。ぱきん、と鱗が砕けた音がする。あっと思ったときには、外された手の下に、鱗はもうなかった。閉め切られているはずの室内の空気が、わずかに水気を増して潤んだような、不思議な清浄さが漂っている。
「金属を打ち鳴らすみたいな、その、あまり聞き慣れない、高い音なら何度か……」
「耳の奥に響くような、少しくらくらする声ですか?」
「は、はい。だからそれが本当に湖から聞こえた声なのか、あまり自信が持てないんですけれど」
 一段澄んだその空気に導かれるように、おずおずとながらメイは思い出したことを答えた。砂の家にいると、二十日か一月に一度くらい、そういう妙な音を耳にすることがあったのだ。聞いてしまうとほんの一瞬ではあるが、音が耳の奥で反響して、くらりと眩暈がしてしまう。だからいつも、それが自分の中から聞こえた耳鳴りのようなものであるのか、砂の家の外から聞こえてきたものなのか、はっきりとは分からずじまいだった。
「なるほど。それなら、やはり鐘楼魚の声でしょう」
 ハキーカはメイの答えに、納得したように頷いた。鐘楼魚。初めて聞く名前らしき言葉に、メイは小さく首を傾げる。
「オアシスの怪物の、正体ですよ。鐘を撞くような声で鳴くでしょう? 鐘楼魚という名前で、私たちは呼んでいました」
「え……?」
「高い知能と魔力を備えていますが、以前にいた国では珍しくなかった魔物です。真鍮色の鱗で覆われているのも、名前の由来の一つですね」
 様々な疑問と驚きが一気に浮かんできて、すぐには何一つ、聞き返すことができなかった。メイがまず驚いたのは、オアシスの怪物がこの辺りだけのものではないらしいということだった。オアシスの怪物というからには、てっきり一匹だけで、その一匹が数百年に渡ってこの近辺を荒らしまわっているのだとばかり思っていたのだ。
 そして第二に、ハキーカがそれを当たり前のように知っていた、ということだった。
「あの」
「はい?」
「あなたは……、何者なんですか?」
 言葉を探して、振り絞るように訊ねたメイに、ハキーカは右腕に左の手を翳しながら、そうですねと間を繋いだ。何か、ちょうどいい答えを探しているようだった。
 機嫌を損ねれば村を一つ壊滅させるほどの力を持つ、オアシスの怪物を、過去に何度も見てきたような口ぶりで語る、白髪の旅人。メイにとって、今のハキーカはそんな、どこかちぐはぐで謎だらけの掴みにくい存在だった。四角い石を積み上げたのにできあがったものが四角くないような、そんな印象。
 外の人間に会うのが初めてだから、そう感じるのかと思っていたがやはり違う。他の人を知らなくても分かる。旅人は普通、きっとこんなふうに、怪物を冷静に扱ったりしない。
「私は、魔法使いでした。かつて、ワールド・ゼロと呼ばれた国の」
 ハキーカがまた一つ、鱗を砕いて答えた。白金と薄緑の鱗は、彼の左腕だけにあるものではなく、両腕にあったのだ。さらには両足の膝にもあったことを、メイはハキーカが、足首の上で窄まった服の青い裾を引き上げたことで知った。腕にあったものと同じ、ひやりとした光沢を放っている。
「ここから遥か東にある、誰も住めない、と言われていた魔物の巣食う土地を切り開いて、七人の魔法使いが建国したと伝えられる国です。王はおらず、今ではその末裔である七人の賢者と、国中から集められた三十人の魔法使いが統治を行っています」
「東……」
「アストラグスという国です。外からは今でも、ワールド・ゼロと呼ばれていることもあるようですが。三十人の魔法使いは別名、討伐隊とも呼ばれ、アストラグスに今でも多く生息する魔物の退治を専業としていました」
 そこが自分の故郷であると、ハキーカは両足の鱗も腕と同様に消し去りながら、呪文の合間に答えた。アストラグス。メイは初めて耳にする国名だ。もっとも、ラブカ以外の地名はほとんど知らない。東と言われても、それがここからどれくらいの距離にあるのかは、全く想像がつかなかった。
 けれど、七人の賢者と三十人の魔法使いが国を治めているという説明は、ぼんやりながら理解できた。村には村長がいる。そしてそのラブカは、デウラルという国に所属しているのだ。デウラルにはまた、王がいる。例えるならアストラグスではその立場が七人の賢者に、そして村長の立場が三十人の魔法使いに当たるのではないだろうかと思った。
「ハキーカさんも、その中に入っていたんですか?」
 メイは思わず、ハキーカを見上げて口を開いた。
「過去の話です。今はもう、脱退して何年も経ちましたが」
「へえ……」
「アストラグスは、元々魔物の多い土地柄ですから。鐘楼魚も、何度か相手になったことがあります」
 控えめな言い方をしたが、相手になって今この場にハキーカが残っているということは、彼が勝ったということなのだろう。メイは漠然とした印象こそだんだんとはっきりしたものに変わってきたものの、ハキーカに対する急速な距離が、自分の中に生まれたのを感じていた。
 国の中枢に関わる地位に就き、魔法を扱い、魔物を倒してきた人。彼が何度も顔を合わせたという鐘楼魚は、自分たちにとっては、村の終わりと思うような強大な存在だった。誰もかなうわけがないと思っていた。だから、過ごしていた砂の家だった。生け贄になる未来に疑問が全くなかったとは言わない。でも、それが変えようのない宿命だと思っていたのだ。
 抗うことなど、不可能なのだろうと信じきっていた。けれどそれは、ハキーカから見れば何度となく打ち倒してきた相手にすぎなかったのだ。あれほど広く、賑やかに思えたラブカが、狭く囲まれた世界であることを暗に思い知ってしまった。ハキーカはラブカの常識を、いとも容易く破いていく。外の世界から、やってきた旅人。魔法使い。
「……あの、ハキーカさん」
「はい?」
「どうして、今はアストラグスを出てしまったんですか?」
 強い人。無知で非力な自分とは、まるで違う世界から飛んできたような。そう遠くないうちに、生け贄になって終わるはずだった自分の宿命に、突如として割り込んできた矢のような存在を、メイはつくづくそう思わずにはいられなかった。
 だが、ハキーカはその問いに、俄かに表情を曇らせると、メイのそんな傷一つない水晶球のような心象を自ら取り払う発言をした。
「魔法使いは、魔法だけでは戦えないことを深く思い知ったから、でしょうか」
「え?」
「私は、討伐隊の仕事で魔物の絡んだある事件を担当し、その戦いにおいて指揮を取りました。凄惨な事件でした。でも、討伐隊の元に送られてくる案件としては、はっきり言ってアストラグスではそれほど珍しいものでもなかった」
「魔物が、人を襲ったってことですか?」
「ええ。居住地を襲い、多くの住民が犠牲になりました。そのような魔物の急襲というのは、アストラグスの、特に中心地を離れた場所では度々起こることだったのです。指揮にあたって、最善と思える戦いをしました。私を含め、魔法使いたちに被害はなく、魔物を倒してひとまずの決着はついた」
「はい……」
「……ただ、理由は分かりませんが、そのときは近くにいた魔法使いが、急襲に気づくのがあまりに遅かったのです。普通、魔物が現れればその地域の人々からの連絡であったり、魔法の心得のある人からの緊急要請で、討伐隊のうちの誰かが早急に現場へ向かえるようになっていました。魔物が出たら討伐隊を呼べ、というのは、アストラグスの人間であれば、子供でも知っている常識です。あのときはなぜか、誰もそれを行った形跡がなかった。我々が騒ぎに気づいて向かったときには、村はすでに、それ自体が一つの大きな廃墟のような有様でした」
 メイは自分の想像ではあまりに追いつかないと分かるその情景に、知らず息を呑んだ。ハキーカはそんなメイを見ているようで、メイの眸と自分の眸の間に、当時の光景を思い描いているようだった。ひとたび微笑めば柔らかな光を持つ蛍石の眸は、笑みが薄れただけで紙一重の、儚く暗い揺らめきを持つ色に見える。その一瞬、メイの目にはハキーカという人間の顔が、二つの毀れものを抱えた彫刻のように見えた。
「少し、話しすぎたようですね。そんな悲しい顔をしないでください」
「え? ……あ」
「今のはあくまで、私の記憶です。貴方が対峙したものではないのですから、貴方までがこの思い出を、想像で背負う必要はないのですよ」
「ごめんなさい! あの、辛い話をさせたかったわけじゃなくて、私、ただ気になっただけで……」
「ええ、分かっていますよ。私にとっても、何せもう古い思い出なもので、つい思い出すままに話しすぎてしまいました。思い返して痛む心の種類が、当時とは違ってきているのでしょう」
 以前は、思い出すことが恐ろしかった。今はこうして時々思い返さないと、あのときの思いが薄れてしまいそうで、それがとても恐ろしい。ハキーカは自らの身に流れた時間の長さを改めて感じ、申し訳なさそうに眉を下げたメイに軽く微笑んだ。
 砂の家に閉じ込められて育ったという、非凡な時間を過ごしてきたせいか、言葉の選び方には年齢のわりに幼さが見え隠れする。だが、本人にその自覚があるのだろう。メイは人一倍、他者の表情や声色に敏感に反応した。
 無知はある種の、純粋でもある。言葉の巧みさや話の流れで隠さず、純粋に興味だけを持って自分の過去に乗り込んできたメイを、ハキーカは不思議と嫌なものだとは思わなかった。討伐隊時代の話を誰かにしたのは、何年ぶりになるだろう。それを口にこそ出さなかったが、ハキーカは内心、自分がそうも彼女に対して抵抗なく口を開けたことに少し驚いていた。
「ともかく、その事件の後、私は色々と思うところがあって、討伐隊を抜けました。アストラグスでは討伐隊に入ると、脱退後も功績に応じて生涯給金が与えられます。それを受け取る資格は、自分にはないだろうと思い、旅に出ることにしました。……魔法を少し、封じ込めて」
「封じ込める?」
「魔法、魔法、とそればかりで育ってきた私にとって、魔法があっても救えないものがあまりに多すぎたあの事件は、自分の根幹を見つめ直すきっかけとなったのです。魔法は確かに優れているかもしれない。けれど、それを扱う私は、本当はとても無力な人間であることを思い出しました。この手も、足も、魔法をなくして誰かを助けることなど、到底できないのです」
「それは……、そんなこと」
「そういうものです。私はそれに気づいたとき、もしも魔法を奪われたら、私の中には何が残るのだろうと戸惑いました。魔法を持たない私は、想像してみるとそれ以外のことをほとんど知らず、若く、感情さえも乏しくて、空っぽの体に魔力だけが浮かんでいるような人間でした」
 ハキーカは、懐かしむようにそう言って苦笑した。

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