ヤカリハリネT

 荒れ果てた砂漠の上を、渡り鳥が群れをなして飛び去っていく。周囲にその他の生き物の気配はなく、大きな獣もいない代わりに、狐や兎の類さえほとんど生息しないようだった。
 雨期がくれば全体が水の底に沈むという砂漠であるが、乾期にあたる今は、これほど長く歩いてきても湖ひとつ見当たらない。雨期には大人の胸までも水が覆い、乾期には干上がって砂塵を吹き荒らす。両極端なその特性が、水の生き物も陸の生き物も寄せつけず、わずかな植物と鳥や爬虫類など、限られた生き物だけを抱え込む。
 ひいてはそれが、土地の更なる荒廃の原因となっていることは明白だった。生命活動のない大地には、循環がない。
 ハキーカは薄い、蛍石のような緑の眸を空へ向けて、方角を見定めた。月と星が無数に散らばる夜と違い、昼は太陽と影で大まかな位置を知るしかない。しかし、こうして旅に出て早十年、それも今では日常の一端である。
 ふと、砂に煙る彼方に、緑が集まっているのが見えた。目的地である砂漠を越えた先の西へはまだ着かないはずだが、どうやら集落があるようだ。ハキーカは爪先の向きをほんの少し左へ向けて、その緑を目指して歩き出した。

 着いてみると、そこは思いのほか広さのある村だった。黒い板に白のペンキで、ラブカ村、と記した看板が建てられている。雨風に晒されて棘の目立つその看板を眺めていると、近くの建物から、初老の男が顔を覗かせた。ハキーカを見て、驚いたように目を見開く。
「あなた、外の方かね」
「ええ、はい」
「これは珍しい。お一人でいらっしゃったのですか。村に、何か御用ですかな」
 男は口ぶりこそ砕けた様子で話したが、視線はハキーカを捉えてまじまじと、頭の先から足の先まで眺めた。これだけの軽装で砂漠を歩いてきた人間がいるのが、にわかには信じられないといったところか。ハキーカは少し考えて、やんわりと笑みを浮かべて口を開いた。
「西へ向かう旅の途中なのですが、少し、疲れてしまいまして。村へ入って、休んでいってもよいでしょうか」
 足へ軽く手を当ててそう言うと、男は今一度、ハキーカを眺めてから頷いた。
「どうぞ。私はタルシといいます。ラブカの、今は村長が高齢ですので、代理を担っております」
「そうでしたか。ありがとうございます、タルシさん。私はハキーカと申します」
「ハキーカさん、ですか。よければ、食事のできるところへご案内しましょう。ついてきてください」
 タルシは頭に巻いたターバンを結び直して、ハキーカを連れ、村の中へと歩いていった。
 白地に黄緑の刺繍糸で縁取りをしたハキーカのローブが、余所者らしく目を引くのか、あちこちの角から人が顔を出す。ハキーカは彼らと目が合うたび、軽く会釈をした。フードの隙間からこぼれる白髪を、村人たちは尚も珍しそうに見ている。ラブカの人々は皆、ほんのりと褐色の肌に、艶のある黒髪だった。
 彼らから見ると、ハキーカはまるで色が抜けたように肌も髪も、服も白い。だが、これまで旅をしてきて、ハキーカは自分と同じような髪の色や目の色を持つ人間など、ごまんと見てきた。つまり、ハキーカが珍しいのではなく、この村が閉鎖的なのだ。砂漠の中にぽっかり浮かぶ村であることを考えれば、それも無理はないのだが。
「ここは、人工の村ですか」
「ええ、古いですがね。西から東へ、今よりも旅人が多かった頃に、彼らのために作られた中継所としての村です。乾期で砂に埋もれて見えにくくなっておりますが、村全体が泡灰石の船でしてね。雨期には碇を下ろして、水上の村になります」
「ああ、どうりで。足元が歩きやすいと思いました」
「砂が入り込んでいますが、下は石ですからね。砂漠の外を回る道が開拓されて、旅人をめっきり見かけなくなってからも、宿や食事処を経営していた人々が住み着いて残りました。それが今の、我々の四代ほど前の話でしょうかね」
 タルシは左足が良くないようで、歩調が少しゆっくりしていた。その代わりと思っているのか、彼は道すがら見えるものをあれこれとハキーカに説明した。ハキーカは別に、本当は足など疲れていなかったので、タルシの速度に合わせることも辛くはなかったのだが、短い返事や質問を挟みながら話を聞き続けた。
 ハキーカはただ、単純にラブカの村に興味を惹かれただけだったのだ。そのついでに、食事処がありそうだったので休憩にしておこうという程度のつもりだった。閉鎖的な村では自分たちの生活や慣習に興味を持つ人間を見ると身構え、逆に食事や宿といった単純な目的の旅人は自然と招き入れられるということを、十年で学んだのである。
 ハキーカの目的はいつも基本的に前者だが、後者を表に出すことが旅を上手く続ける手段の一つでもある。案の定、タルシはハキーカが何も積極的に問わずにいるほうが、すらすらと村のことを話した。
「あの、タルシさん」
「はい?」
「あの家は、いったい?」
 だが、そのタルシがいつまでも触れないものが一つ、どうしても目について離れず、ハキーカはとうとう自分から切り出した。あの、と彼が手を伸ばした方向を見て、タルシがにわかに表情を曇らせる。
 そこは、深いコバルトブルーの、美しい湖だった。泡灰石を階段状に丸くそこだけ彫り、人工の湖を造っているのだ。底は結構な深さがあるようで見えないが、中心に砂を盛り上げて造ったような浮き島があり、そこに一軒、小さな家が建っている。
 それも、普通の家ではない。砂を固めてできた家だ。
「旅の方に、わざわざお聞かせするようなもんでは……」
 たずねると、タルシは躊躇うようにそう口ごもった。何か事情がありそうだと察して、ハキーカは声を潜める。
「……無理にとは言いません。ですが、私はこう見えて、十年間に及ぶ旅で様々な土地を渡り歩いてきました。もしかしたら、何かお役に立てるような話を知っているかもしれない」
 タルシの足が、緩やかに止まった。
「あまり、耳触りの良い話ではないのですがね。それでも構わないと仰いますか」
「はい」
「ふうむ、そうですか」
 体を反転させ、湖の上に浮かんだ砂の家を見つめる。タルシはそうして、しばらく言葉の切り出しを迷うように黙り込んでから、淡々とした口調で話し始めた。
「ラブカは所謂、オアシスというやつでした。どんな砂漠の中にも、探せば水の沸き出る場所というのがあるのはご存知ですか。ここは大地が雨期に溜め込んだ水が、乾期に濾過されて、美しい水となって湧き出る場所だったのです。その水源を中心として、この村は生まれました」
 ハキーカも、その辺りまではおおよその見当がついていた。水のないところに、人間の生活は成り立たない。村があるということは、それ以前に水があったということだ。
「それが、この湖です。私たちの村の石舟には、中心に丸い穴を開けてありまして、それがこの湖なのです。ちょうど、その辺り、右の底から水が湧き出ています。船の内部には水路が通っており、水は我々の足の下を流れて、各方面へ運ばれていきます」
「手の込んだ技術が使われていますね」
「かつては、ここを砂漠の中心にしようという計画の下に造られたようですから。当時の最良、最高を尽くそうとしたのでしょう。結局、各地に点在していたオアシスを従えて、砂漠を一つの独立国化するなどというのは、夢物語に終わったようではありますが」
 西から東へ渡る人々が多くなった時代、オアシスが急速な発展を遂げたことは用意に想像できる。そうなれば、なるほどそれを纏め上げようと考える者が現れるのも、その他の土地と変わりない自然な発想である。
 成功に至らなかったのは、どこか一ヶ所を中心と定めるにはオアシス同士が離れていたせいだろうか。雨期と乾期の差が開きすぎているこの土地では、道を築くことも普通の方法ではかなわない。オアシス同士の交流や干渉には、相当な人員と労力が必要となる。
「かくして、今はこのような、小さな村となり、細々と続いております。悪くありません。時が流れた今となっては、私たちにとっては今の生活が自然であり、村をこれ以上どうにかしようという必要も感じませんものでね。ただ……」
 タルシは湖を見つめる眸を、困惑したように細めた。
「その生活が脅かされる可能性が、今から十八年ほど前に生まれました。オアシスの怪物が、この湖を住処にしてしまったのです」
「オアシスの怪物、ですか?」
 さながら絵本か何かのような言い回しに、ハキーカはそれを聞き返した。ええ、と頷いて、タルシは目を伏せる。
「我々ラブカのようなオアシスの村が、今よりももっと点在していた、それこそ百年、二百年前のことでしょうか。小さなオアシスが、度々その怪物に襲われて壊滅したという記録が残されています」
「それは……、恐ろしい話で」
「はい。大魚の姿をした怪物で、どこからともなく現れて、オアシスに住み着いてしまうのです。歓迎の意思を示せば災いを逃れられるとも聞きますが、追い出そうとしようものならば、剣士や術士が立ち向かっても歯が立たず、奇怪な力をもって襲いかかってくるのだと」
 ハキーカはふむ、と静かに頷いて、目の前の湖を見渡した。対岸にいる大人の姿が華奢な子供のように見えるくらいには、広さのある湖である。青く澄んだ水面は静かで、今はその大魚というのも見当たらない。
「タルシさんは、ご自分の目でご覧になったことはあるのですか」
「暗がりの中で、影のようにであれば数度は。怪物は、昼間はほとんど姿を見せないのです。私どもが水面を舟ではしっても、明るいうちには咎められません。日が落ちてからは、危険です。威嚇するように、舟の回りを魚影が浮かんだり、消えたりしてついて回りますよ」
「その影の、大きさは?」
「ああ、申し訳ありませんが、恐ろしくてとてもはっきりとは見ておらんのです。優に、私の倍はあるように感じましたがね」
「……なるほど」
 ちらほらとあちらこちらの家から顔を覗かせた人々が、様子を窺っているが、話までは聞こえていないようだ。もどかしそうにも興味がありそうにも思える視線を背中に受けながら、ハキーカはやや声を落としてたずねた。
「その舟とはあそこに浮かべてある、小舟のことでしょうか。そんなに恐ろしい怪物のいる湖に、なぜ舟を出されるのです」
「食事を、運んでいるのです」
「それは、どなたの?」
「あの家に住む、メイという娘のものですよ」
 メイ。その名を口にするとき、タルシは苦い表情になった。悲しみというには複雑そうで、かといって憎んでいるわけでもない。強いていうなら疎むに疎みきれない、厄介なものを見るような、そんな顔だった。重い荷物だが、憐れみがある。ハキーカはその表情を、そう見て取った。
「あれは生贄だったのです。十八年前、オアシスの怪物が現れる前の晩に、あの子は生まれました。……首に、禍々しいしるしを持って」
「しるし?」
「ええ。あれは生まれる前に、神さまがこの世に降りてはならぬと、息を止めるべきかと迷った痕に違いありません。ここから少し離れたオアシスに、似たようなしるしを持つ者が、かつて怪物を呼び寄せたという記録も残されておるのです」
「……へえ」
「オアシスの怪物が彼女に惹かれて現れたのであれば、村を守るためには赤子のうちに差し出すことも、と……当時まだ若かった村長は、決断したようです。彼女は村長の、三人目の孫でしてね。村の者に怪物をどうしたものかと急き立てられて、立場上、辛い決断をなさったようでした」
 タルシはメイのことも村長一族のことも、心底気の毒に思っているようだったが、同時にメイが持つしるしが呪いの類であることも、信じて疑わない様子であった。憤るように一息に話し、それからふと、眉間に刻まれていた皺を緩める。
「……石舟は雨期になると泡灰石に含まれた気泡の力で、水の上に浮かびます。しかし、砂の家はそうはいきませんので、当然、雨量によっては足元が浸水します」
「ええ」
「乾期になればまた乾きますが、年々、土台は水を含んで脆くなっている。じきに崩れて、彼女は生贄としての使命を全うする日が訪れるでしょう。あるいは、それまで待たず、オアシスの怪物があの家ごと壊して呑み干すかもしれません。彼女が我々の身代わりであるように、あの家もまた、村の家々の代わりなのです。家と人を差し出すことで、村全体の破壊を免れ、奉ることで平穏にこの村を出て行ってもらおうと考えた。……しかしながら」
「……」
「十八年という月日が流れてもなお、怪物は彼女には手を出さず、村を出て行く気配もありません。このまま時間がすぎて、彼女が生贄となることで本当にこの問題は終わるのか、みな疑問に感じてはおるのです。ですが、今さら取り返すような真似をしたら、きっとただでは済まされんでしょう。そうなったとき、私たちには成す術がありません。それを思うと、誰も言い出すことができませんでね」
 タルシはわざと、吹っ切るように長い溜息をついて苦笑した。いや、本当に旅の方にお聞かせするような話ではなかったでしょう。詫びるようにも、だから言ったのにと切り上げるようにも聞こえる口調でそう言って、さあ、とハキーカを促す。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -