発条時計の憂鬱



 発条時計は今日もがりがり、大きな発条を回してまわる。長い針は大人より長く、短い針は子供より長い。秒針をかちかちと動かして、彼は言った。
「エイダ、エイダ、聞いてくれないか。聞き流してくれるだけでいいんだ」
石畳の下から響いてくるような声に、長いワンピースを着た、エプロン姿の女性が応える。
「はい、はい、なんでしょう。私に聞けることかしら」
発条時計は彼女の声に、ほっとしたようにああと答えた。
「近頃の私はいつも、考え事ばかりしている」
「まあ、それはそれは」
「エイダ、君がこの秋でいくつになるのかということだ」
エイダと呼ばれたエプロン姿の女性は、発条時計の足元を磨いていた手をぴたりと止めた。それから二度、三度、乾いた布切れを動かして、からかうような口調で言う。
「レディに歳を訊くことは、と町の人が話すのをお耳になさったことはございませんでしょうか。私の耳が確かならば、貴方は紳士と存じ上げます」
だが発条時計はそれに、いいやと反論する。
「確かにそれは分かっているよ。だが仕方ないと思わないか」
「なぜ?」
「だって、そうだろう」
エイダは何も喋らずに、乾いた布切れをはたいて畳み、裏返した。発条のがりがりと巻き戻る音が響いている。
「エイダ、君がいなくなったら、一体誰が私の声を聞いてくれるだろうか。町の人間は皆、私を古い大時計だとしか思っていない。皆、発条を巻くばかりだ。私が話をするのだという可能性を、考えもしない」
ざわざわとした往来の人々へ叫ぶかのように、発条時計はそう言った。だがその声に振り返った人間は一人もおらず、エイダだけが困ったように小さな笑みを浮かべていた。
「……だから皆、聞こえないのだ。分からないだろうか、エイダ、君の亡き後に私はもう誰と言葉を交わすこともない。それだけが私にとって、最大にして最初で最後の憂鬱だ」
発条時計はエイダの表情を見て、声の調子を落とした。広場にはこんなにも多くの人が行き交っているのに、どんな言葉にも、応えてくれる声は一つだけである。もう何年、そんな日々を送っているだろう。エイダは広場を真正面から歩いてくることがない。いつも後ろからやってくる。発条時計は、エイダの姿を一度も見たことがなかった。
「エイダ、聞かせてくれないか。この秋でいくつになる?」
「言えませんね」
「どうして」
「聞けば、貴方は今よりも憂鬱になってしまうでしょう」
乾いた布切れをポケットへ入れて、エイダは言った。
「一分一秒、一時間、一日。貴方は誰よりも時間を分かっている。そんな貴方は私の歳を知ったら、あと何年、何日、何秒、こうしていられるのかと考えるのではありませんか」
発条時計は、返事をできなくなった。エイダはそんな発条時計の足元に手を添えて、こう祈るように告げた。
「大丈夫、私がいなくても、いつかまた貴方の声を聞く者が現れましょう」

 それから百年が経ち、エイダが姿を現さなくなってからも数十年が過ぎたある日。発条時計は今日もがりがりと、発条を回してまわる。体はずいぶん古くなったが、発条はまだ生きていた。雨に当たると誰かが拭いて、天気のいい日は誰かが回していく。おかげで時計は途切れることなく動き続けていたけれど、発条時計に挨拶をしていく者は一人もいなかった。
「……」
がりがりと発条を巻かれながら、発条時計は考える。近頃いつも、同じことばかり考えていた。もう何年、何十年が経つだろうか。時を計るものであるはずなのに、思い出があまりに鮮やかなものだから、つい錯覚をしてしまいそうになる。
「エイダ、聞いてくれないか。聞き流してくれるだけでいいんだ。私は君に出会ってから、とても長い間、間違えていた」
発条に触れていた、誰かの手のひらの感触がなくなる。途端にそこに戻るのは、温かくて華奢な、あの指先の記憶だ。
「私はいつも君に、君の亡き後、誰も声を聞いてくれないのが憂鬱だと話しただろう。あれは間違いだった」
嗚咽するように、石畳がざわめく。発条時計は声を絞って、最後まで見ることのできなかった姿を陽炎のように思い浮かべ、叫んだ。
「エイダ、エイダ、私は誰とも口を利けなくなることが不満だったわけではない。私は君が先立つことが、寂しかっただけだったのだ。ついに君がいなくなるまで、それに気づくこともできなかった。もう君に話すこともできない。それだけが、今では私の憂鬱だ」
その声は発条時計にあるはずのない鐘となって、白昼の広場に響き渡る。そして通りすがる人々を振り向かせながら、何度も何度も鳴り続けたが、それを声だと言った者は誰一人としていなかった。


琥珀の町ネックレス/evangile



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