[.物語の中に


 古書屋の前へ辿り着くと、ノアはマリアを置いて突然その壁を回り込むようにプランターを飛び越え、塀の陰へ駆け込んで見えなくなってしまった。慌てて古書屋と隣の空家の間の隙間を覗き込んだが、ノア、と呼んでも黒い背中は振り返らない。追いかけようとして体を滑り込ませたマリアだったが、すると今度はノアが塀に飛び上がり、そこから頭上を越えるように飛んでしまった。視線で追えば、ノアは器用に細い足で二本並んだ水道管の上に立っていた。そしてそのまま一声鳴いて、管の上を伝って古書屋の裏手へ走っていってしまう。
「待ってよ、私そんなところ……!」
歩けるわけない、と続く言葉も待たずに、長い尾を翻してノアは消えてしまった。ひとまず数歩進んだが、その姿はどこにも見えない。
 マリアは仕方なくスカートの裾を片手に纏めて、できるだけ擦らないようにしながら狭い塀の隙間から抜け出し、古書屋の正面へ戻った。何だったのだろうかと思いつつも、ひとまずジルに会って話そうとドアをノックする。
返事がない。だがそのとき、中から微かに猫の鳴き声が聞こえて、マリアは咄嗟にドアノブへ手をかけた。ノブは抵抗なくするりと回り、勢いづいて押し開けたマリアの体は転がるように店内へと踏み入れた。
 「ジル!」
 呼び声に、返事はない。しかし振り返れば、彼はすぐそこにいた。テーブルに突っ伏して、本を抱えるようにして眠っている。昼前に見たときと同じだ。
「……なんだ、まだ眠っているじゃない」
マリアは恐る恐る近づいてみたが、規則正しい寝息が聞こえて思わずそう呟いた。拍子抜けだ。否、何か良くないことがあるよりは絶対に良いのだが、ここまでずっと悪い予感が止まなくて、全速力で駆けてきた自分は何だったのだろう。
 ニャア、という声に上を振り向けば、中二階の片側にノアがいた。驚いたが、よく見るとその近くの壁から眩しい橙色の光が漏れてきている。マリアはそれを確かめに、階段を上ってみた。思った通りだ、中二階の壁に小さな窓が開いている。ノア用の出入り口だろう。レースのコースターがカーテンの代わりのつもりなのか画鋲で止められていて、指で押してみると簡単に開いた。
 その少し横には人間用の大きさのドアがあったが、鍵がかけられていた。中二階から続くドアだ。彼が仕事をしたり古書を置いておいたりしているのはいつも反対側の中二階なので、こちらのドアには目を留めたことがなかった。この外側は本当に壁しか思い浮かばないのだが、ベランダでもあっただろうか。出てみても咎められないような気はするのだが、何となく気が引けるので内鍵に伸ばした手を戻して止めておく。今度、ジルが起きているときにでもあの向こうには何があるのか教えてもらおう。よく知ったつもりでも、人の家には知らないことが多い。
 「いきなりいなくなるから、びっくりしたじゃない。いつもこっちから出入りしていたのね」
 次の楽しみを見つけた気分になって、マリアは思わず笑みを零しながら鳴き続けているノアに話しかけた。耳元を撫でてみたが、日頃は静かに触らせてくれるのに何だかかわされてしまった気がする。機嫌があまり良くないのだろうか。そういえばお腹が空いているのかもしれない。彼がいつも何時にご飯をやるのか知らないが、今日は朝のうちから眠っていたようだし、もしかしたらノアにとっても空腹の限界というやつなのだろうか。しかし普段何を食べさせているのかも分からないし、自分ではどうしようもない。困ったな、と思いながら階段を下りようとして、そこからふとジルを見下ろし―――、マリアははっと、冷たい衝撃が頭を駆け抜けるのに気づいた。
 ジルが、眠っている。それはいい。これまでにも何度か見た光景だし、本を抱えているということは、きっとまた星読師の仕事とやらをしているのだろう。体調が悪いわけではないのだろうし、うなされているわけでもなさそうだ。これだけを景色として見れば、何ら問題があるようには思えない。
 ―――だが、ジルが、眠っている?
 マリアは次の瞬間、足元に絡まるノアを振り払うように跨いで階段を駆け下りていた。ようやく呼吸が整ったばかりだったというのに、心臓がどくどくと再び音を立てている。駆け寄って、額に手を当てた。熱はない。ジル、と肩を叩いて呼んでみた。だが目を覚ます気配はない。
 「……っ」
 マリアはその腕の下に手を差し入れて、彼が抱えている本を恐る恐る引っ張り出してみた。ノーマンド戦記、と表紙に書かれている。呼んだことはないが、そこそこ有名な神話だ。タイトルだけは聞き覚えがあった。
 だが、今気にするべきなのはこの書物の内容ではない。厚みだ。マリアは本を縦にすると、どくんと一層心臓が震えたのを感じて、重い瞬きをした。薄い。この本は読書の習慣がないマリアにとっては難解に見えるものの、この店の中にあるものにしては明らかに薄いほうなのだ。先頭の頁を捲ってみる。文字の大きさも普通で、だがそれこそが今のマリアにとってはハンマーの一撃のように感じた。
 店内を見回して、壁掛け時計の時間を見る。時刻は夕方の五時を回ろうとしているところだ。手の中の本を、思わず見つめる。彼ならこれを読むのに、どれくらいかかるだろうか。きっと二時間か三時間、早ければそんなにもかからないかもしれない。だが昼前にマリアが来たときから、彼はすでに眠っていた。そして今も、目を覚ましていない。これは一体、どういうことだろう。
 「……ノア、もしかして……」
 椅子に上って座った黒猫の眸を、じっと覗き込んでみる。声が微かに震えた。
「あなたが私を呼びにきた理由って、これ?」
ニャア、と。言葉など通じないはずのノアが、タイミングを計ったように鳴く。星読師が物語の中で過ごす時間は、その物語を読むのにかかった時間と同じくらい。では一体、彼は何時間かけてこれを読んだとでもいうのだろう?


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