T.古書屋「アーク」の物語


 古書屋「アーク」の主人は変わり者。夜な夜な怪しい古文書と向き合って、何かやっているに違いない。
 そんな噂が小さな街にぽつりぽつりと生まれたのは偏に、彼が、一般に古書屋の主人と言われて想像するより数十と若かったから。それだけの理由に過ぎない。歳若く、研究者風の出で立ちもなく、どちらかといえば育ちの良さそうな中流以上の出を思わせる青年が、どこからやってきてどうしてこの街に店を構えたのか。素性を知る者がほとんどいないということも噂を助長する要因の一つにはなっていたが、そもそも始めに噂があったせいで、彼に近づく人間が少なかったというのもまた正論である。
 かくして彼はいつしか変わり者の、どこかしら陰気な趣味に手を染めている青年であるというイメージがいつからともなく街の人々には根づいてしまっているわけだが、当の本人はというと、それをどう思っているのか。それさえ耳にできる人間がいないため、分からない。
 そんな変わり者の店の前に、人影が一つ。クリーム色のシャツとくすんだ赤のジャンパースカートに身を包み、先の丸い革靴を履いた長い赤毛の少女・マリアは、今にも軋んでこちらへ倒れてきそうなドアの前で一人、先ほどから拳を握っては解き、ノックを躊躇っていた。少女と言っても今年で十八になる。買い物の仕方、店への入り方が分からないと嘆くような歳では到底ないのだが、街の噂の店ともなると話は別だ。ましていい噂でもない。ノックをして、想像以上に危ないドアを開けてしまったらどうしよう。
 頭の中に色々な悪い想像が巡る。だがマリアは、アークの店主を何度も見かけたことがあった。彼女は、街の商店街に並ぶ青果店のうちの一軒の娘なのである。変わり者だろうと何であろうと、買い物くらいは必要だ。商店街の人々は事務的な対応だが、彼は度々買い物にやってきて、食品や生活必需品を提げて帰る。マリアのいる店にも数度、姿を見せたことはあった。たまたま両親がおらず一人で対応したことがあったのだが、特に何をするわけでもなく、むしろ人当たりのいい印象を受けた。あまり恐ろしげな人間には見えない。ましてや人間でない、悪魔だの魔法使いだの、そんなものにも見えない。ただその物腰の穏やかさがこの寂れた街には不釣合いで、噂を余計にのさばらせているのだろうと、それは感じて取れたことだが。
 「……」
 きうと、唇を結んで微かに汗ばんだ手を握る。自分はもう子供ではない。物事の良し悪しや真偽を見定める力くらい、ある程度は身につけているつもりだ。大人たちが必ずしも正しいとは限らないことだって、とっくに知っていて、口には出さない年齢である。だが、まだそうして心の奥で大人をちらりと窺い、たまには舌を出すような―――つまり、完全な大人ではないのだということもマリアは自覚していて、だからこそ街中の大人が噂する店の前に来てしまっているというこの状況は、そんな曖昧な自分の決断力を試されているように感じられて一層身が固くなった。
 噂が、真実だったとしたら。悪い人間が皆、見るからに悪いとは限らない。優しげに見える人が一番危ない、なんてよくある話だ。巧妙な詐欺師ほど、騙されたと気づいても憎めないほどにいい思い出を残すこともあるという。たった数度店で見かけたくらいでは、彼の人間性など分かったものではない。
 だがしかし、躊躇っていてもことは動かない。あるいは今にもこのドアが向こう側から開けられて、ばったり顔を合わせて気まずくなるか。それだけは勘弁である。ずっとこうしていれば、いつかはそうなるだろう。ならば、その前に。
 「ごめんください」
 すうっと息を吸って、マリアは硬くなるのを隠した声でドアの内側に向かってそう叫び、三度ノックをした。元より覚悟は決めてきたはずである。ならばここに来て躊躇う必要など。それはかなり強引な気持ちの静め方だったが、ノックをしたことも相まって、もう引き返せないと結果的に少しだけ落ち着くことができた。ドアの向こうでかたんと物音がして、人が動いた気配に心臓の音が大きくなる。だが、そのとき。
 「あれ……、お客様ですか?」
 真後ろからの声に、マリアは本気で飛び上がった。予想していなかった出来事に反射的に振り返れば、そこには紙袋を抱えた青年が立っている。薄い金の髪を片側に寄せて結び、ローブを模したような薄手のコート。間違いようのない、ここの店主だった。驚きのあまり何も言えずドアに張りついたままのマリアと目が合うと、彼ははっとしたように紙袋を置いてポケットへ手を突っ込んだ。
「すみません、留守にしていて。お客さんなんて滅多に来ないものだから、少し買い物へ行くくらい大丈夫だろうと……」
「あ、あの」
「外出中の札くらい、用意するべきでした。お待たせしましたよね、今ドアを」
焦った様子で鍵を出しドアへ近づいてきた彼に、マリアは思わず客ではないのだと言うよりも先に、狭い店先で身を捩って道側へ立った。衝撃でどくこともできずに固まっていたのだが、咄嗟のときには思考より体が反応するらしい。無意識に警戒心が働いて、素早く距離を取ってしまった。少し驚いたように振り返られて、あ、と自分のあからさまな行動に気づいて身を竦めたが、彼はすぐに合点がいったようで、困ったように笑うだけだった。
 「すみません。ああ、開きましたから、良かったら」
 「あ、はい……」
 鍵が、いくつも束になっている。あちこちに向いて尖ったそれをするりとポケットにしまう仕草が、マジシャンか何かのようだと思った。マリアはそんな自分の考えにふと、先の詐欺師の話を思い出して恐ろしくなりかけ、慌てて思考を振り払った。こつ、と爪先が、道ではない木製の床を踏んで音を変える。


- 1 -


[*前] | [次#]
栞を挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -