[.物語の中に


 「ごめん……っ、ごめんなさい、私……!」
 「うん、分かってる。いいんだ、謝らなくて。あのさ、マリア、誰かを一分の隙もなく信じて疑わないっていうのは、本当に難しいことなんだよ。君じゃなくても、簡単にできることじゃあない」
 「でも……!」
 「だから、君がそんなふうに泣いてくれなくていい。悔やんでもくれなくていいから、代わりに、これだけ聞いて」
 それなのに、こんな形で自分の心の中を教えられるどころか、彼にさえ見せつけてしまうことになるなんて。何もしないでいたら後悔すると威勢よく言ったが、あれは嘘だ。あんな後悔、今になって知ったこの気持ちに比べれば針の先くらいのものだった。知り合って近づいて、放っておけないなどと言って、そうしてすべてを受け入れたつもりになっていたのに、本当に受け入れただけだったのか。嘘でもいいと思うことでいつも予防線を張っていた自分に、目を瞑っていた。今までのことは全部嘘だよと言われても、それでも、なんだやっぱりそうだったのと笑って傍にいられるように。魔術にかけられていたって、良かったのだ。それでもいいと思えるくらいに惹かれていて、だからこそ無垢に信じ込むことができていなかった。
 それを、こんなときになって晒してしまうだなんて。こんな記憶が、こんなやり取りが、最後になってしまうのだろうか。先ほどよりも呼吸の浅さが目立つようになってきたジルの声に、ぎゅっと袖を握る。薄い布を通した爪の感触が手のひらに突き刺さって、涙の向こうに彼が微笑んだ気がして慌てて目尻を拭えば、それは水の膜の揺らめきが見せた歪みに過ぎず、彼は眠り続けていた。口を開かない横顔の、手前に置かれたままの本からすっかり鼓膜に染みた声が語りかける。
 「ねえ、マリア。あのとき、たった一度だけれど、もう来るななんて言ってごめん」
 「……え?」
 「言いたかったんだ、ずっと。また来ていいかって言われたのが嬉しくて、謝るタイミングを逃して……、次に会ったら言おうって、こっちの世界に来てからもずっと考えていたよ」
 まるで遠い思い出話をするように、ジルは言う。その口調がゆっくりとしたさよならを告げてくるようで、マリアはそれ以上言わないでほしいと首を横に振った。だが今は、そんな些細な仕草さえ言葉にしないと伝わらない。彼はそのまま、微かに笑みを孕んだ声で続ける。
「ずっと、いつか君に言おうと思っていたことがあるんだ。僕は誰と関わっても、どうせまた上手く伝えられない虚しさを感じるだけだと思って、だから本当に誰とも関わらないつもりであの街に行ったし、それで穏やかに過ごしている気になれていたのだけど」
「……ジル……」
「あのとき。二度目に来てくれた君が、帰り際になって本当は特に用もなく寄ってくれただけだって分かったとき、すごく嬉しかったんだ。三度目も四度目も、いつだって、君がお喋りだけして帰っていくたびに、僕はそれが他愛無ければ他愛無いほど、嬉しかったよ」
淡々と、しかしその言葉はこれまでに聞いてきた何よりも真っ直ぐに染み込んで、鼓動へ繋がる。そんなふうに思っていたなんて、全く分からなかった。どうしてこの人はこうも、一度隠してからでないと本当のことを明かせないのか。寂しいと言うのも、嬉しいというのも、いつだって遅いのだ。そして今だってきっと、また寂しいと言うのを堪えている。
 傍にいたら、泣いてもいいように抱き締めてあげるのに。声を上げて泣いて、その嗚咽を隠してあげたっていい。次に会えたら言えないことは全部、代わりに言ってあげる。寂しかったと言って、怖かったと言って、彼の分まで弱さを吸い取ってあげるのに。こんなにも思えるのに、これ以上何が足りなくて、私には空想なんて形のないものからも彼が取り返せないのだろうか。
 「……あ……?」
 「ん?」
 ふと、そんなことを思ったときだった。マリアの脳に、ある考えが閃いて消えたのは。それは初め、点滅する光のように見えては消え、明確なものにならなかったが、段々とその輪郭を現してきた。止め処なく溢れていた涙が、わずかずつではあるが引いていく。
 そうだ、これ以上何が足りなくて、条件に満たないのだ。それは、疑いようのない決定的な“何か”である。ジルについての情報で、書き手はマリア。それならばつまり、マリアから見た、決定的なものでも構わないのではないだろうか。それだってジルという人間の、真実に変わりはない。
 「ジル、待って。もしかしたら、助けられるかもしれない」
 「え?」
 「分からないわ、正直に言うと確信は全然ないもの。思いつきなの。でも、お願い、もう少しだけ耐えて。もう一度試させて」
 気づいたと同時に、マリアはペンを走らせていた。先ほど反応を示さなかった頁の最後に、一文だけ書き足す。作業はすぐに終わって、呆気ないほどだ。本当にこんなものが違いになるかどうか、自信はない。
 だが、それはマリアにとって他のどんな情報より確実なことだと分かっていた。それこそ疑いようのないものである。迷いはない。マリアは戸惑いながらも分かったと答えたジルの声を胸に、もう一度ノートを天球儀へ翳した。真鍮の、大きなリングが真実を見抜こうとする目のようだ。今にも上下に開いて、浅はかな、と呑み込まれてしまいそうな錯覚に陥る。だが、そんな想像を他所に、天球儀はやがてぼんやりと輝きだし―――、ばっと足元に広がった光のリングに驚いてマリアが声を上げようとしたときには、その体から力が抜けて、後にはどさりと崩れ落ちたマリアの体が、ノートを大切そうに抱えたまま静かな寝息を立て始めたのだった。


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