茉莉花の指環をくれた人がいた。幼い私が父母に連れられて、海を渡った遠い地で。その人は邸に召し抱えられた、歳上の、私より拾五は離れた人で、兄にしては遠く父にしては近く、書斎に籠りきりの父と出掛けきりの母に代わってよく面倒を見てくれた。
別段、私に与えられた使用人ではなかったと思う。けれども気づくと近くにいた。言葉が通じなかったのか、寡黙で、何につけてもそっと目許を和らげて笑むばかりの人だったが、優しかった。雨の日も晴れの日も傘を差しかけて、固い靴のベルトを留めて、いつも膝をついて体を屈めて、私を見上げて、分からなかったであろう話に耳を傾けた。
帰国が決まったときも、その人は私の隣に立っていて、突然の話に父の前ではぼんやりと頷くしかできなかった私が、後になって泣き出したとき、足元に座って、ずっと手を握ってくれていた。銅貨のような艶とくすみのある、赤茶色の髪ばかり覚えている。それだけいつも、傍に屈んでくれていた。
「もうすぐ、いなくなるの」
その言葉がその人の耳に、どんな音で、どんな色で聞こえたのかは分からない。彼は初めて、私の言葉に微笑まなかった。黙って、膝に並べた私の片手を掬って、小さな茉莉花の花を小指に結んでくれた。
私がそれを、いつも彼の淹れてくれたお茶の中でほどける花だと知ったのは、祖国に戻ってずっと大きくなってから。
「ご乗船のお客さま、間もなく出航となります。今一度、お荷物をご確認の上――」
甲板に吹く風はしっとりと重い。あれから二拾年の月日が流れた。今日、私はもう一度、縁あってこの海を渡る。
思えば名前も聞いたことがない。あの人はもう、私のような子供に仕えていた日々のことなど忘れて自由でいるだろう。探して捕まえるつもりはない。けれど、もしも覚えているならば。
「出航致します」
きっと、ゆるゆると小指につけた黄色い花の指環を見て、昔のようにただ一度、私に、微笑ってほしい。
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