・「ブラウンシュガー・テイル」より、本編とは時間軸の違うパラレル
・本編より百歳ほど若い、天空図書館の司書キヲト×リコ
・年齢の都合上、キヲトの性格が少し若いです



 通いなれた学校を一年休んでまで、生まれた場所でもない世界に暮らしたいと思うようになることなど、想像したこともなかった。美術学校の卒業制作に描く絵のテーマを決めたくて、イーリア伝承を学んでみようと訪れた空想巡業。一週間の旅行のつもりが、ここでの日々をどうしても旅の思い出として忘れきれなくて、気づけばアルバイトで稼いだ全財産を手に、休学届けを提出していた。
 中心地に近い路地裏のアパートを借りて、広場でアイスクリーム売りの仕事をしながら、気ままな一人暮らし。その合間に、街の上空に浮かぶ天空図書館へいって伝承を学ぶのが、今の私の日常となっている。
「お待ちしておりました」
「キヲトさん! こんにちは」
 飛行船が石の玄関に到着すると、担当の司書であるキヲトさんはすでに外へ出て、私を待ってくれていた。カーキの軍帽のような帽子に、天空図書館の翼の紋章を模した金のバッジが光る。白手袋をはめた手で帽子を外して一礼すると、彼はすぐにまた、その帽子を被り直した。
 柔らかな、淡い金の髪。猫の毛のように細くて癖の絶えないその髪を、彼はどうやらあまり、自分で気に入っていないのだ。
「本日も、ご予約をありがとうございます。問い合わせのあった本はカウンターに用意してありますが、そちらから読まれますか?」
「見つけてくれたんですね、ありがとうございます。どうしようかな……あれは借りていけますよね? 貸し出し禁止の本で、見たいのもあって」
「では、そちらを先にお探ししましょう。どうぞ」
 館内での今日の予定を確認しながら、彼は厚いガラス戸を開けた。会釈をして通り、図書館に足を踏み入れる。
 広々とした館内は、涼しさと紙の匂いに天井まで満たされている。扉を閉めたキヲトさんの爪先がまた私を抜いて、革靴がこつこつと鳴るのを聞くと、天空図書館にきたのだという、いつもの実感がわいた。
「楽しそうですね?」
「えっ?」
「口元が微笑んでおられますが、何か良いことでも?」
 カウンターの前を通り過ぎ、イーリア関連の本が並ぶ書架への道を進みながら、キヲトさんが言う。指摘されて初めて、自分の顔がゆるんでいたことに気づいた。
 両手を頬に当てて確かめた私を見て、彼はふっと笑う。
「何の本を、お探ししましょうか」
「え、あ……っと、それじゃあ――」
 ポシェットに手を入れてメモを探し、私はそこに記した本を三冊、館内で見たいと頼んだ。彼はあっさりと了解すると、メモを受け取りたいとも言わずに歩き出す。
 これもいつものことだ。キヲトさんは天空図書館にある本、特にイーリア伝承関連のことであれば、自分の本棚のように覚えている。何やら自分で調べているらしいけれど、詳しいことはあまり教えてくれない。途中段階の調査は、あまり話したがらない。
 分かるのは、私が探す程度の書物であれば、彼はすでに大概のものを読み終えているということ。タイトルだけで出してくれて、時々、一緒に辞書や解説書を置いてくれる。どこで使うとは教えてくれない。でも、読んでいるとどこかで必要になってくる。
 どうしてこれが必要だと分かったんですかと聞いても、答えは大体はぐらかすようなもので。けれど私は、きっとキヲトさん自身が、読み解くために使ったものなのだろうと思う。読んでいて、自分が苦労したところを私が越えられるように、いつも何だかんだと補助してくれる。
 ああ、今日も。
「……辞書ですか? それ」
「古語辞典です。この世界の」
「優しいですね、キヲトさんって」
 三冊の本を手に、彼がテーブルではなく別の書架へ向かったので、何か用意してくれるのだろうと思ってついてきた。天空図書館の、網のように並ぶ膨大な書架の隅の隅。こんなところに古代言語の一角があったなど、初めて知った。
「それが仕事ですから」
「へえ……天空図書館の司書って、」
「なんて、言うと思いますか?」
 難しそうなお仕事ですね、と。続けかけていた口を、思わず噤む。顔を上げた彼は、ひどく不敵な笑みを浮かべていた。何の冗談を言われたのか、すぐには頭が回らなくて瞬きをする私の反応を窺っているような、天空図書館の司書には似つかわしくない顔。
「キヲト、さん」
「あなただから、ですよ。お嬢様」
 古い、焼けた紙の匂いが強くなる。気づけば私はひとけのない書架を背にして、キヲトさんの片腕と壁の間に挟まれていた。
 手袋が、さり、と書架に並んだ本の背表紙を撫でる。私、だから。言葉を覚えたばかりの子供のように、上の空で口にすれば、彼はそうだと教えるように刻んだ笑みを深くした。
「誰にでも手を焼くと思ったら、大間違いだ。鈍感もほどほどにしないと、一から教え直してほしいという意味に取るぞ。……自分がどれだけ、特別なのか」
 帽子のつばの作る影の下で、紫の目が細められる。制服を着ているのに、口調だけ図書館を脱ぎ捨てるなんて卑怯だ。ここがどこだか、分からなくなりそうになる。分かっていて、キヲトさんは少しだけ笑っている。
「リコ」
 礼儀正しく優しい司書の彼はいなくなって、今、目の前にいるのは、優しくも少し意地悪な恋人だけ。地上にいるときと同じように、彼は「お嬢様」ではなく、名前を呼んだ。
 褪せたインクの香りを吹き込むように、唇に灯がともる。近づいてくる足音は、ここへは一つも聞こえない。私は書架に背中を預けて、ゆるやかに目を閉じた。



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