※短編『ブラウンシュガー・テイル』より、キヲトとリコ
※二次創作的なとある未来
旅立つために遠い世界で生まれたのかもしれない、と思った。
「とてもお似合いですよ」
しなやかな指で私の髪を結い上げて、花飾りを挿した灰影の女性が言う。紅を引いた唇の、慣れない重たさ。片側に集めてカールをかけられた焦げ茶の髪は別人のように、花と桃色水晶で彩られ、ドレスから晒された肩に流れ落ちる。
「へ、変じゃないですか? どこか」
「まさか。緊張していらっしゃるのでしょう。大丈夫、鏡をちゃんと見てください」
「う……で、でもっ」
「ご自分だと思わないで見ても、変だと思われますか?」
促されて、覗いた鏡の中。品のいい化粧を施された頬をわずかに染めて見つめ返す、私の知らない私がいる。
おかしな姿、とは思わなかった。むしろ――そう思いかけて慌てて背筋を伸ばす。メイクをしてくれた灰影の女性は、そんな私にくすくすと微笑みを漏らした。
「いいんですよ。綺麗だと思っていただかなくては、私が腕を奮った意味がありません」
「あ……」
「何より、そうしてはにかみながらも、やはり自信を持って笑ってくださらなくては。今日という日は、どんな顔で過ごしても一度きりなのですからね」
見透かされた恥ずかしさと、念を押した彼女の言葉に、頬に熱が昇る。せっかくのメイクを崩したくなくて、押さえるわけにもいかず、目元まで染めた紅色の隠しようがない。
かちゃりと、トレーの上から彼女が小さなものを拾い上げた。
「さあ、最後にこちらを」
それが何か分かった瞬間、気恥ずかしさも忘れて椅子に座り直す。
「はい」
「ふふ、嬉しそうですね」
「だって」
私はわくわくして、それが髪に挿されるのを待った。――葡萄石で作った、ホタルブクロの花。
「好きなんです。その色」
女性は微笑んで、髪の結び目にホタルブクロを挿し、それが一番よく映えるように白い花飾りで囲んでいく。ドレスの所々にも紫の糸で刺繍されたその花は、私の耳の上に咲いて、落ちないように針金で固定された。
歩いてみてください、と言われて椅子から立ち上がる。踵の高さはそれほどないおかげで、裾が重くてもよろめくことはない。
「準備が整いましたね。会場へ向かうお時間まで、あと少しございます。あちらも終わっているはず。お呼びして参りましょう」
灰影の女性はそういって、てきぱきと辺りを片付け、荷物をワゴンにまとめて部屋を出ていった。
取り残された私は、改めて鏡を見て、ぼんやりと訪れた実感に今さら動揺しそうになった。落ち着きを取り戻すため、落ち着きなくそわそわと室内を歩き回る。厚いカーテンや光沢のある絨毯といった、いかにもな景色が一層、緊張を舞い上がらせた。
コンコン、とノックがされて、しばしあってからドアが開く。
「リコ。支度が整ったと――」
現れた人の姿に、一瞬、見入らずにはいられなかった。焦げ茶色のタキシードに身を包んだ、見慣れたつもりのその人に。
「キヲト、さん?」
「……なぜ問いかけなんじゃ。当たり前だ」
「だ、だって」
癖だらけで自由に跳ね回るのを嫌われ、いつも帽子の下に隠されていた金の髪を、印象をぼかさない程度にさりげなく整えて。ローブではなくジャケットを着て、胸にハンカチを入れて。
「いつもと、雰囲気が全然違ってて。びっくりしたというか、どきっと――」
格好いい、と思ったのだと思う。それすらも多分、としか思えないほどに、ドアの開かれた瞬間、胸が震えた。
そう伝えようと思ったのに、唇が塞がれていて声が出ない。
「……先に言う者があるか、馬鹿」
「キヲトさ、あの、」
「む?」
「口紅、取れ……っ」
「あとで直してやる、それくらい」
それはそれで自分で直すより恥ずかしいのに、と答える隙もなく、二度目の口づけは最後の瞬間に私が思わず待ってしまったせいで、一度目よりも深かった。ふわ、とかすかな珈琲の香りがする。それが今、本当に唇から移されたものなのか、私の中での彼との口づけに、珈琲の香りがいつも記憶として漂うからなのかは分からない。
「まったく、さすがに笑い話で済まなくなるところだったの」
「え?」
「どこの世界に、花嫁より先に褒められる男がおるのか」
睫毛の触れ合う距離でそう言って、彼は苦笑した。ああ、この笑い方は、いつも見ているものと同じだ。口紅の色は思ったほど移っていない。ほっとすると同時に恥ずかしさが込み上げてきて、俯いたとき、彼は言った。
「――綺麗じゃな。今日は」
顔を上げると、葡萄色の眸と眼差しが合う。彼は、笑っていた。世界が温度を一度上げたのだと思うくらい、穏やかな笑顔だった。
もっとも、すぐに視線を逸らして横を向いてしまったけれど。
出来心と少しの期待から「それなら、いつもは?」と訊こうとして、鏡に映る自分が耳まで赤いことに気づいてやめた。これ以上は、時間までに間に合わない。式に出られる顔ではなくなってしまう。
旅立つために遠い世界で生まれたのかもしれない、と思った。この人のもとへ、辿り着くために。きっと私はこの世界へ、足を踏み入れたのだ。
「……にやにやするでない。塗りにくいじゃろうが」
「ふふ、はあい」
この人と、結ばれるために。
式が終わって二人になって、それからたくさん訪れる毎日の、いつかどこかで。そう思ったことを伝えようと心に決めながら、近づいてくる口紅に、私はそっと目を閉じた。
方舟に生まれる
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