ゆらゆらと弾かれて浮かぶ、銀の日差しが目に痛い昼だった。シャツやズボンを着たままに、靴と靴下だけ脱いだ足の裏が熱い。コンクリートは高く昇った太陽に当てられて、今にも荒くうねりそうだ。一カ所に立ち止まっていることができず、歩き続ける。
「奏、待って」
 呼び止められて、プールサイドに片足をかけたまま振り返れば、ブレザーのボタンを外すのに手間取っていた彼女が、同じように素足になってこちらへ向かってくるところだった。制服のリボンは光沢のある生地を日差しに照らされて、駆け足に近い彼女の体が揺れるたび、なだらかに光る。日の下で見ると焦げ茶色に明るく透ける髪が、いつだったか、いつの間にか短く切ったと思ったのに、とっくに胸まで伸びていた。ちり、と視界の右端が銀色に焼ける。視線を戻した水面は、変わらず眩しい。
「一人で行っちゃだめだって。本当は今、水泳部以外立ち入り禁止なんだから」
「聞いた」
「だったらねえ」
「その水泳部の日向に付き合って来てるんだから、関係者みたいなもんだろ」
「それはそうかもしれないけど……」
 話す間に、彼女はとっくに隣へ来ていた。熱を逃れるように残された片足もプールサイドへ上げ、頭二つ分違った眸を見下ろす。ちりちりと痛む足の裏を払って、彼女もプールサイドへ上がった。空白が、頭一つ減る。視界の中に焦げ茶色が翻った。
「大谷先生に見つかったら、怒られちゃうのは奏だよ」
「日向さぁ。職員室の前、通っただろ? 見なかった?」
「え?」
「ロッカーの鍵。ホルダーに残ってんの、多分来てないんだよ」
 ええっと、驚いた声が上がった。水際は不思議だ。透明な水が音を吸い込むように、声が一段階、柔らかく聞こえる。或いは蝉時雨にあてられて、耳がぼんやりしているのか。その可能性も考えたが、それを示すには、今日は蝉の鳴き声も少ない。
「そんなところ、見てなかった」
「日向がプールの鍵借りてる間、暇だったから」
「相変わらず、要領いいのか悪いのか、よく分かんない」
「少なくとも、日向よりは」
「うるさいっ、ほら点検やるよ」
 自分が振った話題のくせにそれを遮って、彼女はあっと思う間もなく、細いプールサイドで器用に僕を回り込み、そのまま歩き出した。素足がさり、と今朝の風でグラウンドから飛ばされてきた砂を擦りながら、躊躇いなく進んでいく。二歩、三歩。
「奏」
「なに」
「来ないの」
 夏休み、フェンス越しに見えるグラウンドは静まり返って、校舎は砂の建物のようにしんと大人しい。明日は水泳部が使うからと彼女が点検を任されているプールも、今はまだ静かだ。循環口の目視点検に向けていた視線をこちらへ向け、彼女は言った。ああうん、そうだ、点検か。今、行くよ。言いかけた言葉を、水気の多い風と共に呑む。
「待ってる、ここで」
「一人じゃ何かあったときに困るから、来てもらったんだけど」
「知ってるだろ、僕じゃ初めから助けにはならないって」
「カナヅチ」
「平気だよ、日向は溺れない」
 おまじないのために、呼んだわけじゃないんだよ。呆れたように言いながらも、彼女は笑い、背を向けて歩き出した。昔から、彼女は泳ぎが上手い。ここが足の届く高さでなかったら、僕は初めから別の誰かを頼るよう断っている。
 底に引かれたラインを透かす人工の水を見つめ、その冷たさを夢想した。想像の中では自由に、背骨がフィンに変わるようにその中を泳げる。現実にそれができるのは彼女だ。同じ水の中へ潜っても、呼吸の仕方を思い出せるのは彼女で、僕は溺れていく。
「日向」
「なに?」
「あのさ――」
 焦げ茶色の髪が翻って、ゆっくりと傾く。ひどく唐突に、彼女の「あ」という声が宙に浮かんだ。
 ざぶんと、音がした。日向、と叫んだ僕の声が、水面を破る二つの水音にかき消される。
 ボコボコと泡の昇る音、ひやりと肌を包む別の世界。聴覚がくぐもって、溶けた塩素が網膜に凍みる。ゼリーのように重たく冷たい、透明の向こうに彼女はいた。スカートと髪が、重力をなくした薄絹のように、四角い青に囲まれた水の中を泳いでいる。
 その手が、まっすぐに伸びてきて、目を瞑る瞬間の僕を掴んだ。
「奏!」
「っは、げほっ、」
「馬鹿、あんた何やって……、泳げないんでしょう!?」
 足の裏が、冷たい青の上に立つ。そういえば浅い場所にいたのだと、支えられて立ってからようやく気がついた。喉の奥が痛い。どうにも大量に水を飲んだようだ。ひりひりと、冷たく焼けて、まるでまだ溺れているかのように。
「泳げない、けど」
「何やってんの、本当にもう……」
「仕方ないだろ。それとこれとは、別だったんだから」
 見上げる彼女の眸の中に、滴が一つ落ちる。焦げ茶色の目は、瞬き一つしなかった。水の感触が蘇ってきてもう一度咳をした僕の背中に、ついさっき僕を掬い上げようとした手が、別人のように小さく、熱く当てられた。体温が濡れたシャツを介して、大げさに伝わってくる。
 その瞬間に、僕の胸の中で、さ迷っていた水泡が一つ弾けた。
「日向のことしか、頭に浮かばなかった」
 ああ、世界がもう一度、溺れていく。



眠らぬイルカは泡を抱く





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