※「ミスターパレット」物語後



 カチ、カチ、と一定の歩みを乱さない時計の音が、いつもより大きく聞こえる。針はとうに零時を過ぎた。夜訪鳥が鳴いている。クルルクルル、単調な声で。
「どこまで行ったのかしら」
 ぽつり、呟けば存外掠れた自分の声に呆れが差して、エーリディカは嫌に広く感じる寝室で、蟠る暗闇に目を瞑った。裏の鍛冶場も今は寝静まり、物音すべてが息を潜める。月一つだけが鮮やかな夜だ。人は満月の引力に、誰しも心乱されるという。ならば今、自分が抱いている感傷も、朝になれば。
「……ランドウ、」
 呟いた名のあとに、返事があったら何を言っただろう。そもそも返事があるならば、こんなふうには呼ばなかったか。寝つけない体を身じろがせて、シーツの上に指を投げ出す。
 こういう夜は、初めてではない。
 ランドウは時々、何の音沙汰もなく帰ってこないときがある。といっても、朝になって目を覚ませば、いつの間にか隣に帰ってきて横になっている。おはよう、エリー。そういうときの彼は大概、自分よりも早起きだ。緩慢な仕草で、髪をといて微笑むから、何も言えなくなる。
 これが夜遊びだったなら、エーリディカには言及する権利があるのだ。仮にも生活を共にして、恋人と呼んで差し支えない立場にある。けれど心のどこかで分かっている。ランドウは、根本的に色恋で遊ぶより冒険を好むことを。必要以上に恋人を増やして、自分の時間が削られていくことをよしとするとは思えない。
 だからこそ、分からない。こうして帰ってこない夜、旅に出るというには短い時間を、彼は何を思って留守にするのか。一年の半分以上をこの家で過ごすようになってから、特別に息が詰まっている様子はない。商品の買いつけや店の手伝いなど、それなりに楽しんでやっているように見える。秋が近づいて旅に出るときは、足手まといにならないようにと同行したことはない。それでも、帰ってくる。迷わずこの家に。
 ゆっくりと目を閉じて、エーリディカは深く、意識を沈めた。子供ではないのだ。追及を避けることだって知っている。それがありがたいときもあることを、そしてそれは決して後ろ向きな感謝ではないことを分かっている。だから何も言わない。思うだけで。
 この真っ直ぐに張ろうとする神経を断ち切って、愚かに問い詰めることができたら、どれほど楽になるだろう。気を狂わすには依存が足りなくて、すべて受け入れるには愛しすぎている。所詮は一つの脆いこの体に、拮抗する二つの感情はいつまで収まりきれるだろう。
 貴方を、束縛してしまいたい。
 貴方に、ずっと自由でいてほしい。
 打ち寄せては引いていく見えない波に、心は時々、こうして呑まれる。まだ大丈夫、まだ大丈夫をあと何回繰り返すのか。穏やかなときが温かくて眩しくて、だから相反する今がそれだけ辛い。
 たった一瞬、現れて抱きしめてくれたら、それだけで静かに眠れる気がするのに。たったそれだけの、嗚呼なんて贅沢な願いだろう。

 キシ、と階段が小さな軋みを上げて、静寂を破るまいと歩く来訪者を責める。二階の明かりもとっくに消された深夜、帰ってきたランドウは静かにドアを開けて、中を覗き込んだ。
「……眠っちゃったか。ただいま」
「……」
「帰ったよ、エリー」
 ベッドの縁に腰かけて、すでに寝息を立てている恋人の頬へと手を滑らせる。瞼は開かない。起こすほど明確に触れることはしない。
「……ごめんね」
 そうして彼はとても小さな声で呟くと、苦く微笑って、その手を彼女の輪郭にかかる淡い金の髪へと動かした。
「時々、怖くなるんだ。こんなふうに、当たり前にここで暮らしていることが」
「……」
「同じ人と同じ生活を繰り返す毎日が来るなんて、考えたこともなかったんだよ。同じ街、同じ家、同じ仕事。……今はそれも、いいと思ってるけど」
「……」
「だからいいなって思うのと同じくらい、僕には怖いんだ。きっとない、って思えていても、この毎日をいつか突然――ふいに退屈だと思ってしまったらどうしよう、って」
 シーツの上に散らばったそれを、指先で集めて梳く。エーリディカは目覚めない。ランドウはふっとその眼差しを柔らかいものにすると、影を落とすことさえ躊躇うように、静かに身を屈めた。
「――エーリディカ、君が好きなんだ。だから、もう少し……」
「……」
「もう少しだけ、待って。今年の秋こそ、君を連れて行きたいって、躊躇わず言えるように」
 慢性を恐れる男は、依存に溺れきれない女の額にキスをする。朝が来ればまた何事もなかったように笑うのであろう彼女の、短い涙の痕を指で消しながら。夜訪鳥の鳴き声は、白む空に溶けて消えてゆく。彼女はその晩、彼がついに眠らずに、その髪を撫でていたことをまだ知らない。




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