その人は“彼”と呼ばれていた。鍛治と少しの農業で淡々と回る小さなこの町に、あるときふらりと訪れて、しばらくの間よろしくと挨拶をした人。これといった特徴のない茶色の髪に、冒険者風の出で立ちをして、安い剣と薄い盾を身につけていた。住居の二階を宿屋として貸し出している私に、コインを渡して階段を上がっていく。気の優しそうな、さほど歳の変わらない青年に見えた。
彼はその後、初めに言っていた通りしばらくの間、この宿を利用していた。どこへ行っているのかは知らないが、朝食を済ませるとすぐに出かけて、日の完全に沈んだ頃戻ってくる。夕食は部屋に運んでいたので、共にとったことはない。ただ、食べ終わった食器をいつも、いつの間にかキッチンへ置いておいてくれるので、親切な人なのだなと思っていた。
「いらっしゃいませ」
朝はいつの間にかいなくなっていることが多いが、戻りにはカウンターで会えることが多かった。立ち上がって、軽く頭を下げる。
「お部屋のご利用でしたら、100ゴールドです」
「うん、……あのさ」
「はい、何か?」
「……ただいま」
それはこれまでに、たったの一度も交わした記憶のない挨拶だった。頭の奥で、何かが罅割れるような感覚。ただいま。その言葉を反芻するが、対になる挨拶がきっとあるはずなのに、なぜだろう。私はそれを知らない。
「ごゆっくり、どうぞ」
わずかな違和感を片隅に抱えたまま、そういつものように答えれば。彼はそれ以上何も言わず、何かを待っていたような視線をふっと消して、ありがとうと背を向けた。
その人は“彼”と呼ばれ、誰もが彼を知っていたし、誰も知らなかった。
次の日の朝、珍しくゆっくりと支度をして出て行った彼は、もうこの宿へ戻らなかった。私の日々はまた、一人分の食事と誰もいない部屋の掃除を繰り返す毎日に戻る。客は来ない。そう言えば彼が来るまではどんな人が来ていたっけと考えたけれど、なぜだかそれは思い出せず、思い出せないことについて深く追及しようとすると頭に霞がかかったようにぼうっとしてしまう。町に出て、ふらふらと理由も分からずに歩いていると鍛治屋に出会った。あの冒険者を覚えているかと聞くと、鍛治屋はああと頷いて言った。
「“彼”なら、マルチェの町へ向かうと言っていたよ。新しい剣を打ってくれと頼まれていたのが、この間できあがったから」
あんな大きな剣を背負って、どこへ行く気なんだろうな。何の気なしに言われた鍛治屋の言葉に、頭の奥がふと罅割れそうになる。この感覚を、どこかで覚えたと思うのに分からない。霞が濃くなる頭の中で、私は彼の姿を思い出す。
ああ、そういえば。あれほど生活の一部を共にしていたのに、私は彼の目的どころか、名前だって知らなかったのだ。
「ねえ、」
その事実に気づいて振り返ったときには、鍛治屋はもう、道の向こう側を歩いていた。ふらふらと、真っ直ぐに。理由もなく。その後ろ姿を目にした瞬間、ふと、何を考えていたのか分からなくなる。鉄を打つ音と畑仕事をする女たちの声が聞こえてきて、引き戻されるように元来た道を歩いた。ぼんやりと、空を見上げる。来訪者のいなくなった町は、初めから何一つ変わりなどなかったかのような日々に戻り、私もまたその一部となって流れていく。あのとき彼が残していった、たった一言の非日常に、ぽつりと生まれたわずかな違和感を抱えたままで。
ある町人
[ 12/102 ][*prev] [next#]