造花の夢
その花の本当の願いとは、何だったのか。
一人目の男は、饒舌な男だった。どこにでもいるようでいない、頼りになる男だ。まだ微かな幼さの残るほど若い女の手を引いて常に前へ進むような、そんな男だった。女は英雄を見つけたような恋をしていた。饒舌な男はそうしてよく、女に言って聞かせた。お前に出会えて本当に楽しい。おれは落ち着いた場所があることの幸福を知ったよ。いつかあの町灯りの真ん中に家を建てて、一緒になろう。
幸せな恋人同士だった。だが、はにかむように微笑む女に、あるとき男はこう打ち明けた。
今までずっと黙っていたが、言っておかなくてはならないことが一つある。おれには遠く離れた町に、病を抱えた妹がいる。ちょうどお前と同い年だ。いつか病気を治してやると約束してしまったが金が足りず、果たせないままそろそろ限界らしい。近頃一人で死ぬのが恐ろしいとあまりに言うから、おれもそろそろ気がおかしくなりそうなんだ。
男の言葉から彼が何をしようとしているのかを汲み取った女は、そんなことを言うものではないと必死に説得を繰り返した。二人が一人ずつ死んだところで何の解決にもなっていない、協力は惜しまないから、と。ありがとう、やっぱりお前は最高の恋人だ。饒舌な男はそう言って、女の背中を押すように笑った。
女には、その約束を裏切るという選択など毛頭なかった。初めは裁縫の仕事で得た金を渡していたが、やがてそれも足りなくなり、酒場へ出入りするようにもなった。だが、それでも男の求める金額には達しない。顔も見たことのない妹のために働き続けて女はやつれ、男はそんな彼女を見る度、申し訳なさそうな目をした。そして言うのだ。悪いな、スミレ。おれさえいなければ、と。
女にはそれが、呪文のようにこびりついて離れなくなった。常に前を向いて英雄のようであった男が、弱々しく命を絶つような素振りを見せることが一番恐ろしかった。その恐怖は女の中で自分を頼る男への愛情と混同され、ついにあるとき、彼女は最も確実で危険な方法に手を出した。
魔術師モーガンの元を訪れたのだ。薬品の匂いの充満した薄暗い部屋の中で、女は初めてその男を見た。外見的にはまだ若く、恋人とさほど変わりないように見える。濃紺のローブに何か、煙のような暗い濁りを帯びた銀色の髪が長く垂れ下がっていた。君が来ることは分かっていたよ、用件を聞こう。意を決したような女の願いに、モーガンはその藍色の目を細めることもなく、口許で笑った。
「なるほど、金が必要なのか。いいだろう、ただし私は日頃、金で魔術を売っている。その金を君が望んでいるということは、つまり全く別のものを、代償として貰わなくてはならない」
「承知の上です。私に払えるものなら、何でもいいの」
「ほう?……なら、例えば」
ローブの下から覗いた、骨ばった指が女を指す。
「代償が、その脚だとしても?」
「……え」
指を差された女は、自分の脚を見下ろして呆然とした。積み上げた本の山の上、傾いた猫足の黒いソファに腰かけたモーガンが、笑みを深くする。
「一本で百万ハイヴ。二本で君の望んだ二百万ハイヴに達するが、二本売ると恐らく姿が変わる」
「どういう意味ですか?」
「闇商人に売るのとは訳が違うからな。魔術で金を得るために体の一部を売るということは、半ば人間ではなくなるということだ。……脚の場合は、人魚だったか。見た目には一番マシだと思うがね」
女の翡翠色の目が戸惑いに揺れた。ここで頷けば、恋人の望んだ二百万ハイヴが手に入る。その代わり、自分は異形の姿に変わってしまう。もう傍で暮らす約束も叶わなくなるかもしれない。だが、そのとき女の脳裏に、何度となく聞いてきた男の言葉が甦ったのだ。
スミレ、世界で一番お前を愛している。
女は孤独だった。幼い頃に捨てられてから、ずっと路地裏を彷徨うようにして生きてきた。やがてようやく見つけた屋敷でメイドとして雇われたが、知識がないのを良いことに住み込みでなければ生活のできない給料で雇われ、一生をそこで終える覚悟さえ決めていた。そんなとき、買い物へ行った先で偶然にその男と出会った。饒舌な男は一目で女を気に入ったと言い、自分の知り合いの店で裁縫代行の看板を出させてやると話を持ちかけてきた。女にとって、その瞬間がまさに英雄との出会いだった。
「……二本で、お願いします」
「正気か?」
「はい」
疑いばかりで育った心を初めて掴んでくれた手だ。振り切れるはずなどなく、また、女にとってそれを疑うことは絶望に直結していた。呆れたような藍色の目が、女を見下ろすが動じる気配はない。モーガンは傍らにあった杖を取り上げて、薄暗い部屋に振り翳した。
「確かに、二百万ハイヴ。君の望む相手へ舞い込むよう、仕向けておいた。……港へ行け。直にその脚は消える」
その花の本当の願いとは、何だったのか。
この日、ダントの町からスミレという女が消えた。恋人の男へ宛てた、置手紙を一つ残して。女は男が港へ来てくれることを、心の底から信じていた。港へ着いたら、私を呼んで。きっとすぐに出て行くから。女は男が来てくれたら、そこですべての事情を打ち明けるつもりでいた。だが、待てども暮らせども男が港へ来ることはない。
饒舌な男の手には、記憶の彼方へ行っていたような遠い親族から、二百万ハイヴが届くという出来事が起こった。男はそれを気前よく飲み代に使った。酒場の店主がスミレはどうしたと聞いたが、饒舌な男は言葉巧みに彼女は出て行ったと伝えると、隣にいた知人の男が大袈裟に笑って言った。どうせお前の雑な嘘が、いい加減見透かされたんだろう。病気の妹がいるって、女を騙すのは何度目だい。
女がその可能性に気づいたのは、来る日も来る日も男を待って、待ち草臥れて暗い海の中へゆっくりと身を沈めたとき。とっくに季節も変わり果てて、町から彼女の名前が忘れ去られる頃だった。
二人目の男は、物静かな男だった。一度は都会で名を馳せたこともあったという笛吹きで、笛の音に誘われて水面から顔を覗かせた女と出会った。女はあれ以来、異形の姿を隠すため人前に出ないように生活していたが、夕暮れの猟師たちも帰路についたころ、ふと聞こえてきたその音に思わず少し傍へいってみようと心を動かされたのである。岩陰から隠れて確かめるつもりが、女の髪が薄い紫色をしていたせいでかえって濃紺の波間に目立ち、その男に見つかってしまったのである。異形と驚かれるかと思いきや、男は細い目を見開いた後で、照れたように笑って言った。かの歌姫、ローレライの親戚が顔を出してくれるなんて、音楽家として誇らしい限りだ、と。
物静かな男はそれからというもの頻繁に会いに来るようになり、女に笛を聴かせた。女が人魚であることを隠すため、会えるのはいつも夜だったが、男はそれで構わないのだ、自分が来たくて来ているのだからという。女はやがて、その物静かな男に惹かれていった。しかし、あるとき男が言った。
僕は陥れられたんだ。ある音楽家に、嘘の公演日程を教えられた。僕は大きな演奏会を一つすっぽかしたことになり、ろくな弁明もできないまま前にいた町を追われた。もう笛吹きでやっている限り、この国に僕を受け入れてくれる町はない。
女は物静かな男の初めて明かした過去に、自分のことのような悲しみを受けた。他に何か楽器はできないのかと聞くと、楽器ではないが、歌が少し歌えるという。だが、それも一年ほど前に喉を壊してしまってから、仕事にできるほどのものではなくなってしまったと。男はそう言って、愚痴を溢したことを気弱な笑みで詫びた。
女は、モーガンに事の次第を伝えて、彼を港へ呼び出した。物静かな男に封書を預け、投函を頼んだのだ。モーガンは今回も、数日前からの予知夢でそれを分かっていた。封書にざっと目を通し、港へ向かうと女が待っていた。
「今度は一体、何になる気だ」
「……喉に」
「喉?」
「あの人の、声になりたいんです。行き場を探していた昔の私みたいで、助けてあげたいの。今度はお金じゃなくて、喉なんです。私の声と引き換えに、あの人の喉を治してくださいませんか」
モーガンは呆れて、言葉を失った。足元に縋る薄紫の長い髪をした、藍色の人魚を見下ろす。愚かな願いを持ち込む人間というものはいくらでもいるが、それを二度も持ち込む人間というのはなかなかいない。それも目の前の女は、一度目の願いで莫大なものを手に入れたどころか、多くのものを失ったのだ。繰り返す理由がない。
「愛情の証明として死にたいのか、君は。そういうことならいっそ、命を代償にその新しい恋人とやらを一気に国一番の歌手まで押し上げてやってもいい」
「死にたいなんてとんでもない。私、死んだら意味がないんです」
「二度も身を削る人間の台詞とは思えないな」
「だって、会えなくなってしまうでしょう?」
真っ直ぐに、翡翠色の目がひどく真っ直ぐにモーガンを捉えた。煙色の髪の下の眉が、ぴくりと動く。
「あの人のためじゃないんです。あの時も、今もそう。前はあの人がいなくなってしまうのが怖くて、今はあの人が喜ぶ顔が見たくて」
「結果として、君の前からはいなくなっただろう」
「……ええ、でも、もしかしたら手紙を読めなかっただけかも。きっとそうだわ」
女は、どこか明るすぎる顔で笑っていた。状態を理解したモーガンが、すうと視線を冷ややかなものにする。現実逃避に付き合う気はなかった。女はまだ、過去の幸福に縋っているだけだ。恐らく今度の願いを叶えて、相手は違えども自分の信じたことが間違いではなかったと証明したいのだろう。
「今度の人とは、大丈夫です。手紙なんて書かなくても、夜になればまたここへ来てくれるから、絶対に会えるもの。彼が自由に歌えるようになって、ありがとうって笑ってくれるなら、私はそれでいいんです」
ならば、試してみればいい。自由に歌えるようになったその男が、ありがとうと笑う。それだけが、果たして本当に自分の願いなのかどうか。試してみれば分かるだろう。
モーガンは相変わらず痩せた手を伸ばすと、女の首に指をかけ、呪文を唱えた。生きた体と体であれば、何かを交換するという魔術はそれほど難しいものではない。ただし、どちらか片方を存分に機能させるためには、もう片方が機能しなくなる。当然、女の喉がその役を背負った。
「これで満足か?もう君と話すこともなくなったな」
「……」
「いや、君が話すこともなくなった、というべきか」
翡翠色の目が、尚も真っ直ぐにモーガンを映す。だが、最早言葉を交わすことのできなくなった彼女と筆談までする必要は感じず、モーガンはその人魚に背を向けて港を後にした。
この日、ダントの町のスミレという人魚が声を失った。物静かな男はふと口ずさんだ歌の自分の声に驚き、真っ先に女を訪ねた。そして女が声を失っていることに気づき、砂浜で文字を通して事情を知ると、涙して礼を言った。だが、それから季節が一つ巡る頃、物静かな男は都会に移り住んで戻らなくなった。女は風の噂で、男が歌手として成功したという話を耳にしては、戻らないことに理由を考えて一人の時間を潰す毎日を続けた。
三人目の男は、船乗りだった。小さな船で沖へ漁に出て、波にさらわれそうになったところを咄嗟に女が助けた。船乗りの男は女の姿を見て驚きに声を上げたが、幸い近くに他の船もなく、女に命を助けられたこともあってすぐに落ち着きを取り戻した。船乗りの男は人魚に対して怖れるというより、興味を持ったようだった。あれこれと訊ねられたが、答えることができない。女が手を喉に当てて首を振ると、事情を察したように残念そうな顔をした。だが、翌日には紙とペンを船に載せてもう一度やってきた。快活で気取らない、聞けば女と同い年の男だった。
船乗りの男は人魚として隠れているくせにずっとダントの港に留まっているのはなぜなのかと聞き、女は少し躊躇ったものの、これまでの経緯を明かした。じゃああんた、二人も待ってんの。馬鹿だなあ。同情の気配もなく言い切られた言葉に驚いて顔を上げると、男は珍しく言葉を選ぶような素振りを見せてから、言った。俺だったら、あんたみたいな美人、人魚になろうが声がなくなろうが、何がなくなろうが置いていかないのにね。
その言葉は本当だった。三人目の男は、嘘は吐かなかった。だが、置いていく代わりに女を連れて行った。見せたい場所があるんだ、ちょっと乗ってよ、と船に乗せて。着いた先は、見知らぬ港の近くにある見世物小屋だった。
この日、ダントの町の港からスミレという声のない人魚が消えた。陸を追われた脚では逃げることも叶わず、助けを呼ぶ声もなく、女が置かれたのは見世物小屋の観客席ではなく舞台の側。世にも珍しい魚の尾を持った女として水槽に入れて出され、乱反射するライトの中で、女は観客席に船乗りの男を見た。そしてこのときこそは、理解した。自分は、ここで売られたのだと。
その花の本当の願いとは、何だったのか。
「ご無沙汰しております、モーガン様」
薬品の匂いの充満した部屋に、一人の黒ずくめの男が訪ねてきた。見知った鷲鼻の顔に、モーガンは読んでいた本を手離す。本はばさりと音を立てながら、ソファの下の山の中へ落ちていった。
「久しいな」
「はい、お変わりないようで。本日は是非、モーガン様にお見せしたいものがございまして」
「何だ?」
「南方の港にございます、小さな見世物小屋で手に入れた世にも奇怪なものでございます。……こちら」
鷲鼻の商人が、何やら後ろに置いてあった大きな荷物を重そうに引き摺って前へ出した。中身を覆うようにかけられていた布を、慣れた手つきで一気に外す。
「―――まさしく、人魚にございます」
「……ほう?」
そこには、透明なバスタブのような浅い楕円の水槽に入れられた、人魚がいた。厚い硝子の中で、薄紫の長い髪を水に揺らめかせながら、藍色の尾を少し窮屈そうに折り曲げている。会話が聞こえているのか、布を外されてからというものその顔はモーガンのほうへ向けられていたが、目元には包帯が巻かれていた。モーガンが思わずそこに目を留めると、視線に気づいたように商人が水槽をもう少し前へやりながら話す。
「見世物小屋のライトの反射に発狂する節があったようでしてね、声はまあ、どうしたのか売られた時点で元々出なかったそうですが、如何せん泣き狂って止まないと言うんで、包帯を巻かれていたようです」
「……」
「私が買い取るまでずっとそうだったせいか、久しぶりに包帯を外したら視力がほとんど失われていましてね。何かの拍子に暴れても困るので一応巻いておりますが、独特の美しい色をした眸を隠しておりますよ。いかがです?」
商人は台座に零れた水を拭き取って、モーガンのほうへ視線を向けた。人魚は時が止められたように、先ほどから動かない。モーガンはしばらくそれを眺めていたが、やがて口許にすうと笑みを浮かべた。
「幾らだ?」
「はあ、それは、ええ。闇市では、六百五十万ハイヴからスタートさせるつもりです」
「相変わらず汚い言い方をする」
吐き捨てるように笑ったモーガンに、商人は笑みを崩さないまま頭を下げた。静かな部屋にパチン、と指を鳴らす音が響く。ソファの後ろの大きな木箱が開き、中から札束が十、商人の前に降ろされた。
「一千万ハイヴだな」
「毎度、有り難うございます」
皴の刻まれた手が、素早く丁寧に、その札束を確認して鞄へしまう。
再度深々と頭を下げた商人が部屋を後にすると、モーガンは本でできた階段を下り、商人が残していった水槽の前で立ち止まった。そして水槽の縁へ手をかけて、足音に反応するようにこちらを向けられている人魚へ手を伸ばすと、その薄紫の髪へ手を通し、目元を覆う包帯の結び目を解いた。
「……久しいな。見世物小屋にいたとは、普通は助けを願いそうなものだが。予知夢にも出なかったということは、私のことは忘れたか?……ああ、それとも」
するりと、白い包帯が緩んで髪の間から滑り落ちる。額を離れたそれが水面に触れて、わずかに水を跳ね上げた。
「とうに、そんなことを願える状態でもなくなっていたのか。どちらだろうな」
数年前に見た顔が、そこにあった。視力はほぼ機能していないと聞いたが、多少は何か、ぼやけたものでも映っているのだろうか。薄暗い部屋の中では、特に発狂する様子もない。
「……だから、あのとき忠告したんだ。君は、自分の願いの正体に気づくのが遅すぎた。いや、今でも気づかないままなのか、こうなってしまっては私にも分からないが」
緑青のような、果てしなく眩しく濁ったその眸を覗き、モーガンは言葉を返さない女の睫毛に冷たい唇を寄せた。微かに、瞼が震える。だが、それだけだ。指を鳴らして剥き出しの肩にシーツをかけてやると、剥製のように動かない女へ向けて、吐露するように言った。
「愛されたこともないままに、愛することに憧れすぎたんだ。君の本当の願いは、結局どちらだったんだろうな―――スミレ」
その花の本当の願いとは、何だったのか。小さな幸福だったはずだ。当たり前の日常、少しの愛情。もしくは、それを全く知らなかったがゆえに、彼女の願ったものはあまりに大きな理想だったのだろうか。これだけの代償を払っても、欠片も手に入らないほど。
空虚な眼差しから逃れるように、モーガンは片手で自分を見上げる一対の眸を塞いだ。緑青の色が、見えなくなる。瞬間、焦点の合っていなかった女の眸から、何かが零れ落ちた。それは泪だったのか、髪を伝った水滴に過ぎなかったのか、今となってはそれさえも誰にも分からないのだ。