窓の海

 ひらひらと、小指ほどの何かが水の中で揺れている。観賞用の魚だと思ったそれは、近づいてみると人魚だった。波などあるはずもない小さな瓶の中で、ペパーミントグリーンの尾を水流に煽られるように翻す。398円。赤いペンで書かれた値札が、棚の手前に差してあった。
 「何?」
 「あ、喋るんだ」
 「当たり前でしょう」
 じっと見つめていると、瓶越しに声をかけられる。水と硝子を通されてくぐもってはいるが、澄んだ声色だった。深い、くすんだ金の髪の間から覗く瞳は、黒曜石の欠片のようだ。はたと視野を広げれば、棚には他にも色とりどりの人魚が並べられている。皆一様に、両脇が丸みを帯び、全面と奥の面とが平らになった、安そうな瓶に入れられていた。水草に凭れて休むもの、泳ぎ回るもの、中には興味深げにこちらを窺い見ているもの。
 そこまで見て、再度僕は初めの人魚に視線を戻す。赤や青はたくさんいたが、ペパーミントグリーンは彼女だけだった。申し訳程度に沈められている貝殻の上で、退屈そうに尾を揺らしている。

 結局僕は、雑貨屋でその人魚を買った。コインを四枚で僕の手に渡った人魚は今、不安定な紙袋に入れられて階段を上っている。アパートの階段は、上るごとに蒸し暑さを増した。部屋は四階だ。
「もうすぐだよ」
疲れてきた足が大袈裟に動くので、僕は紙袋の底を片手で支えるようにして両手に持った。効果がどの程度あったかは分からない。人魚から返事はないが、彼女は帰る道すがら一度くらいしか口を利いてくれなかったので、それについてはこの期に及んで気にしなかった。
 「どこに飾ろうかな」
 鍵を開けて、狭い玄関に靴を脱ぎ、部屋へ上がる。一人暮らしだ。正方形に近いリビングを一周、見回してみて、テーブルに紙袋を置いた。中から瓶を取り出す。蓋についたやけに鮮やかなシールが、僕の部屋には異質だ。
 「希望は?」
 「……狭い家」
 「……特になし、でいいのかな?」
 返答はない。だが、片手で提げてきたわりには酔わせずに済んだようだ。水面へ上がって吸った空気をぷかりと吐く人魚を見て、ひとまずそう判断した。希望が聞けなかったので、さてどうしようかともう一度部屋を見回す。雑然とした空間の中に、一カ所だけ、片付いたところがあった。
 窓際に、瓶を飾る。人魚の入った瓶を。木目の鮮やかなラックの上で、唯一の観葉植物と人魚が並んだ。ふいの眩しさに、瞬きをしている。だがすぐに慣れるだろう。苦しくならないように、蓋を外して目線を合わせた。
「そこで構わないかな。他にはちょっと、すぐ置ける場所がないんだ」
「そうみたいね」
「僕だって狭い家だけど、君の家はさらに狭いな。水槽くらいは用意してくるよ。どれくらいがいいの?」
訪ねると、人魚は微かに目を見開いた。熱帯魚と同じような発想だったのだが、何か間違ったことを言っただろうか。人魚の飼育法など見たことも聞いたこともないので、教えてもらわないことには分からない。何、と先を促す僕に、彼女は困惑したような、様子を窺うような顔で言った。
「水槽なら必要ないわ」
「え?」
「これでいいから。……あまり広いと、声が届かないでしょう」
「水面に上がって話せばいいのに」
「いいの」
一蹴。答えるというよりは遮るように会話を終えられ、僕は少し面食らった。
「どうせ、大して長居はできないもの」
つけ加えられた彼女の言葉を、脳がぼんやりと把握する。具体的なことを訊ねるべきか迷ったが、それきり窓のほうを向いた彼女が目を合わせなくなったので、深く訊くのは止めておいた。

 「お帰りなさい」
 翌日。いつもの通り大学へ行って少し早めに帰宅すると、部屋に人魚がいた。僕が置いたのだから当たり前なのだが、その光景に一瞬、戻る部屋を間違えたかと思ってようやく冷静になる。人魚は、不機嫌そうに首を傾げた。興味がなく退屈そうなのは出会ったときからだが、今の様子は少し違っていて、僕は鞄を肩から提げたままで窓際を凝視する。
「もう一度、言わないと聞こえない?」
「え?……あ」
ペパーミントグリーンが、夕日に照らされて揺れていた。よく似た魚が頭をよぎるが、名前は思い出せず、実在したかどうか怪しい。不機嫌な人魚の言葉がようやく理解できて、僕は同時に、心の奥で少し動揺してしまった。懐かしい、もうしばらく口にしていなかった返事を口にする。
 「……ただいま」
 人魚はそれを聞くと、納得したようにふらりと背を向けて、水草に潜ってしまった。夏の日暮れだ。その小さな瓶を越えて、窓を開ければ涼しい風が吹き込んだ。水面を見下ろしてみると、金の髪ばかりが浮遊して見える。僕はなんだかそれが急に美しいのと恐ろしいのとの狭間にあるような気がして、深く考えるのを止めた。

 「ただいま」
 あれから、一週間が過ぎようとしている。人魚のいる生活にもいつの間にか慣れた。玄関の鍵を開けて、靴を脱いで部屋に上がれば、今日も彼女は窓際にいてゆっくりと振り返るのだ。そうして黒曜石の欠片のような瞳で僕を確認すると、お帰りなさい、と短く答えた。
 この一週間、彼女と暮らしてみて分かったことが色々とある。あまり積極的に喋るほうではないので僕が質問として思いついたことしか教えてもらえていないが、改めて思えばそれなりに多くの話をしているようだ。
 例えば、人魚の食べるもの。食事は何が必要かと訊ねたら何だと思うのかと聞き返されたので、真珠だと思うと答えたらロマンチストと長いため息をつかれた。正解は、声だという。人魚は人間の発する声を糧にして生きているらしい。ということはつまり今、彼女を生かしているのはこうして話しかけている僕の声なのだろうか。そう考えると僕にはそれはそれで妙な気恥ずかしさが湧いたのだけれど、彼女にとっては当たり前のことのようで、真珠のほうが大分恥ずかしいもののように扱われた。
 尾の色の違いは、僕たちでいうところの髪の色に当たる程度の感覚らしい。肌の色に近い感覚であるのだろうかと思っていたので、これといって優劣を感じることもない、意識して拘っているものがいればそのほうが珍しいくらいの違いだ、と答えが返ってきたことには少し驚いた。僕たちは人魚というとついその尾鰭に目を向けてしまうが、彼女たちの中では髪の美しさのほうがよほど重みを持つらしい。
 海についても聞いてみたことがある。人魚はそもそも、どこで生まれるのかという話をしたときのことだ。やはり海なのかと訊ねた僕に彼女は頷いて、自然界では巻貝の中に住み、ダイバーや船乗りの声を食べて生きているらしいと教えてくれた。らしいというのはもっとも、彼女自身は海を知らないそうだ。養殖の人魚だから、という。生まれたときから水槽の中で、ラジオの声を食べて育った。本能と遺伝子が海の存在と本来の在り方を感じてはいるが、彼女は潮の香りも水の深さも知らないそうだ。
 そんな話を聞いたのが、昨夜のこと。
 「あのさ、行ってみたい?」
 「どこへ?」
 「本物の海」
 有り合わせの惣菜を夕飯に摘まみながら、僕はふと思いついたことを訊ねてみた。郷愁の念、とでもいうものが人魚にあるのか分からないし、そもそも彼女にとって故郷は、海ではなく水槽であるとか、あの雑貨屋なのかもしれないが。
 「そうね、いつか」
 しばらく考えるような素振りを見せて、彼女は呟いた。きらきらと水が眩しい。
「でも、今でなくていい。いつかのいつかで、いいのよ」

 翌日、僕は大学で近くの海についていくつか話を聞いた。小旅行が好きでよく出かけている友人から、電車で三時間くらいのところにあるという穴場を教えてもらう。古い展望台が建つ崖の近くで、そこからは海を見下ろせる他に、少し歩けば海辺へ下りていける階段も見つかるらしい。いつかのいつか、と言っていたのですぐに連れて行くつもりはないが、いつか彼女に見せるならきっとその海がいいだろう。どんな顔をするだろうか。予想を超える広さに、押し黙ってしまうだろうか。或いは、生まれて初めて目にする故郷に帰りたいと思うのだろうか。
 「ただいま」
 取り留めもなく考えながらドアを開ければ、今日も窓際に人魚はいた。鍵の音が聞こえたのだろうか、僕が声をかけるより先にこちらを向いていた彼女が、お帰りなさいといつもの通りに返す。僕は海の話はしなかった。代わりに留守の間、彼女が窓から見ていた風景を聞きながら食事の仕度をした。人魚は、いつもより少し饒舌だった。それをほんの一瞬、不思議に思ったが、出会って一週間を越えたのだ。僕も人魚に対して饒舌になったし、彼女も環境に慣れてくる頃なのだろうと、気に留めることはなかった。

 明くる朝は大学が休みだったので、僕は遅めに起きてゆっくりと着替えをした。いい天気だ。今日は一日何をしようと考えて、何はともあれまず朝食だという結論に至った。そうして立ち上がって、いつものように窓際へ声をかける。
「おはよう」
外のフェンスが光を弾いて眩しく、窓を開けるのは後回しにすることにした。先に顔を洗おうと窓へ背を向け、そうしてふと、違和感に気づく。返事がない。不機嫌なのだろうかとも思ったが、最初の日はまだしも、彼女は存外話しかけられれば答えるという性格だった。少なくともここ数日で、朝の挨拶を無視された覚えはない。
 「何、もしかしてまだ寝てる?もう、朝―――……」
 窓際の、瓶を覗く。眩しさに手を翳して水中を見たところで、僕はようやく、事の変化に気づいた。
 人魚がいない。
 あれほど毎日いた、ペパーミントグリーンがどこにも見当たらない。水草の陰にも、貝殻の上にも、どこにも見えなかった。代わりにぽつりと、真珠がひとつあった。指の先くらいの、大粒で輝くような白をした真珠だ。それがしんと空になった瓶の真ん中、いつも人魚がいた辺りにひとつだけ沈んでいた。
 その光景に思考がふつりと途絶え、目の奥が真っ暗になる。頭の中に鐘を突くような音が何度も鳴り渡った。それが、鼓動の音だと気づくまで少しの時間を要した。心臓の在り処を確かめるように、シャツの上から胸に爪を立てる。そこはどくどくと僕の体でない生き物のように早鐘を打っていた。
 耳の奥に、人魚の声が甦る。初めてこの家へやってきたときに、彼女が言っていたこと。
 ―――水槽は必要ない、あまり長居はできないから。
 僕は、あの言葉を忘れたつもりはなかった。だが、忘れていた。そうしたほうが、心が波立たなかったから。

 ざあざあと、寄せては返し、岩に当たって砕ける波の音がしている。海へは電車で三時間、友人の言っていた通りだった。展望台の聳える崖を横目に、土の断面に沿うように歩いて行く。やがて小さな階段が目に留まる頃には、すっかり汗が滲んでいた。
 「着いたね」
 誰にともなく語りかけて、数歩進んでから、僕は手にしていたビニールの袋を覗いた。少し汚れた、ファンシーな書体のシールが目に入る。この一週間でやたらと日に褪せた気のするそれを見て、外しておいたはずなのに日が当たったのかなと、一人吐息のような笑声を漏らして階段を下りた。
 低い岩の上に立って、群青に照る海を眺める。僕はこんな水の底に、何があるのか知らない。知らないけれど、そんな場所に彼女を帰す。完全な肺呼吸である僕は、足を滑らせることを怖れて本当の水際へも行けないで。
 固く閉めた蓋を開けて無意識に手のひらを添え、指先を滑らせるようにして水を流した。狭い瓶だと思ったのに、存外たくさんの水が詰まっていたことに驚く。密閉された液体独特の温さが肌に染み込んで、嫌に蝉の声が遠く聞こえた。
 水の抜かれた瓶から、貝殻を取り出す。いつも人魚が腰かけにして退屈そうに窓の外を見ていた、小さな貝殻だ。一瞬躊躇ったおかげで、思い切り投げたつもりが思ったより近くへ落ちた。水面を弾く音を立てて、貝殻が群青に染まる。あ、と声を上げる間もなく、それは傾いて沈んでいった。
 ふらついた気のする足を少し開き、僕は最後に残った真珠を取り出そうとした。指で挟んで出そうとしたそれはもう少しのところで手がつかえて届かず、底のほうで白く輝いている。時間をかければかけるほど何か、波の音の規則性に呑まれていくような、そんな気分になって僕は結局指で取ることを諦めた。水平線までは船の影ひとつ見当たらない。穴場がいいとは言ったが誰がここまで、と友人の顔を思い出したとき、瓶の肩の丸みにつかえていた真珠が、ふいに零れて手のひらを転がった。
 それは、あっけない出来事だった。指を伸ばしてみたときはどう工夫しても届かなかった真珠は、僕の傾いた手のひらを伝って、真っ黒な岩の上で卵のように跳ねる。そうしてほんの小さな音を残して、感触さえ知らないうちに水へ落ちて見えなくなった。あ、と今度こそ声を上げたが、体は動かない。
 真珠は真っ直ぐに海へ帰り、後には波紋さえろくに残さなかった。慌てて瓶の中を見るが、もう遅い。そこには確かに何もなくなっていて、揺らしてみれば微かな水の名残が底を擦って、きらきらと煌くだけだ。呆然として佇めば頭の奥で、ペパーミントグリーンが残像のように翻って消える。そのときになって僕は初めて、人魚の姿でも真珠の姿でも、僕はとうとう最後まで彼女にはっきりと触れたことがなかったのだ、と気づいた。
 空になった瓶を一頻り見下ろしてからビニールへ戻し、僕は水に濡れた手を握って、そっと開いた。鱗の一つさえ、そこには残されていない。ただジャスミンの花の咲くような、ここではない、どこか遠くの海の香りが風に乗って舞い上がった。

 「ただいま」
 夕陽の照らす階段を上り、鍵を開ける。午後五時、夏の終わりを告げる羽虫の群れが飛んでいた。
 帽子でそれを払いのけ、ドアを開けて部屋へ入る。返事はない。静かな部屋に窓から差し込む橙色が、尖った三角形を描いて壁まで続いていた。
 僕は帽子と鞄を置き、靴を脱ぎ、いつものようにその部屋へ上がる。電気を点けると、どうやら少しは空気が動きを取り戻して見えた。陰を失って逃げ出す夕陽を踏み分け、真っ直ぐに向かうのは部屋の奥。そうして僕は、くしゃくしゃになったビニールの袋から、それを取り出した。
 窓際に、瓶を飾る。空っぽの瓶を。それだけで不思議と、帰ってきたという心地が湧いた。観葉植物の緑の隣に、透明が並ぶ。水の一滴も入っていないが、安っぽいシールがついているからという理由で蓋を外した。
 「眩しいな」
 硝子に弾かれた橙色に目を細め、誰にともなくそう言って僕は夕飯の仕度をしようと窓に背を向けた。揺れた空気に潮の香りが、ふと滲んで消える。呟いた声がいつまでもいつまでも漂っているような気がして、早く食べてよ、と溢せばそれは宙に弾けて、消えた。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -