魔女

 ざくり、と歯の通る感触に続いて透明な紅い雫が手首を伝い落ちた。甘酸っぱいような、ただ酸っぱいだけのような、それでいて微かに酔いの回る錯覚を起こしそうな、何とも独特の味わいが広がる。細かな粒がいくつも潰れて、辺りの空気を紅く染めたような気がした。つ、と落ちる果汁を、舌で舐め取る。
 「ねえ、知ってる?」
 「何?」
 「魔女を仕留める、確実な方法よ」
 ―――柘榴、というものらしい。と、つい先ほど名称を教わったばかりの果実を片手にしたまま、俺はふいに口を開いた彼女の言葉に、思わずそちらを向いて視線を合わせた。細かなウェーブのかかった長い灰色の髪が、真っ黒なフードから溢れて胸元を埋めている。本当はもっと長さがあって腹の辺りまで続いているのを分かっていたが、向かいに座っている今は間に置かれたテーブルに遮られ、そこまでしか視界に映せなかった。
 魔女を、確実に。しばしそんな光景をぼうっと眺めていた俺は、先の言葉を頭の中で繰り返して、噛み潰した柘榴を飲む。少しの渋さがあった。森で採ってきたというから、これでも大分良いほうなのだと思う。栽培された柘榴も口にしたことがない身としては、城で支給されるワインよりずっと魅惑的だ。魔の森の果実と呼ばれるだけあって妙に魅力のあるこの果実は、伝承と儀式を重んじるあの国では毒物と同じように、持てば破滅をもたらすといって取り締まられる。
 「……さあ。知らないな」
 さながら、魔女の心臓のように。喰らえば永遠を手に入れるが、魔女に支配され自由を失うという、嘘か真か疑わしいが現実として教育されている話。そんなものをふと思い出してしまって声に苦笑が混じり、目の前の彼女が訝しげに首を傾げた。何でもない、と続きを促せば、短い沈黙が降りる。鍋のふつりと煮え滾る音が、彼女の背の向こうにある小ぢんまりとしたキッチンから聞こえていた。
 「でも、まあ、こうして実体があるわけだから。人間と同じで、斬れば傷がつくんじゃないのか」
 結局、先に口を開いたのは俺だった。魔女というのは正確に言えば異種族だが、人に近い形と文化を持っていて、言語を介し意思を疎通する。傷を負えば血が流れ、果てしなく長いが寿命も持つ。少なくともそう学んだ俺はそれを信じることにしているのだが、答えを聞いた彼女はため息にも似た細い息をついた。
「そうね、間違いではない」
「でも、足りない?」
「そう。確かに血は流れるし、傷つけば動けなくなることもあるでしょう」
「動かなくなるって、つまりそれが死だろう」
「……驚いた。貴方、本当に知らずにここへ来たのね」
呆れが滲んではいるものの、言葉の通り、驚きが大半を占めていることが傍目にも見て取れる目をしていた。まあな、と返して手のひらの柘榴を一口齧り、腰に下げた剣の柄を肘で突いて言う。
「それが、仕事だからな」
「そういうものなの」
「どんな無茶振りだって、王様が行けって言うんだ。断ってその場で牢屋に入れられるよりは、試したほうがましだろ」
「死ぬかもしれないのに?」
「交戦例のない敵なんて、いくらだっているんだよ」
カン、と床に触れて鳴ったそれを一瞥するように、彼女は視線を下げる。切り揃えられた前髪と同じ色をした睫毛が、瞬きに揺れた。背後の鍋が湯気を立てているが、火を止めにいく気はないらしい。確か薬草を入れてあると聞いたが、彼女はそちらの観察より今この会話を優先しているらしい。恐らく放っておいてそれほど問題ないものなのだろう。
 「騎士なんて、名ばかりね。そんなの捨て駒って言うんでしょう」
 「負けたら、そう呼ばれるだけだ。何でもないひとつの駒が勝ち続ければ、それが騎士になるんだよ。結果が決めるんだ」
 「じゃあ、貴方は勝つつもりでここへ来たの?」
 「そういう任務だからな」
 「……馬鹿ね」
 鉛を溶かしたような声で、囁くように彼女はそう吐き捨てた。俺が初めにこの家のドアを蹴破って剣を突きつけたときと同じ、空虚な声だった。私に、罪があるなら教えてくれる。まるで罰することができるならいっそしてみせてくれとでもいうように、喉元を掠る切っ先を拒絶するでも受け入れるでもなく、ただその状況を傍観しきった眼差しでそう言ったのだ。その瞬間を彷彿とさせる、淡々と仄暗い声だった。
 「知識もなしに、私を殺せる可能性にかけたりして。不可能を可能にし続けてきた駒が騎士と呼ばれるっていうのなら、本当の不可能があることは貴方じゃなく、貴方にそれを命じた王様に伝えるべきなのかもしれない」
 安い挑発ならば、剣を抜いてもよかった。そんなものを吐く口ごと斬り捨ててしまえば良いのだから。だが、彼女の言葉はそんなものではないだろう。今になって挑発するくらいであれば、初めから俺を叩き潰せばいいのだから。魔女と交戦経験を持つ騎士は、これまでに一人もいない。彼女にはいくらでも、出会い頭から今このときに至るまで、俺を討てる瞬間があっただろう。
 「どういう意味だ?」
 「言ったでしょう、貴方、魔女を本当の意味で仕留める方法を知って、ここに来たのかって」
 「知らないと答えた」
 「そうでしょうね。……その紋章の星、優秀な騎士の証だって昔聞いたから。私を仕留める本当の方法を知っていたら、貴方が一人で来るはずがないと思った」
 「え?」
 「魔女を殺したければ、騎士じゃない。捨て駒が必要だってこと」
 しかし彼女は、それをしなかった。王の命で参った、死ぬ前に言い残すことはあるかと訊いた俺に、貴方が私を殺すのか、と確かめようとしただけで。他に仲間を連れているわけでもない俺は当然そうだと答えると、命は惜しまない、だが本気ならば私の話を聞くべきだと諌めるように頼まれ、小さなテーブルに案内され、今に至る。
 飲み物は二つのカップのうち好きなほうを俺が選び、同じ缶から出した茶葉で淹れた紅茶を彼女が先に飲み、自ら何も無いことを証明した。使い古された手法だが、最も単純で信用に値する。柘榴もいくつかあった果物のうち、自分で選ぶよう言われて手に取った。断る選択をしなかったのは、敵の手の内でこそあえて笑えと強気に立ち振る舞うことで勝ち続けてきた俺の信条からくるものだったが、柘榴を選んだのは単なる興味だ。城の人間でありながらそれを取るとは物好きな、と言われたが、毒を盛られるとすればすべてに盛られていることだろう。魔の森と呼ばれるここに住む、彼女だからこそ持っていた果実。どうせなら、最後の味はそんな興味をそそるものがいい。
 「貴方は、知らないみたいだけれど。魔女を仕留めるのに必要なのは、剣の腕でも、呪いでも、首を落とすことでも、心臓を貫くことでも、焼くことでもないのよ」
 「不死身みたいなことを。死の概念はあるんだろう」
 「それは、勿論。必要なのは、強いていうなら覚悟なの」
 「どういう?」
 言葉を跳ね返すように問えば、彼女は伏せがちだった眸を真っ直ぐにこちらへ向けた。爛れるような紅だ、どこかで見たことがあると思って無意識に握った手の中、ひたりと冷たい柘榴の存在を思い出して、一人納得する。彼女の眸は、柘榴の一粒に似ていた。触れるものすべてを染めるような、透き通る紅だ。
「犠牲になる覚悟」
「犠牲?」
「そう。どんな炎に焼かれようと、どんな谷底に埋めようと私は生き返る。私を本当に止めたいのなら方法はたったひとつ―――…」
ゆっくりと瞬きをして、彼女はその骨のように白い手を、自分の胸へと当てて言った。
「貴方が私の心臓を食べて、死ぬの」
言い聞かせるようにはっきりとした口調で告げられた言葉に、息が止まる。はっと吸い込んだ酸素は妙に温く思えて、脳が内容を理解するのと同時にどくり、心臓が一度だけ壊れたように鳴った。黒いローブの左胸を抉るように掴み、彼女は続ける。
 「魔女の心臓を食べれば永遠を手に入れるって。それは知っている?」
 「……ああ」
 「あれは、魔女の心臓が魔力の結晶みたいなものだからなのよ。それが尽きると、魔女は死ぬの。寿命があるのは、魔力を燃やして生きているから」
 「……」
 「人間がそれを手に入れると永遠を生きられるようになるのは、人間が魔法を使えないから。命に変わる魔力の結晶を、消費することがないからなの」
 すいと、細い指が振られる。ずっとカタカタと鳴っていた鍋が、火を消されて静まった。音を立てるものが何もなくなった部屋には、俺の息遣いと彼女の声だけが残る。紅の眸の奥を、初めて底が知れないものに感じた。
「魔女は心臓がある限り、生き続けるわ。それが、誰かの腹の中だとしても」
「それ、は」
「でも、食べられてしまったら、心臓はその人と同化するの。魔女の中にあるうちは貫かれても甦るけれど、人の腹に飲まれてしまったら、そんなことはできない」
「……」
「これが、犠牲になる覚悟。捨て駒が必要だって言った、意味よ」
腰に下がったままの剣が、重く震える。薬草の香りが鼻を衝き、つんとした苦味を連想させる。それは想像の心臓の味と混じり合って形のないまま呑み下され、腹の中で赤黒く渦を巻いた。
 「私の話を信じるかどうかは、貴方次第。王様の元に戻って調べたって構わないけれど、きっと真実を知る人なんて、いないはずよ。それでも貴方にとっては、私よりは信じられる人達なのかもしれないけれど」
 「……」
 「でもね、嘘か真か分からないなら、誰の何を信じるも自由で、怖いものであるはずだわ。だって、そうでしょう」
 白い指がすっと、俺の手を指差す。そうして彼女は酷く空虚に美しく、笑った。
 「―――それが私の心臓でないって、貴方、断言できる?食べたことのない果物の味がはたしてまやかしじゃなかったって、言えるかしら」
 交互に見つめれば、手のひらの柘榴と彼女の眸は溶け合って、俺は柘榴を見ているのか目の前の魔女を見ているのか、咄嗟に分からなくなりそうだ。心臓が、どくどくと跳ねている。こんな打ちつけられるように鳴っていたことは今までになかったような気がしてきて、嗚呼これは本当に俺の心臓だろうか、それとも。
 気づけば凍ったように力の入った指先が柘榴の粒を押し潰して、手首の裏の血管を辿るように紅い果汁が流れ落ち、白い袖口を汚していた。血のように広がるそれを、言葉も出せないままに見つめる。紅い雫の流れは留まるところを知らない。俺は徐に熟れた深紅をテーブルに置き、片手を彼女の人形のように細い首へかけ、もう片方の汚れた手で剣を抜いて、自分の胸に当てた。


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