すべての僕はフィクションである、と君が教えてくれた。

 ごぼり、と嫌に大袈裟な音を立ててブルーの視界は泡立つ。ゆっくりと睫毛を持ち上げれば、大小様々な水泡が目の前を昇っていくのが見えた。上昇、とそんな現象を目覚めたばかりにしてはすっきりと覚醒した頭で把握する。今日は気分が良いらしい。
「……起きたの」
「君が、起こしたんだろ」
「まあ、それもそうよね」
僕の、ではないが。水泡の向こうにある硝子のそのまた向こう、向かい合うように置かれた細い脚の椅子に腰かけて、こちらを見ていた視線と重なる。少し長い前髪の隙間から覗く黒曜石のような目が、お決まりのやり取りに小さく揺らぐのを見た。水泡がぱしん、と音を立てて二、三弾ける。水槽の縁に手をかけて、ざぶりと水から上がり、床へ飛び降りた。濡れたシャツは水中ではゆらゆらと漂っていたくせに、こうして出ると肌に密着して気持ちが悪い。
「……嘘だよ」
「……」
「目が覚めたんだ。勝手に」
ひたりと、濡れた手で椅子から立ち上がらない彼女に触れてみる。水は温い。冷たさはそれほど感じないのか彼女はしばし黙っていたが、それからやがて徐に頬を伝った水滴を手の甲で拭って、こちらを見上げた。見つめるような、睨むような、そんな眼差しに僕はそれとなく手を離す。しかし彼女はその手を掴み、指先に何の躊躇もなくキスを落とした。
「どうも」
「……別に。いつまでも濡れた手で触られちゃ、堪らないし」
「じゃあ、最初からこうしてくれればいいのに」
「忘れていたのよ」
「へえ、そういうものなの」
キスを受けた瞬間から、体内に風が巻き起こるような感覚が生まれて、あっという間にシャツや肌に残っていた水気を飛ばしていく。この現象はいかに順序だてて考えたところで、頭で理解できるような類のものではない。一般的な少女である彼女にこんなことが可能である理由は、ここが彼女の把握する領域であるからという理由でしかないのだ。逆に言えばそれはこの空間のすべてであって、ここにあるものはどれを取っても彼女の構築したものであり、彼女の感情の変化や意思に呼応して姿を変える。
 絶対的支配者のような、王のような、そんな存在。だがしかし、彼女はここにいる間、今も腰かけている小さな椅子から動くことはできない。それはここが彼女の把握する領域でありながら、あくまで把握すべきもの―――つまるところ、侵害すべきものではないからというルールに基づく。そう、彼女は支配者で部外者だ。この世界を生かすも壊すも自由でありながら、彼女自身がこの空間で生きることは許されない。
「それで、何しにきたの?息抜き?」
「違うわよ。……葵、貴方にプレゼントをあげる」
「今日は何?」
「天気と、それを変えられる石よ。はい」
「……ん」
この空間において、力を持つのは彼女。自由を持つのは僕だ。目を閉じた彼女の高さに合わせて屈み、こつりと額を合わせれば色鮮やかなイメージが脳に雪崩れ込む。ぐるぐると巡る色彩と音と光の、目まぐるしいことといったらない。彼女の空想は、いつもそうだ。これは果たして常人に流し込んで正常でいられるものだろうかと、人間と人間が額を合わせてイメージの共有をすることは通常できないと知っているが、それでも考えてしまう。それほどに、彼女の空想の精密さと鮮やかさいうものは凄まじい。僕に受け取ることができるのは、偏にそれこそが僕の役目のようなものであり、存在の意味といっても過言でないからに他ならない。
「どう、使えそう?」
「うん」
 ぽん、と彼女の流し込んだ空想から、手のひらに石を取り出す。半透明の灰色をしたそれは指でなでると思い浮かべた通りの色に変わって、それを天井に反映させた。碧空が、今まで真っ暗闇だったそこに現れる。もう一度石に触れると、今度はそこに星が鏤められた。真昼の星空に、彼女がふと微笑う。水槽の中で生まれては消える水泡が、粉雪のように小さくなって一斉にそんな空を目指して昇った。
「……上出来ね」
「当たり前だよ。君を誰だと思ってるんだ」
「そこは、僕を、じゃないの」
「……それこそ、当たり前になるだろう?」
 満足げな声に彼女のほうを向けば、その髪の一本一本が蛍のように薄く発光している。髪だけでなく、爪先や鼻、睫毛の先も同じだった。その様子に、僕もああと気づいて傍へ屈む。
「行くの?」
「ええ。また夜に来るから」
「分かった」
「―――葵」
呼びかけられて何、と答えようとすれば、髪を梳くように指を通されて引き寄せられた。光る手のひらが、輪郭を確かめるように頬をなぞる。盲目でもないくせにまるでそんなことを彷彿とさせるその仕草に、心臓など入っていない空っぽの胸がきんと鳴った。甲高い痛みの反響を、僕はやり過ごす。
「……また来るわね」
「うん」
「愛している」
おやすみなさいと、まるで子供にそう言う母親か何かのように彼女は僕の額にキスをする。僕もだ、と返してその手のひらへ忠誠を誓うかのようにキスを返せば、彼女は何も言わずに微笑んで、そうして無数の光の粒の塊となって弾けて消えた。僕はその消えた意識の塊が座っていた椅子を、そっとなでる。熱は残らない。例えどれほど彼女がここにいたとしても、後には何も。
「……」
 ざぶりと、水槽に飛び込んで瞬きをする。乾いていたシャツは水を含んで広がり、僕の視界を瞬間的に真っ白に染め変えて翻った。後にはまた、ブルーが広がるばかりだ。ただひとつ違っているのは、あれほど浮かんでいた水泡が今はひとつも見当たらないこと。この世界を起こす存在の不在を表すように、僕にも眠気が訪れる。
 すべての僕はフィクションである、と君が教えてくれた。不可能の及ばない世界に生きる、僕は彼女の創り出した空想だ。すべての自由は彼女によって創られ与えられ、この手にあり、僕は時に脆く時に全知全能で、不確かに真実だ。天候を操ることもあの星を撒き散らすことも、ここでは何ら造作もない。けれど、けれど。
「――――――」
緩やかに落ちてくる瞼の隙間から見上げた空は、どこまでも澄んだ青天の星空だ。溶けていく思考の中で自嘲気味に笑って、僕は思う。神様になどなれなくていい。ヒューマノイドにも興味はない。空想だってこれほどの世界を与えられるほどの力が彼女にあるというのなら、どうか僕の翅を切って。この身に溢れる色とりどりのすべての自由と引き換えに、彼女の世界へ僕をそろそろ、生み落としてくれたらいいのに、と。


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