ミスターパレットV

 翌朝、昨日の嵐は跡形もなく過ぎ去って、外にはわずかな水溜りが残るだけとなっていた。三時を過ぎる頃にはそれもほとんど乾いてきて、嘘のようにからりと薄く青い空ばかりは広がっている。あれだけたくさん降った雨はどこへ流れていくのだろうと考えながら、私はどこかぼんやりと注文の確認をして、店の前を箒で掃いた。緑とも黄色ともつかない、曖昧な色をした木の葉が一枚散っている。季節が変わっていく瞬間にあることを、暗に認識せざるを得なかった。
 クローズの看板をドアにかけ、私は夕方が近くなった街へ歩き出す。まだ人通りの多い時間帯だ。通りすがる人は皆、重そうな荷物を下げたり地図を広げたりしながら歩いていく。ちらほらと薄手の上着を羽織っている人も見えた。私もその一人だ。クリーム色のストールで肩を覆って、どこからともなくやってくる橙色の破片を空の端に見つけながら、待ち合わせの場所へ向かう。
「お待たせ」
「あ、来てくれたね」
「もちろんよ。約束したもの」
噴水の前に着くと、彼は先に来て待っていた。時間には少し早いくらいだったが、彼はちらりと空を見てこちらへ視線を戻す。
「思ったより暮れるのが早いな。行こうか」
「どこか移動するの?」
「うん、西の崖まで行くよ。日が暮れるまでに着きたい」
「ええ?」
平然として言われた言葉に、私は思わず間の抜けた声を上げてしまった。記憶の中にある、西の崖を思い出す。下は手つかずの森が生い茂る、落ちたら恐ろしいなんてものでは済まない絶壁だ。だが、問題はそこではない。
「貴方は知らないかもしれないけれど、今からあそこへ行くのは無理よ。あの崖、下も森だけれど着くまでにも森があるの。人の足で昼に歩いたって、抜けるのに二時間はかかるわ」
西の崖がある一帯は、もともと広い森だった場所だ。そこを少し広げて人が住むようになったが、子供がふざけて崖へ寄っていかないよう、薄暗い森をそのままにしてある。使い古されたお決まりの手段だが、あの近くに住む子供は皆、あの森へ入ったら悪い魔女に食べられてしまうと脅かされて育つのだ。そうやって、大人達が森を残したままにしている。だから今から向かったのでは、とても日暮れまでに崖へ着きたいなど無理な話だ。
 だが彼は、首を横に振った私を見て、何事もなかったように続けた。
「それが、間に合う季節なんだ」
「え?」
「大丈夫。夜が深くなる前に、十分行って帰って来られるよ。君が、帰りも僕と手を繋いでくれたらの話だけれど」
「……あの森はそういう距離じゃないわよ。手を引いてもらったって、そのくらいで早く抜けられるとは思えない」
「まあ、そう言わずに」
一体、何をそんなところにこだわるのだろう。戸惑いを押し隠せないままで立っている私の前に、とうとう手のひらが差し出された。重ねるか重ねまいか、迷いながらも反射的に近づけてしまった手を素早く取られる。そうしてあ、と声を上げる間もなく、引っ張られてよろめくがままに足を出して歩き始めてしまった。
「やってみなきゃ、本当かどうか分からないものだよ」
背中を向けて進みながらかけられたそんな言葉に、不安と諦めを半々にして小さくため息をつく。無理だと思うのだ。彼だって、行ってみれば分かる。そう思うのに、どうしてこうも辿り着けることを確信しているような振る舞いをするのだろう。森に着けば諦めて戻るだろうかと考えながら、私は忠告に聞く耳を持たない彼を見上げて、仕方なく歩いていく。
「この辺りでいいか」
 道を何本か曲がってしばらく行くと、人通りがなくなった。ぽつりと呟かれた言葉に、隣へ立ってその顔を見上げる。
「いいって、何が?」
「うん、説明が難しいんだけれどね」
「?」
「走る。手、驚いても離したら駄目だよ」
「どういう……!?」
意味を、訊ねる暇さえなかった。だん、と低い音が響く。それが人の足が地を蹴る音だと気づけた頃には、辺りの景色が一変していた。ごうごうと風の唸る音が耳元で聞こえる。速い。風がうるさいのではない。私達が、速すぎるのだ。
「―――!」
駆けていく。人のいない路地を、彼は私の手を引いて縫うように西へと走っていく。景色は見たことのない速さで後ろへいって、見慣れた街のはずなのにどこを走っているのか理解が追いつかないくらいだ。ランドウ、と声を上げようとして舌を噛みそうだと思い留まった。正確には、経験したことのない速度の中で、上手く口が開かなかっただけかもしれない。
 足は信じられない速さで動いているのに縺れなくて、不思議なほどに痛みや疲れも出てこない。距離にしてもう結構な長さを走っているのが、辺りに店が減ってきたことで分かった。はっとして顔を上げると、西の崖へと書かれた看板が立っている。読み終える頃には、それを通り過ぎる。
「……!」
 ふと、握られている手の力が強くなっている気がして視線を向け、目を見開いた。爪だ。否、それは当たり前なのだが、そうではない。人間の指であることは見た目にも感触にも間違いがないのに、その爪は異様に尖って、硬そうに伸びている。日頃からこんな爪をしていたはずはない。こんなものを、見落とすわけがない。まるで獣の爪だ。
 ―――体の中に魔獣を飼っていてね、それが時々、思い出したように外の世界を見たがるんだ。
 まるで光が弾けるように、頭の中にそんな台詞が思い出されて響いた。夏の半ば、初めて会ったときの会話。
 ―――秋が近いからね。黄金の季節は、王者の鬣の色だろう?
 何度も、いつも会話の中に出てきた秋という言葉。魔獣と鬣という単語に、黄金色の毛並みを持った生物の王を思い出した。遥かな昔から、食と力、そして誇りの象徴として描かれる秋の色をした獣。
「ランドウ、貴方……」
「……」
「……本当だったの……?」
少しだけ頬を切る風の速さにも慣れて、そんなことを呟いた。返事はない。
 よくできた作り話に過ぎないと、どうして信じて疑わなかったのだろう。作り話である可能性も真実である可能性も、本当はどちらも同じようにあったのに。天秤が急速な傾きを見せていく。小さな家ばかりが並ぶようになってきた景色の中を、視界にはその風景が、頭には彼との思い出がばらばらと溢れながら過ぎていく。西の崖へ抜ける森が見えてきた。彼はそこへ、迷うことなく飛び込む。私も転がるように駆けて、木々の間を信じられない速さで潜り抜けていく。
 繋いだ手の力がまた強くなって、さすがにきりきりとした痛みが走ったときだった。ほんの一瞬体が向き合ったと思ったら、まるで子供を抱き上げるように抱えられたのは。驚いて小さな悲鳴を上げたが、その声さえもどこかへ消えていってしまうほど、彼は加速する。森が密になっていく中を、私はその肩に手を置いたまま一緒に駆け抜けていく。風のようだ。
 その足元で舞い上がった木の葉が地面へ落ちるのを見たとき、頭の中に一つの光景が思い出された。嵐の数日前の夜、街の片隅で見た景色。彼が通るのを見たと思ったのに、追いかけてみたら誰もいなかった。木の葉だけが、一枚舞っていた。あれも人通りのない、静かな道だった。
「――――――……」
あれは、こういうことだったのだろうか。困惑がないと言ったら嘘になるが、それ以上にどう言葉にしたらいいのか分からない複雑な感情ばかりが胸を占めていて、私はそろりと伸ばした腕を彼の首に回した。視界を塞がないようにと気にしながら、ぎゅっと抱き寄せてみる。わずかに反応があったけれど、言葉は何を選んだらいいのか分からないから交わさなかった。黙って寄り添った私を、怖がっていると思ったのだろうか。そんなことはないのだけれど、ぽんと肩を撫でた手になぜだか気が緩んだのが分かった。ざあっと木々が騒いで、視界が唐突に拓ける。森を抜けたのだ。
「……ほら、着いた」
「……本当ね」
「やってみなきゃ分からないって、言ったでしょ」
 あれほどの速度で走ってきたというのに、穏やかな着地のように彼は足を止めた。景色もふわりと止まって、目の前には広い崖が見える。西の崖だ。
「有難う……」
とんと下ろされて、固い地面の上に足をつける。戸惑いながらも礼を言えば、困ったような顔をした後で首を横に振られた。朱色の光が、その頬を照らしていることに気づく。
「勝手にここまで連れてきてごめん。驚かせたね」
「まあね。びっくりしてないって言ったら、嘘になるわ。……それ」
「え?ああ、これ……自分じゃ気づかなかったな」
指差せば、彼は自分の手を見て瞬きをした後、そう言って浅いため息をついた。ごく一般的な人間の手にあまりにも不釣合いなそれを、私もゆっくりと見て口を開く。
「爪よね。貴方が話していた魔獣って―――……ライオン?」
金色の瞳が、揺らめく。琥珀を溶かしたような色だと、ずっと思っていた。美しくて重く、柔らかいのに人間的でない。ようやく届いたその答えは声になって外へ出ると、より確信へ近づいた気がした。彼が小さく笑って、ゆっくりと頷く。
「正解。信じてくれるんだ?」
「ここまでされて、信じないほうが無理だわ。さっきのは何だったの?」
「秋が近づくと、魔獣が外の世界を見たがるって言ったのは覚えてるかい?どうも本当に間近になると、視るだけでは足りないらしくてね」
中を駆け抜けている間、あれほど騒がしく思えた森はこうして抜けてみればしんと静かだった。風の音はまたなくなって、ほんの小さな声でも話は届く。
「初めに目、次に足、そして手や腕。力が、僕を通して外へ出ようとするんだ。もっとも、本当に出てしまうのは望みじゃあないらしいから、あくまで出そうになるだけだけれど」
「それであんなに走れるし、私のことも簡単に抱き上げられたのね」
「そういうこと」
「貴方の言う魔獣って、何なの?」
 あやふやな物語だと思っていたことが現実のものだと証明された今、私はその最も芯にある、最もあやふやなことを分からないままにしておくわけにはいかなかった。彼のほうもそれは分かっているのだろう、崖を見下ろすように立ってくるりと振り返ると、老いた語り部のような落ち着いた口調で切り出す。
「一年は、四つの季節に分けられる。春夏秋冬、その一つずつに、その季節を司る魔獣がいるんだ。と言っても、すべてが獣とは呼べないけれど、どれも古の存在であることに間違いはない」
「動物ばかりじゃないの?」
「そう。春を告げる鳥、レーティチカ。夏を誘う蝶、ヴィータ。秋を統べるライオン、グリモット。冬を連れる馬、セイウォン。姿かたちは様々だけれど、この世界にある季節はどれも彼らが引き連れてくる」
「……」
「彼らが訪れて力を与えないことには、季節が変わらない。ただ、蝶や鳥ならともかく、ライオンや馬が街を歩き回るのは難しいだろう?……だから、彼らは人の中に宿る」
すべての話を、理解できている自信はない。けれども私は、そのすべてを聞き漏らすまいとして聞いていた。正しく理解し把握することはできなくても、知ることはできる。信じることも、今ならできる。私はしよう。
「そのライオン、グリモットが選んだのが僕だ。旅を始めて間もない頃、まだ故郷を出て一年も経っていなかったかな……、目の覚めるような紅葉の中でライオンに会った」
「……」
「そして訊かれたんだ、契約をしないかと。僕がもし旅の途中、どこかで命を落としそうになったら力を貸してくれる。その代わり、僕は彼を連れて秋の訪れる街を巡る。旅は長く続けるつもりで出てきたし、まだ不安も多かった。それに何より、信じられないような出来事だっていう気持ちもあって、僕はそれを了承した」
ああ本当に、物語のようだ。細々と語り継がれている民話のような、それでいて消えていく儚さのない本当の話。飽きながら生きていくのは寂しいと、それでも記憶にしっかりと残っているらしい故郷のことを語った声を思い出す。退屈を振り切りたかったという彼が旅に出て、手に入れたものがこの世にも珍しい物語だなんて、どんな偶然だろう。
「魔獣が宿ったときは、何の感覚もなかったから白昼夢でも見たのかと思ったんだ。でも、通りかかった湖で映った目の色が金に変わっていたから、確信したよ。あれは、夢でも幻でもなかったって」
「ランドウ……」
「……悪くないと思えるんだ、必要とされている、目的がある旅っていうのも。旅人としては失格かもしれないけれどね」
「いいえ、失格なんかじゃあないわ。向かう先が見えなきゃ、歩けないのは当然だもの」
「……君はそう思ってくれるんだ?」
柔らかなその表情を、私は見ている。満たされている人の顔だ。魔獣の目だという、金色にも私は映る。けれど、今はその対にあるくすんだ青をじっと見つめ返した。奇跡のような物語を引き連れて歩く、私は何よりその只中でしなやかに生きる彼に惹かれていたのだと、それを知るのが遅かったというべきか。あるいはもっと遅く遅く、その記憶さえ朧になる頃に気づきたかったと思うべきか。
「君と会えたのが今でよかった。この街で、いや、旅をしてきた中で一番、忘れられない季節を有難う」
「……ええ、私もだわ。私は特別な目も力もないから、きっと貴方のことも薄れてしまうのでしょうね。でも、忘れることはない」

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