ミスターパレットU
晩夏は長いように思えて存外短く、ふと通りを抜けた風に両腕を抱えて、その涼しさにはっとした。夕暮れに差し掛かった空の色は青と橙と藍が線を伸ばしたように混じり合い、対称に近い色同士が不思議に境目をなくしている。これからほんの一瞬、橙が空をいっぱいに染め変えて、気がつく頃にはあっという間に紺色に変わってしまっているのだろう。
「……」
クローズの文字をチョークで綴った小さな看板を店のドアにかけ、私は閉店時間より少し早く店に鍵をかけた。嵐がこちらへ来ているという。日持ちのする食べ物を、少し買っておきたかった。
路地を何本か抜けて、人通りの激しい大通りをできるだけ避けながら、食品を扱う店が建ち並ぶ一角を目指す。ドライフルーツの量り売りを掲げている店を見つけて無花果と林檎を同じくらい買い、試食に渡されたパウンドケーキにすっかり惹かれて三切れほど買った。次いで隣の店に入ってソーセージを二種類選び、確か近くにパン屋があったと見渡したのだが、どうにも見つからない。もっと先のほうだったろうかと足を進めて、手近な角を曲がったときだった。
(……あら?)
今のは、ランドウではないだろうか。ちらりと見えただけだったが、彼は旅の途中で手に入れたという服ばかりを着ていて、いつ会っても色々な国を寄せ集めたような格好をしているので比較的分かりやすかった。服が多少変わっても、雰囲気は変わらない。
「ランドウ」
路地を早足に抜けて、彼が歩いていったと思われるほうへ向かって声を張り上げる。まだそこにいるだろう、そう思って視線を向けたのだが。
「……?」
そこにはただ長い路地が続いているだけで、彼どころか、人の姿などまるでなかった。見間違い、と考えてからいやそんなはずはないと、心の奥の勘に近い部分が首を横に振る。金の髪、背格好、服装や持っていた鞄の色まで、あれはランドウだった。そう思えるのに現に彼はいなく、それどころか道はとても真っ直ぐに続いているのに誰も見当たらない。呆然と立っている私の足下に、どこからともなく木の葉が一枚、はらりと落ちてきて裏返った。そうしてそのまま、ふいに通った強い風に浚われて飛んでいく。
秋、という言葉が唐突に頭の中を占めて、金色に染め上げていった。秋の訪れるべき場所を、回っている。そんな彼の言葉を思い出して、私は瞬きをした。ならば秋が来た、と、彼が判断する基準は何なのだろう。秋が訪れたと感じたら、どこへ、行くのだろう。
ガタガタと窓が、今にも外れそうな音を立てて震えている。嵐は太陽の街を薄暗く染めながら吹き荒れ、今日はどこの店も閉店か、開けてはいてもお客がいないので店主が奥で新聞を広げているのが見えるような状態だ。ごくたまに通りを人が歩いていくのが見えるが、皆急ぎ足で宿へ帰るといったところだろうか。そんなときなのに。
「すごい天気だな」
「そうね」
「……」
「あの、ランドウ」
「ん?」
「……貴方、何しに来たの」
そんなときなのに、私の店にはお客と呼ぶべき相手が一人いた。もっとも買い物をしてくれる様子はなく、ずぶ濡れでふらりと入って来たと思ったら、月光瓶やら栞やらを物色しながらゆったりとカウンターに凭れて喋っている。
「来ちゃまずかったかい?」
「いいえ、そんなことは。だけども貴方、わざわざこんな日に来なくたって良かったんじゃないかとはちょっと思うわ」
「はは、まあうん、そうなんだけど」
もはや他のお客もいないので、私はカウンターの裏から椅子を二つ引っ張ってきて並べた。すぐに帰るだとか、そんな調子ではないことは何となく分かる。軽く礼を言ってその一つに腰かけ、彼は荷物を下ろした。わずかに残っていた水滴が落ちて、木製の床に濃い円をぽつりと描く。
「……退屈してたところだもの。来てくれたのは嬉しいけれど」
「あれ、そんなことも言ってくれるんだ」
「たまには。ああそうだ、パウンドケーキがあるの、良かったらどうかしら」
良いのかい、頂くよ。躊躇いや迷いを感じさせる間もなく返ってきた答えに、甘いものは苦手ではないようだと理解して、用意してくるからと一度二階へ上がった。二枚の皿に一切れずつ載せて、隣に干した無花果を二つずつ添える。何をしに来たのだろうと思ったことも本音だが、嵐の日をこんなに楽しく感じたのも初めてだった。それは事実だ。
「はい、もうすぐ紅茶も入るから」
「本当?ここの紅茶は美味しかったから、楽しみだ」
「ああ、この間の。飲んでもらえたのね」
「うん」
階段を下りて、カウンターに持ってきたものを並べる。どうぞ、とパウンドケーキの載った皿を差し出せば、彼は有難うと言ってすぐにフォークを取った。私も隣り合うように置いた椅子へ腰かけ、刻まれたドライフルーツの色が鮮やかなそれを一口頬張る。かちゃりと、自分以外の食器を扱う音が少し新鮮に聞こえた。美味しい、とそんな感想を一言二言交わしながら、そろそろ良い頃合かとポットを傾ける。
「気に入ってもらえたみたいで、嬉しいわ」
「うん、香りが良くて冷めても渋くならない。ここの紅茶は、君が選んでるのかい?」
「ええ、そうよ。ほとんど私の好みで調達しちゃうけれど」
「へえ?それなら結構、好みが合うってことかな」
「そうなのかもしれないわね」
冗談めかして言われた言葉に、私も笑って肯定を返した。飴色の紅茶が、天井に吊るした決して大きくない照明の光を映し込んで揺らめく。温かいそれを互いに少し冷まして飲み込む間、ほろりと沈黙が落ちた。途端に忘れかけていた外の風の音が聞こえてきて、耳が思い出したように雨の音を感じ取る。
私がぼうっとそれを聞きながら紅茶を飲んでいると、周りの棚を眺めていた彼がふと口を開いた。
「エリー」
「なあに?」
「この店は、紅茶以外も君が?」
外の景色から、意識が外れる。私は頷いて、フォークの先のパウンドケーキを一口食した。
「どれも私が選んで仕入れているわ。これでも店主だもの」
「ふうん……、他に店員は雇わないのかい?」
「大きな店じゃないもの、この辺りでは小さな店なら一人でやるのが普通よ」
「さすが、商売の街だね。……家族は?」
ちらと二階へ続く階段を見やって、少し躊躇いがちに訊かれたことに納得する。私はこの太陽の街でも、比較的若い部類に入る。外の街では確かに、こんな年齢の女が一人で店を構えているなどそれほどないのかもしれない。だがここは別に、突然の不幸で失った親の店を継いだとか、親戚に捨てられて一人生計を立てるためにやっているとか、そんな裏話のある店ではない。
「いるわよ、一緒に暮らしていないけれど。街の東のほうで鞄を作っているの」
「同じ街にいるんだ?」
「ええ、これも外の地域の人に話すと驚かれるのだけどね。うちが特別ってわけじゃあないの。ここでは、十六になったら子供に店を持たせるのが慣わしなのよ」
「え?」
「親は別に、自分達の職業を継がせることもしないわ。これだけ店があれば伝統は自然と街が守ってくれるし、たまに弟子を取る人もいることはいるみたいだけれどね」
そういうものなのか、と不思議そうに頷いた彼に、そういうものみたい、と私も答える。
「……てっきり、何か事情があるのかと思った」
「何だか余計な気を遣わせちゃったわね。そういうわけだから、この街では私みたいな歳の一人暮らしも案外珍しくないのよ」
「所変われば常識も変わるものだね。寂しいと思うことはないのかい?」
「それほどないわね……、昔から、十六歳になったら一人で暮らすものだって思ってきたし。周りも皆そうだもの。今は腰の曲がったお爺さんやお婆さん達だって、そうやって繰り返してきたんだわ」
干した無花果を一口齧って、外の通りを眺める。今はひたすらに雨の叩きつける道だが、日頃は多くの人が行き交う道だ。きっと誰の足も踏んだことがない場所なんて、どこにもない。
「ここも私が譲っていただく前は、仕立て屋さんだったのよ。前の人が置いていったミシンが、今でも奥にあるの」
「へえ……」
「看板はお父さんが作り変えてくれたけれど、内装は店を開いてから少しずつ、自分で大工さんに頼んで変えてもらったわ」
「ご両親には頼まないもの?」
「それも慣わしの一つなの。店をもらったら、もう一人の人間として自分で生活して、今度は自分が家族を持つことを考えていくのよ。両親には年に一度くらいしか会わないし、向こうも用もなく私の店に来ることはないわ」
ふうん、と変わったものを聞いたと言いたげな顔をしながらも納得した様子の彼は、紅茶を啜ってティーカップの底に描かれた花を見ていた。その瞳の青色によく似た、くすんだ色の小花が描かれていたと思う。私のほうは金色だ。合わせて選んだものでもないので口に出すことはしないが、私も紅茶を飲み干して、二つのカップに二杯目を注いだ。
「君は、ずっとこの街で生活していくつもりなんだ?」
「え?そうね、あまり考えたことはなかったけれど……出ていく必要も、あてもないし。今の生活に不便もないもの」
「店もあるしね」
「ええ。雑貨屋の仕事は、結構楽しいのよ」
少し温い紅茶を傾けてそう言うと、彼はぱたりと目を伏せて、そうかと優しく笑った。遠くのほうで雷が鳴っているのが聞こえる。夏の終わりは、いつも空が名残を惜しむように騒ぎ立てる。
「というか、ランドウ。今日はやけに、私のことばかり訊くのね」
「……そうかな。僕の話は、いつもしている気がするから」
「そうだけれど、そうでもないわ。貴方って、旅をしているのでしょ?秋を追う、ってことは、南へ向かうみたいに歩いているの?季節がどこも冬になったら、どこへ行くの」
胸を叩くようなその音があまり心地好く思えなくて、畳みかけるように質問を探して口にした。一息に言った私に苦笑しながらも、そうだな、とカップを手にしたまま彼は答えを並べる。
「旅人だからって、年中歩き回っているわけでもないさ。北のほうで夏が終わる頃から南の海岸にも秋が来るまで、その辺りはずっと転々としているけれど、冬と春は休みの時期だ」
「旅人にお休みがあるなんて、初めて聞いたわ。どうやって生活しているの」
「夏になるまで小さな家を借りて、離れた地方で手に入れた織物や絵を売っているよ。ブローチなんかは地域の特色が出るから、持ち運びも楽なわりに高値で買い取ってもらえる。夏になったらまた秋の訪れに備えて、北へ向かうんだ」
「ふうん。行商人さんみたいだわ、まるで」
「似たようなものだろうね。たまに、自分で歩いた街の地図を書く。それを売ることもあるかな」
頷くだけの相槌を打って残り小さくなったパウンドケーキをフォークに刺し、私は前に彼が言ったことを思い出していた。秋に見た景色は、細かく憶えていられる。そう言って、宿への細道を迷いなく歩いていったものだ。あれなら確かに、地図だって書けるのかもしれない。
「貴方こそ、家族は」
「いるよ。北のほうにあるカレイユの街で、毛糸を作って暮らしている」
「貴方はそれを継がないの?」
「悪くないけれど、多分継ぐことはないだろうな。綺麗なところだけれど、暮らしていくには退屈な街だよ。故郷は大事だっていうのも分からなくはないが、飽きながら生きていくのは少し寂しい」
ふわりと、もう皿にないはずの無花果がまだ香る。甘い空気は喉を落ちてどこまでも深く潜り、胸のそこに淀んでゆらゆらと震えた。
「……好きなのね」
「ん?」
「今の生活」
顔を見ていれば、誰だって分かる。季節を追って渡り歩き、決して裕福でもなければ快適でもない。それでも鮮やかな景色を眺めながら、記憶に残しながら、気ままに風のごとく生きていく。幼い頃からここで生活していくことに一度も疑問を持ったことのなかった私にとって、それは想像の世界にすぎなかったが、彼があまりに愛しげに語るからきっと素敵なものなのだろうと思った。
そして同時に、私もその断片に過ぎないのだと強く感じた。吹き抜ける風がほんのひと時、すれ違った路傍の木。そんなものに過ぎないのだろう。
「……エリー」
「なあに?」
「……明日もし嵐が過ぎたら、君に見せたいものがあるんだ。夕方の五時に、西へ向かう大通りの傍にある噴水の前で会いたい」
それでも私は、少しの期待をしている。出会ったときから聞かされてきた彼の話が、もし本当ならば。今がもし、本当に魔獣の目に映っている日々だというのなら、どうか私と過ごしたことを一切れでもいい、忘れないでほしい。誰かに忘れ去られてしまうことが怖いだなんて、初めて思った。こんなに鮮烈な望みは、どう口にしても彼を切り裂いてしまうような気がしてきっと言えない。言えないままだ。
「……分かったわ、約束」
風が一際強く唸って、細かくなった雨が窓に注ぐ。別れの匂いはざわめきに掻き消されながらも私へ届いて、やたらと落ち着いた様子で有難うと微笑った彼が、今はどうにも真っ直ぐ見られなかった。