そして無為

 Jと呼んでいる男がいた。見かけは良いが奇妙奇天烈、どこを取っても一つはまともと言えない部分があるような、ようするに度を超えた変わり者だった。友人、と私は呼んでいるが定かではない。嫌われていないことは明白だが、好かれているのかと言えば、彼に関してそこのところはよく分からなかった。知人という響きのほうが合っているかもしれないと思う。私たちは時として深い付き合いの友で、時として対岸で視線を交わすだけの仲だった。
「地球上の蟻を全部集めると、世界中の人間を集めたのと同じ重さになるらしいよ」
そうして今日は、太陽の照りつける公園のベンチに並んで、健気に列を成す蟻の爪先を見つめ続ける関係だった。ぐしゃりと、人間をいっしょくたに集めた想像をしてみる。次いで蟻をどれくらい、と考えたところで、一京くらいいるんだと、と横から言われて顔を覆った。考えるんじゃあなかった。
「気持ち悪い……」
「ははは」
「笑ってんじゃないわよ」
「え?」
「いや、何そのお前は何を言ってるんだみたいな顔」
笑うなと言ったからといって、急激に真顔に戻られても困る。けれどもそんな私の言葉にも彼はさらに本気で首を傾げるから、これはどうやら通じていないと判断して、何でもないと首を振った。話を振っておいて、乗ったら忘れる。口にしたことを長引かせないのも、いつものことだった。本当か否かは置いておいて、彼は自分が言ったことを息でもするように忘れていく。そんなだから、何度会っても前に話したことを掘り返して笑い合うなんてことはちっともなかった。たった一つを除いて。
「金切り声さえ美しかったんだ。大層な嘘吐きだったけれど」
何度聞いたか分からない、そんな台詞がろくな前触れもなく耳に届く。彼には愛している女がいた。どんな人だったのか、私はほとんど知らないがさぞ美しい人だったのだろう。そして嘘吐きだったのだろう。つまるところそれしか知らない。そして、彼はその人のことを語るとき、必ず過去を語る口調になる。
「嘘吐きでもいいと思えるくらい、綺麗な人だったの?」
「まあ、多分」
「……金切り声を上げるなんて、相当ヒステリックだったんじゃないの。気の強いところも許せたとか、そういうあれ?」
どうして過去形なのかと、それは訊いたことがないし訊ねても多分教えてはもらえない。振られたとか死んだとか、あるいは殺しただとか、きっと日によって違う答えが返ってくるのだろう。そしてそのどれも、きっと事実ではない。彼は、そういう人だ。話すことはあながち嘘でもないが、答えることには何の意味も持たせない。
「どっちかっていうと、それかな」
「ふうん」
「お、」
肯定とも言葉遊びとも取れる、曖昧な返事だった。これ以上の追及が無駄であることは目に見えているので、こちらも適当な相槌で流す。ぐんと屈んだから何かと思ったら、靴の先を突き出して蟻の列を歪ませていた。律儀に避けて進む様がよほど気に入ったのか、かすかに漏らされた笑い声に、とうに空になったオレンジジュースの缶を少しだけ強く握って瞼を伏せる。
 じわりと、聞こえてなどいなかった蝉の鳴き声が一斉に鼓膜を劈いて目の奥を熱くしていった。乾いた砂の匂いがする。ここはずいぶんと暑い。
「ねえ、J」
「何?」
「あんたは、一度でも。その綺麗な人とやらに、金切り声さえ美しいって、言ったの」
じわじわと、頭の奥で蝉が鳴いていた。閉じていても照らされる瞼を開ければ、向かいに生えた緑の木々がひどく真新しいもののように映る。それなのに視線を動かした先で目にした彼は、いっそ古びて見えた。得体の知れない紙屑のように、なぜだか埃をかぶって見えた。
「……言ったよ」
「ああ、なんだ」
「うん」
「……そうなの」
会話は、今回もいつもの通りで長くは続かなかった。一匹の蟻が列を外れて彼の靴を上ったのを、彼が靴ごと脱いで観察し始めたので私も見ている。蟻は一匹が頂へ着くと後から後から群がって、彼の持ち物にしては珍しく平凡なグレーのスニーカーを斑にしていった。蝶々結びが埋もれていくのを私は見ている。やがてその光景がふいに気持ち悪くなって、自分の靴が無事であることを確認してからベンチを立った。
「あれ、帰るんだ?」
「うん。暑いし、帰って夕飯でも考えなきゃ」
「そう」
「あんたは……、まだいるんでしょうね。熱中症にならないうちに、ちゃんと帰りなよ」
表情や声の調子から、彼が私とここを立って帰らないことは何となく分かっていた。私たちは互いが日頃どこで何をしているのかもよく知らないが、それでも分かることはある。楽しげに弧を描いた唇を肯定と取って、空き缶とバッグを両手にそれじゃあ、と背中を向けた。
「秋乃」
呼び止められて、何がともなしに振り返る。
「またあした、」
そうして、かけられた言葉に目を見開いた。しばし返事を探したが頭の中が霧でも撒かれたようにまっさらになって、結局何も言えずに頷いてまた歩き出した。今度こそ呼び止められることもなく彼と遠ざかりながら、私はまだどこか呆然としている。明確な約束ごとをしたのは、初めてだった。
 Jと呼んでいる男がいた。見かけは良いが奇妙奇天烈、どこを取っても一つはまともと言えない部分があるような、ようするに度を超えた変わり者だった。友人、と私は呼んでいるが定かではない。嫌われていないことは明白だが、好かれているのかと言えば、彼に関してそこのところはよく分からなかった。知人という響きのほうが合っているかもしれないと思う。私たちは時として深い付き合いの友で、時として対岸で視線を交わすだけの仲だった。
 翌日、昨日の公園のベンチに彼はいなかった。代わりに警官が二人と、白衣の男が一人。近づいていったら、その中心にグレーのスニーカーが一つ、落ちているのが見えた。声をかけて、ここで人と待ち合わせをしていると言ったら事情を説明してもらえた。警官の一人が、あれほど群がっていた蟻の一匹もいなくなった靴を慎重に裏返しては、何事かメモを取る。
「昨日の夕方、男の人がここで倒れていたんだよ。年齢は二十代半ばくらいの、わりと若い人でね。見かけた人が熱中症かと思って病院に連絡してくれたんだが、泥酔だった。ただ、意識がなかったから病室に運ばれたんだけどね。朝になったら、姿がなかったんだと」
「……」
「窓が開いていたけれど、五階だったんだよ。飛び降りたら無事でいられるとは思えない。それに、これを」
「あ、」
「保護されたとき、彼が持っていたという携帯電話なんだけどね。これが残されていたものだから、連絡先も分からない。身元を調べている段階なんだが、君、友達かい?」
頭の中を、声がまるで意味などない文字の羅列のようにさらさらと流れていった。またあした、と確かに言った、彼の声が甦って交じり合い、反響する。驚きはあった。衝撃は確かにあったのだ。けれど、混乱は不思議なほどなかった。私はしばし考えてから、首を横に振った。
「知人です。フルネームを知らない程度の」
「そうか……でも、苗字か名前だけでも知っているなら」
「……J」
「……え?」
「知らないんです。何も」
じわりじわり、蝉が鳴いている。昨日あれほど列を作っていた蟻はどこへ行ってしまったのだろうと、頭を下げて目にした地面の静けさに、そんなことを思った。軽く話して連絡先を書き残してから、来た道を引き返すように歩いていく。遠くなる警官と医師らしき男の声も、失踪事件という単語を最後に聞き取れなくなった。
 携帯電話を開いて、もう鳴らしても意味のない電話番号をぼんやりと見つめる。漠然と、けれどはっきりと、彼とはこの先もう会わないのだろうと感じた。存在の有無を確かめる術はもう私にないが、死んだのではと絶望したのとは少し違う。生きて、関わりを持つことを拒絶されたのだという感覚とも違う。ただ、私たちの繋がりはここで終わったのだと、そう感じていた。彼の生死も、私の意思も関係がない場所で、何かがぷつりと絶たれて途切れた。最後まで、奇天烈な人であった。
 J、J。愛していたんだよ。公園が見えなくなってから、そんなことを思った。金切り声さえ美しかったという、大層な嘘吐きであったという、そんな本当に存在したのかどうかさえ定かでない誰かをずっと追っていた、貴方を私は好きだった。携帯電話を閉じて、長い前髪が邪魔をしていつだってしかと目を合わせるというだけのことが不可能だったその顔を思い出す。そうして私は一人になって、息をついて笑った。好きだった。大層惹かれていたのだ。私などには到底見向きもせず、憧れのような亡霊のような恋を追う、一途な貴方に。

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