翡翠の森で眠る

 こぽり、と泡の浮かんでいくのを水の底で聴いていた。ひとつ、ふたつと数えて七つが割れたことまでは知っている。そのあとも音は絶えずどこかから聞こえ続けているのだけれど、僕はもう別のことに意識がいっているからはっきりとは分からない。それくらいささやかな音だけが聞こえている場所に、僕はいた。
 ゆっくりと尾を靡かせて、水を切る。透明度の高い視界の両端を塞ぐ木の根は、底の土とそれを埋めるように敷き詰められた菱形の白い石とを分け隔てなく割って伸びていた。破片になった石がいくつともなく転がっている。その合間から緑の芽が出て、遥かなようでこの辺りではそれほど遠くない水面を目指しているのも見えた。その上を、通り抜ける。
 こぽり、と泡の浮かんでいくのが見える。あの七つから一体いくつ目だろうと考えるともなしに思って、僕はその隣もすり抜けた。朽ちた枝が沈んでいる。底は徐々に深くなっている。底ではなく水面と一定の距離を保つように泳いでいる僕には、まず白い石に刻まれた遠い昔の文字が見えなくなり、次第にその色も暗がりに消えて分からなくなっていった。
 月光が、水面をちらちらと動いているのが見える。昼には太陽の光がどんなに深い底まででも等しく照らし出すものだが、夜はそうもいかない。水面下の数尺だけがぼんやりと明るく、自分の身の周りだけに光があるかのようだ。時折ぼうと塊を作って浮かんでいく光の粒が点々とあるおかげで、視界は狭くないが浅い。とうに見えなくなった底を思って、僕は張り出した古い枝を避けて進んだ。この辺りに来るともう、水面近くにあるのは根ではない。枝や葉になる。そうしてやがて、木全体が水の中へ沈んでいる領域まで差しかかった。今夜は満月だ。
 深く息を吸って、水面へ昇る。水を裂いて顔を出した瞬間、月の明かりが目に沁みた。そのまま少しの苦しさを覚えて、は、と息を吐く。呼吸ができるようになれば、あとは楽なものだ。濡れた髪が頬へ張りつくのを払いのけながら、その右の鰭が五つに裂けて、指の形になっていくのを見ていた。透明だったそれは不透明に染まり、名残のように薄く透けた爪がついている。水中を探って、適当な枝を掴んだ。そのまま深く茂った葉の上に腰を下ろし、両手を見比べる。対称な指のあわいから見えた自分の両足もまた、左右対になるように姿を変え終わったところだった。軽く握って開く。問題は見当たらない。
 僕はそのまま倒れるように両手を離して、水の中へ戻った。聴覚は変わらず機能していて、どこか遠くで枝の撓った音が聞こえる。鼓膜の震えに答えるように瞼を上げた。僕の目に映る景色は、先ほどまでと一変している。
 夜目が利くようになっているのだ。暗闇は真昼のように意味を持たず、僕は到底足の届かない水底までを一気に見渡して息を吸った。遠くから徐々に深くなっていった底には、どこまでいっても白い菱形の石が敷き詰められている。文字やまじないの陣、数字が書いてあるものもあった。所々割られているのは、その下を木の根が通っている証拠だ。そこからは土が剥き出しになっていて、ひとつふたつと泡が昇ってくる。こぽりと、あの七つ目からとうに百を越えただろう泡が割れた。それくらいささやかな音だけが聞こえている場所に、僕はいる。
 きんと左手につけた腕輪の石が、遠くを指して光を放った。どこまでも見渡せるようになった視界のずっと遠く、僕がいるところよりさらに深いところから、一匹の魚が泳いでくる。透けるような桜色の身体に透明な尾と鰭を持った、花のような魚であった。彼女は僕を見て水面へ顔を出すと、やがて細く白い指を水中へ沈めてきた。その手を繋いで、水の中へ引き込む。ざ、と水面を裂いて潜った彼女は、その長い桜色の髪の中で尾鰭を足へと変えて交差させ、爪先を合わせて微笑んだ。その右手につけられた腕輪を僕のものと重ね、色の違う光をぼんやりと混ぜ合わせる。長く短い満月の夜に、綿のような光が散って零れた。
 光は流星のように尾を引きながら、弾けて水底へ沈んでゆく。もう数えることもままならないほど遠くでも近くでも生まれては昇っていく泡が、行き違うように水面へ向かっていった。不安定な足を時折動かしながら、僕たちはそれを見て、やがて深く深くと潜っていく。表面の体温だけを浚っていくような水の奥へ、奥へ。
 見上げれば月光を浴びて、ざわめくように木の葉が揺れていた。蒼く透明にどこまでも、僕たちの視界は染まっている。桜色が時折その中を、ゆらゆらと行き来する。降り注ぐ光を掴み取るように伸ばした指の隙間を、溶けた流星が煌きながら落下していった。

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