初夏の漂流

 ――――――研究所を建てるんだよ。
 頭の中に、今も色濃く残っている声がある。唐織の父のものだ。温厚で、少しイントネーションに癖がある。おっとりとした、悪く言えばどことなくぼやけた印象のある声だった。けれど彼はその印象を裏切って、とても有能な建築士だった。それはもう、国家の関わる研究所の建設を依頼されるくらいには。
 ざあっと、額の中から色が抜けていく。代わるように視界が開けて、僕は数度、瞬きをした。夢か、とそう思って、いいやと軽く首を振る。どちらかといえばあれは、回想だろう。
「――――――」
 少し白髪の交じった灰色のジャケットの教師が、何事かを話しながら黒板に向かっていく。寝起きの頭ではいまいち理解が追いつかない。代わりにそれは、回想の続きを引き出す役割を果たした。この教師の声は、どことなくぼやけている。
 ――――――ローダン博士がね、住み込みで研究をされるそうだ。完成したら世界が変わる、そんな研究に打ち込むから、大きくて安全な研究所が必要らしい。
 意識をぐっと上へ向けても、そう語る声の主の顔はもう思い出せなかった。とても重要な仕事なのだと、いつになく誇らしげで、それでいて少し緊張した顔をしていたことは憶えているのだけれど。丸顔で、どこかに笑窪があった。こんなにも憶えているのに、やはりその記憶は霞がかっている。
 ――――――タイムマシン、だよ。この間読んだ本にも出てきただろう?博士はあれを四十年かけて造るつもりらしい。
 どんな研究なのかと、問いかけにはあっさりと答えてくれた。機密にするようなことではなかったらしい。博士はすでに、全世界に向けて自分の取り組もうとしていることを公開しているのだと聞いた。四十年かけて、時間を飛び越えられるマシーンを開発する。そのために、まずは世界中の建築士が一年かけて、世間から離れて研究に打ち込める建物を造る。その指揮をとる命を受けたのが、唐織の父。僕がまさにその話を聞いた、彼だった。そして、その研究所を建てる場所にうってつけとされたのが。
 ――――――あの鯨の上だよ。大きな鯨だろう。
 それこそが、僕が彼に話しかけた理由になったものだった。町外れの古い港に、突然繋がれた大きな生き物。僕にとってはタイムマシンと同じ、物語でしか知らなかった存在が突然窓の外に現れたと聞きつけて、慌てて見に行ったのだ。そこで彼に出会い、あれは何だ、どうするのだと問い詰めるように訊いた。
 ――――――未知のことに臨むんだ、博士にも予測できない危険があるかもしれない。そのとき、陸続きのところにいたら町の人まで怪我をさせてしまうかもしれないだろう?
 そして、訊いたことを後悔した。否、教えられたことで、彼を急速に嫌いになった。朗らかな笑顔が信じられなくて、とても憎く思えた。あのときのどろりとした異様な感情のうねりは、忘れることができない。
 ――――――でも、鯨の背中に建てておけば安全だからね。あの鎖を銀の石で断ってしまえば、鯨は海へ出て行くから。そうすれば博士は、自分が助からなくても町の人間に迷惑はかけないと、そう考えてくれている。
 思えば彼は、これ以上ないほどの大きな仕事に、気が舞い上がっていたのかもしれない。そうでなければ、僕の様子がおかしくなったことにくらいは気がつくこともできただろう。けれどそのときの彼は、そこまで僕を見ていなかった。僕を通して、自分がこれから関わる仕事を再認識していた。だからこそ、だ。
 ――――――鯨は、どうなるのか?さあ、分からないな。……鎖が切れれば深くまで潜って、研究所の機械を始末してくれるだろう。そのあとか?……姿かたちは違うが、きっと群れに戻って生きていくさ。
 彼は、とても正直に、適当なことを言った。子供にとって、それがどれほど悪人めいて映るかなど考えずに、正直に話してくれた。僕はそれを訊いたことが自分にとって幸せだったのか、今でも分からない。だが、とにかく訊いてしまったのだ。そして思った。建物を背中に乗せることが、姿かたちは違う、なんて簡単な言葉で終わりにできてしまうものなのだろうかと。泳げなくなってしまわないのか。重さで沈んでしまわないのか。
 僕はそんなことばかりを考えて、白く光る研究所ごと深い海へ潜る鯨を想像した。始めは泳いでいる。けれど段々と、重さに耐えられなくなっていく。潮が低く上がり、背びれでなく胸びれが水を叩く。それも徐々に見えなくなり、やがて研究所が重さに任せて下を向き、腹を上にした鯨がゆっくりと、ゆっくりと。
「……尾。瀬尾、聞いているのか」
「……え?あ、すみませ……」
「居眠りでもしていたわけじゃないだろうな」
 回想はそこで、ふつりと切られた。ふいに呼ばれてはっと顔を上げれば、唐織の父でなく教師がこちらを向いている。眼鏡の奥でじろりと睨まれて、僕はとっさに曖昧な苦笑いを返した。教師は少し呆れたようにため息をついたが、日頃の成績が悪くないことに免じてくれたのか、それ以上の小言はなしに授業を進める。
「……」
かり、とペンの先でノートに文字を書こうとして、頭の中にまだあの回想の余韻が漂っていることに気づく。思考が重く、気を抜けばすぐにでも幼い日の思い出に帰れてしまいそうだ。さすがに同じ授業内でもう一度叱られるような真似はしたくないのだが、そう思いつつも上手く集中ができない。
 僕はそのまま、そっと斜め前へ視線を向けた。長い髪が、今日は結ばれていない。唐織の顔は、その頬にかかる髪が邪魔になって見えなかった。けれど彼女は、黒板を見つめているようだ。
「……では、この問いについて――――――」
 昼下がりの、白くたわむような空気を溜めた教室の中で。僕だけが教師の声に集中できずにいる。右手はペンを握ってから、二文字しか働いていない。
 ――――――唐織、どうしよう。どうしたらいいと思う?
 幼い日の自分の声が、ふと甦って目を伏せた。僕は彼女の父に訊いた話をどうしたらいいか分からず、彼女に話してしまったのだ。聞かせるべきではなかったと、今ならそうも判断できたかもしれない。けれど当時、僕はまだそこまでものを考えられる歳ではなかったし、唐織はそんな僕にとって何でも話せる一番の友達だった。
 彼女は、声もなく驚いていた。そしてとても傷ついた顔をしていた。自分の父が図鑑に出てくる生き物に危険な建物を背負わせようとしていると聞いたのだから、当然かもしれない。僕は僕で、彼女が知らなかったことに驚いていた。同時に、教えてしまったことがとてもいけないことのような気がしていた。そして、そんな僕を置き去りにしたまま、唐織は選択する。
 ――――――逃がそう、イチ。あの鯨を、逃がそう。
 彼女は、僕が一番いけないと思いながら心のどこかで望んでいた答えを、たった一言だけ寄越した。そして当たり前のように、手伝ってねと笑った。僕はただ、頷くことしかできなかった。視界の端には鯨が繋がれていて、あれを逃がすということがどれほどの問題なのか、それは分からなかったけれど、その後のことを考える勇気はなかった。その程度には、これがいけない話なのだと理解していた。
 そして、夜になって僕達は家を抜け出し、港にやってきた。波の音が静かな夜だった。暗がりに浮かび上がった唐織のサンダルを、今でも憶えている。赤いビニールの、玩具のようなサンダルだった。彼女はそれに薄いカーディガンを羽織って、まるでこっそり線香花火をしたときのような、何でもない格好をしていた。反対に、僕はリュックサックを背負ってゴーグルを首にかけ、暑苦しい出で立ちだった。彼女は指を差して笑ったけれど、僕はその声が誰かに聞こえてしまったらと慌てて必死だった。
 銀の石は、彼女が持ってきていた。どうやって手に入れたのだろうとか、おそらく父の部屋から盗み出してきたのだろうとか、色々と心配になったことはあったのだけれど結局何一つ訊けなかった。訊いたらいけない気がしていた。彼女が、銀の石をあまりに恐る恐る触るから、僕も声を出せなかった。
 ――――――ねえイチ、約束してね。もしも、私がお父さんにうちを追い出されてしまったら、一緒に来てくれる?
 銀の石を鎖に当てて、それを訊く彼女はずるい。そんなふうに言われたら、ことのきっかけを作ってしまった僕は首を横に振れるわけもないだろう。そんなふうに、強制したと思われたくはなかった。だから僕は一度頷いて、唐織が喋りだす前に口を開いた。
 ――――――言われなくたってそうするよ。もし怒られたら、二人で森に逃げよう。この間見つけた木の洞で、一緒に暮らそうよ。
 きっと誰にも見つけられないよ。そう言ったら彼女は、とても嬉しそうに笑って、何も言わなかった。代わりに、僕にも銀の石を握らせてくれた。鎖は海の上に続いているから、落としてしまうのが怖くて結局唐織の手の上から一緒に握った。どちらかの手が震えていたけれど、お互いにきっと自分のものだろうと思って知らない顔をした。
 きん、と高く澄んだ音が一回。それは本当に呆気ない出来事で、今自分達が何をしたのか、分からなかったと言ってしまっても嘘でないくらいの一瞬のことだった。銀の石を一回、打ちつけただけ。それだけで、僕達の手首より太い鎖は硝子のように散ってしまったのだ。ぽと、と水面に落ちた鎖の片側を見て、彼女が小さく声を上げた。そして、同時に海でも声が上がった。
 ――――――鳴き声だ。
 言葉らしい言葉というのが見つからなくて、そんな当たり前のことを言ったのを憶えている。隣の彼女はそっと頷いて、暗闇に噴きあがった霧のような潮を見ていた。僕は初めて聞く鯨の声に思わず手を握り締めて、いつの間にか彼女の手を離していたことに気づいた。銀の石は、と思って背筋が冷えたが、それは彼女の手がしっかりと握っていた。少しだけ安心して、またすぐに視線を海へ戻す。
 ――――――綺麗だね。
 彼女はぽつりとそう呟いて、静かに鯨を見守っていた。鯨はしばらく浮き島のように繋がれていたせいか、浅く潜っては水面に顔を出して様子を探っている。暗い波の往来の中で、それはとてもゆっくりと動いた。そして。
 ――――――ねえ、イチ。あの鯨を逃がして、タイムマシン造りの邪魔をして、もしも私がみんなに嫌われてしまっても、それでも……
 彼女の言葉は、そこで途切れることになる。月光が鯨を照らして、鈍い紺の光を跳ね返したときだった。ざあっという水面の裂けるような音と共に、その背がみるみる上がって、やがて背びれがすべて宙へ出て、胸びれが見えて。そして僕達の目の前で、それは空へと上がった。
 僕達はただ声もなく、飛沫を纏って高く浮上した鯨を見上げた。夜の空にそれは風船のごとく舞い上がり、尾を揺らして一声鳴く。縦縞模様の腹が、やけに白くぼうとして見えた。
「……では、ここの問いについてはまた――――――」
 回想は今度こそ、そこで終わる。僕達はそこで走ってきた自転車の気配に気づいて、二人ばらばらに家へ帰ったのだ。階段は何度か軋みを上げたが、どうにか誰も起こさずに部屋へ戻った。彼女が爪先に引っ掛けただけのサンダルで駆けていったことを、少し心配しながら眠りに就いた。
 それから数年経って、今に至る。僕達はあの日約束したように森で暮らすはめになることもなく、家族の誰にも問い詰められることはなかった。町はしばらく新聞記者が出入りして、人類の捕獲史上最大の鯨が鎖を切って逃げ出したと語った。ローダン博士は惜しんだが、研究所は砂漠に建て直すと言って、それはそれで新たな取り組みだと世間を沸き立たせた。
 彼女の父は、現在行方知れずだ。砂漠には現地の人々の知恵を借りた研究所を建てると決まり、彼は役目を降ろされた。しばらく休暇をもらったから、綺麗な景色でも見てくるよ。そう言って出て行ったきり、隣村の境で見かけられたのを最後に足取りが掴めない。彼女は報告のようにそう言ったが、僕は何も返せなかった。一言だけ、肩を撫でて言われたことがある。そのうち、また町の大工さんになって帰ってくるわ。以来彼女から父の話は聞かないが、もしかしたら彼女は何かを知っているのかもしれないし、そもそも何も知らないから、そうとしか言えなかったのかもしれない。僕からそれを深く訊くことはできない。今もできないままだ。
 僕はまだ片手の中でふらふらとしているペンを持ち直して、資料を広げた教師から視線を窓の外へ向けた。唐織は相変わらず黒板とノートを交互に見ていて、そのたびに髪が肩を流れて落ちた。
 十年前はあれほど騒ぎになったというのに、今では何もなかったかのようだ。タイムマシンは今もどこかで造られていて、この町の港はいつまで経っても古い。空には今日も、僕達の逃がした鯨が浮いている。静かな風が音もなく吹くのを、僕はずっと眺めていた。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -