永黒のエデン
光あるところに闇は生まれる。それは右に対して左が、上に対して下が存在しないことはできないのと同じようなもので、原始より遙かに昔から変わりようのない法則だ。そしてそれはつまり、闇あればこその光、とも言える。
「王子、紅茶をお持ちしましたよ」
こつ、と自分の靴音がやけに大きく響く。長すぎるほどに長い廊下は果てまで行っても静かで、人の気配というものがまるでない。けれどそんなことは今さら、あまりに些細な話だ。気配がしないのは、誰もいないからではない。この屋敷に見合う存在感をもたらすだけの人数が、到底住んでいないから。それだけのこと。
「失礼します」
声をかければ重い音を立てて開いたドアに、私は一度軽く礼をして室内へ踏み込んだ。広い屋敷の二階、長い廊下を辿ったその奥にある部屋。その中のさらに最奥に置かれた黒い椅子に、この屋敷の主は座している。
「エリー」
「はい?」
「ありがとう、そこへ置いてくれ」
今、いいところなんだ。顔を上げれば片手に広げた本を軽く掲げてみせ、彼は薄く口の端を上げた。琥珀色の目が、少しだけ幼く輝いて見える。ちらと本の表紙に目を向ければ、それは小難しげなタイトルをしているものの、冒険小説であることが察せられた。すぐに視線をその頁へと戻した彼に、私も思わずそっと微笑む。
「悪いな、すぐに飲むから」
「いいえ、お気になさらず。ごゆっくり」
それを苦笑とでもとったのか、少し申し訳なさそうな声音になった彼に、私は首を横に振った。彼は、私が淹れた紅茶を忘れて冷ましてしまうことはよくあるが、それを残したことはこれまでに一度もない。
来たときと同様に軽く頭を下げて、部屋を後にする。私が背を向けた後ろで、ドアがゆっくりと、静かに閉まった。誰が閉めたわけでもないが、強いて言うなら彼が閉めたのだ。この屋敷の中ではドアからカーテン、棚の中のマグカップまで、私以外のすべてが彼の意思に連動する。ここは、絶対君主である彼の彼による彼のためだけの屋敷で、私はそこに唯一仕えている、たった一人の使用人なのだ。
「……」
空になった手でエプロンの紐を結び直しながら、長い廊下を歩く。仕事はそれほど多くない。何せこの屋敷では先に言った通り、彼の意思ひとつで何もかもが片づくのだ。だから本当は、紅茶だって好きなときに、勝手に部屋に招ける。そして彼は、幸いにも使えるものを惜しむことはない。結果として、大抵の仕事は手を出す前に片づいている。だから私の仕事は掃除でも洗濯でも料理でもなく、彼の傍に仕えること。つまるところ、ここを離れないこと。それだけだ。
キッチンに戻って自分のための紅茶を飲みながら、私は硝子に映る自分の姿を眺めた。ここへ来て、どれほどの時間が経ったのだろう。もうそれさえもよく分からない、の一言で纏めてしまうしかないくらいの時間が経ったことは明らかなのだけれど、私は昔のまま。昔、王宮から命じられて、ここで雇われると決まった日のままだ。
光あるところに闇は生まれる。目を閉じれば、今は老いた王の若かりし日の姿と声が、鮮明に思い出せる。王宮は、王は光である。だが、しかし、と。彼は少しだけ寂しげに、言ったものだ。私には、とても優しい鏡がいる。
「!」
懐かしい記憶に浸って深く息をついたとき、キッチンのドアが開いて、先ほど渡してきたカップが空になって返ってきた。ふわりとやってきたそれは手のひらに収まったが、すぐにまた浮遊して、勝手に水を潜って綺麗になる。そして見計らったように布巾が顔を出し、くるくると拭いて、棚に納めてしまった。相変わらず、使用人に仕事をさせてくれない主だ。出会ったときから、ずっと変わらない。
中断された思い出を続けて思い返すことはせず、私は自室へ戻ろうと立ち上がった。キッチンを出て、二つ目。そこが私に与えられた部屋だ。
「ただいま」
呟けば、窓辺に置いたソファと机の椅子がくるりとこちらを向いてくれる。これも彼の仕業というか、プレゼントだ。ただいま、の言葉を私の声で発すること。それがこの室内での小さな暗号になっていて、口にすると、ソファと書き物机の椅子がこちらを向くようになっている。好きなほうに腰を下ろせば、選ばなかったほうはまた向きを直す。どちらも選ばないでベッドへ行くことも珍しくないが、自分の足音くらいしか物音のない屋敷の中で、部屋に戻ると柔らかい椅子が歓迎してくれるのは、少し気が安らぐ。
私はソファのほうを選んで深く腰掛け、窓枠に立てかけたままの読みかけの本を手に取った。この屋敷で私が暮らす上で、与えられたものはとても多い。第一に、使用人とは呼べないような自由な生活。私は日に一度、紅茶を彼へ届けているが、それも義務づけられているわけではない。おそらく辞めたところで、叱られはしないだろう。続けているのは、それをしていないと、本当に何も仕事をしていないことになってしまうからだ。たまに窓を磨いてみたり床を拭いてみたりもするのだが、そんなものは私がやらずとも掃除用具たちがそれぞれに動いて済ませているので、大した汚れもなければ成果もない。
第二に、そんな生活の保証。衣食住に困ることはなく、彼は日に三度の食事で、私にも必ず同じものを用意する。これは拒むと逆に怒られるので、有り難く主であるはずの人と同じものを食べている。衣類だってそうだ。彼は、自分が新しい服を用意すれば私にも用意するし、時には二人で妙にめかしこんでみて、お互いの格好にああだこうだと言いながら紅茶を飲んだりもする。
そして第三に、時間。これは彼から言わせれば、私から平凡であることを奪った、とも言うそうだが、私はここに雇われたその瞬間に、とてつもなく長い時を与えられた。永遠、と言っても過言ではない。王が老い、その子が後を継ぎ、そしてまた老いても。私達は、変わらない。変わってはならない。
「……」
昔のことを、よく思い出す日だ。外見上は変わらずとも歳を重ねた証拠かもしれない、などと一人で思ってみて、手元の本がろくに進んでいないことに苦笑した。時間はいくらでもある。無理に集中して読むこともない。彼から言わせれば、これが私を普通でなくしてしまったということらしいが、私からすればそんなことに悩んだのはもう過去の話だ。ここへ来て、君にはとてつもなく長い時間を共に生きてもらうことになる、と言われたときにはさすがに、返事らしい返事も返せなかったが。今となっては、即答できる。貴方がそれでいいのなら、どうぞいつまででも、と。
本を読むのを諦めて、ぼんやりと暗くなってきた窓の外を眺める。月明かりがないようだ。今日は新月だろうか。そうならば、木々に囲まれたこの屋敷は随分と暗くなるだろう。新しい蝋燭を灯そうか、と考えていたら、ふと部屋で冒険小説に浸っていたはずの人が庭を歩いているのが見えた。白薔薇庭園のほうへ向かったのを確認して、ソファを立ち上がる。
「……」
長い階段を下りてドアを出れば、目的の姿はすぐに目に留まった。静かな背だ。私に気づいていないとは思えないが、彼は振り返らない。
「王子」
「どうした、エリー」
「……窓から庭を見ていたら、貴方が見えたので」
答えると、彼はようやくこちらを向いた。その表情はいつも通りのもので、どうやらここにいても邪魔ではなさそうだと、何となく判断する。一括りにした黒髪は、私と同じか、もしかすれば彼のほうが長いか。編み込みを作った私の金の髪と比べるのは難しいが、越されているかもしれないなと、ぼんやりと見つめた。
「今夜は、新月だ」
「はい」
「照らすものが何もない。完全な夜だな」
微笑んだ気配に、顔を上げる。彼はとても穏やかな顔をしていて、空想の物語に思いを馳せていたときとは別人のようだ。どちらもとうに見慣れた表情だが、どちらかと言えばこちらのほうが記憶に新しい。ここへ来てしばらくの時間が経ってから知った、彼の核心にとても近い表情。青年と呼ぶに相応しい貌に浮かぶ老いた笑みを、私は大切に数える。
「手を、貸してくれ」
「何かご用でしょうか」
「ワルツをひとつ」
ほら、と、何の前触れもなく差し伸べられた手を、数秒まじまじと見てしまう。前に教えただろうと言われて、ようやく我に返った。忘れてしまったわけではない。確かに少し久しいが、拙くても良いのなら、踊れるはずだ。だめか、と問われて、そっと首を振る。
「……ご所望とあらば、心ゆくまで」
微笑みがぎこちなくなるのは、主と使用人でありながら、かしこまった空気に慣れていないからだ。今だってきっと、本当に主従であらんとするならば、遠慮すべきなのだろう。けれど、私にその選択はない。彼もまた、そんなものは望んでいない。
いつの間にか完全に夜を迎えた庭で、足下を照らすものさえなく、ただ手を取り合う。屋敷の中から漏れてくるピアノの音に合わせて、とても単純なステップを踏んだ。時折彼がくすりと笑うのは、私が間違えているからなのかもしれない。だが、それさえも今は見えないから、何も恥じらうことができなかった。
そっと目を伏せて、寄りかかるように腕を引かれながら思う。その眼差しは、月光のようだ。彼は自分の眸を夜に紛れる獣の目と同じと言うが、私はそうは思わない。獣は、そんなに淡く微笑むことを知らない。彼は優しい、永久の人だ。とても優しい、王の双子の兄。災厄とされる魔の力を持って生まれ育ち、やがて弟の力を奪って、権力争いの渦から姿を眩ませた。歴史の夜に消えた、大罪人。
王だけが、その居所を知っていた。そして彼は孤独へ飛び込んだ兄に、使用人として私を預けたのだ。人の身のまま持ち続けるには有り余る魔力を隠し続けたことで、もう長くは生きられないと宣告された私を。
「エリー、私は英雄にはなれない」
「存じておりますよ」
「王にもならない。永遠に、罪人で、王子のままだ」
柔らかな声に、顔を上げる。私は彼に仕えても仕えなくても良かった。選択は自由だった。彼に仕えるということは、彼に魔力を渡すこと。そしてその膨大な力ゆえに、人間として当たり前に歳を重ねることができなくなってしまった彼と、その力を借りて生命を共有することだった。当然、彼に仕えるということは王宮を出て、人目を忍んで生きることを意味する。仕えなければ、私は魔力に食われて命を落とすが、王宮勤めの少女のまま。平凡な少女のまま、たくさんの人に惜しまれることもできる。
答えは、きっと私の、終わりを恐れる怖さゆえに選んだものだった。私は目前の死と比べて、彼と生きることを選んだのだ。それが正しかったのかなど分からないままに、私は彼と命を繋いだ。けれど、今ならはっきりと言うことができる。
「素敵じゃありませんか。永遠の、王子だなんて」
「エリー……」
「私は、好きですよ」
あのとき選んだ道の先は、一筋の光も射さない闇の中。この夜のように深く静かで、何も見えない。
それでも、時としてその夜が私達の姿を隠し、例えばこの主従を越えた、小さな口づけを見逃すように。誰にも知られることなどなくとも、私の確かな生涯は、今ここにこそ存在している。