綺羅星に寄す



 ほろほろと丸い月の灯かりが、カーテンの波を縫ってベッドへ零れる。天井から吊るした銀の天球儀が中に溜まった水の重みでゆっくりと廻るのを、ぼんやりとした視界の端へ収めながら、空を見ていたときだった。
「エレーユ、まだ眠っていなかったの」
「母さん」
きしりと音を立てて開いたドアに、後ろを振り返る。昼間は纏めていた髪を下ろした母は、足元にその影を落としながらこちらへやって来た。
「何をしていたの?」
「星を見ようと思って」
「あら、あなた星座に興味なんてあった?」
「ううん、違うけれど」
片側を空けて座るかと訊けば、そうね、と。二人分の重みになったベッドがまた、少しだけ沈む。私は視線をもう一度空へ向け、繋がった点のような星を数個数えて口を開く。
「最近、私の夢ったら星を見せてくれないんだもの」
「……空が霞んでいるの?何か悩み事?」
「ううん、あれはルディのせいよ」
「ルディ君?」
ぱちりと瞬きをして困惑したように首を傾げる母に、私はそうと頷いてみせた。名前を口にするだけで、あの昔から変わらない生意気な笑みが額の裏に浮かんでくる。誰のせいで夜更かししていると思っているの、とそのイメージに思考の中で文句を言ったら、彼はより一層、その笑みを深くして消えていった。
「この頃、毎日ルディが出てくるの」
「夢で会っているの?」
「ううん、約束はしてない。だから私の見ている幻よ」
「……まあ」
「ひと月くらい前からだったと思うのだけど。それからよ、丘に行っても星がひとつも出ないの」
さらりと流れるカーテンを手の甲に這わせて遊びながら、私は窓枠に頭を寄せた。こうしているとまるで宙に放り出されたかのように、空と自分が近くなって見える。生まれてこのかた、私の夢に綺麗な夜空が見えない日はなかった。そこにはいつでも星が輝いていたし、少し遠いけれど丘まで歩いてゆけば、まるで手の届きそうな場所に散らばっていたのだ。だから私は、いい子で夜を眠れた。夢を見ることは私にとって、星空を眺めることでもあったから、退屈だとか嫌だとか、そんなふうに思ったことはなかったのに。
「……今は、行ってもルディばっかりよ。それも幻じゃあ、話だってできない。声をかけても鸚鵡返しで、つまらないわ」
「丘以外のところへは行ってみたの?」
「もちろん」
「そこから星は見えないの?」「見えないわ。代わりにルディの足跡が光っているの。丘まで」
ため息は思いの外、深いものがこぼれる。久しぶりの星空はやはり綺麗で、こんな景色を私から奪うなんてルディは意地悪だ。とはいえ憤ってみたところで幻を相手にしても仕方のないこと。私はこの頃ずっと、ただ彼の抜け殻の横顔を眺めて夜を過ごしている。
「……丘にいるルディはね、偉そうに光っているのよ」
「ええ?」
「髪の先から爪まで、ふわふわ光っちゃってお星様みたい。きっと私の星を食べちゃったんだわ。昔言っていたもの、金平糖みたいな味がするんじゃないかって」
「……エレーユ……」
「……返事もしないくせに」
きん、と。月の灯かりで暖まったはずの胸が冷えたように痛む。あまりにも毎日やってくるから、本当は幻ではないのかもしれないと思って、話しかけてみたこともあった。驚かせてみたこともあった。彼は、大した反応を示すことはなかった。
「エレーユ、そうね。よく聞いて」
「何?」
「今の話は、私が聞くものではなかったと思うのよ」
「夢の話は嫌い?」
「いいえ、そういうことではなくて」
注意を引きつけるような母の台詞に窓の外から視線を戻せば、時計はもう午後十一時を指していた。心なしか微笑んだように見えた母の顔も、もう暗さのせいでぼやけている。何を笑っているの、と訊こうとしたけれど、表情が不確かであったからそれはやめておいた。
「ねえ、あなた、丘で見る星が好きだったのよね」
「うん、そうよ」
「それがある日、ルディ君の幻が来てから、見えなくなってしまった」
「そう」
「当のルディ君は、どうなっているの?」
「だから、光っているのよ。星を食べられた私の気も知らずに」
「ええ、そうね」
くすくす。今度ははっきりとした声を伴って、母は笑った。
「それって、まるで代わりみたいだとは思わない?」
「え?」
「分からないかしら。つまりね、あなたはこれを私よりも、ルディ君に言うべきなのよ」
手のひらを滑らせた硝子窓が、冷たい。浮遊するような満月が視界の隅を泳いでいる。私は母の目を見つめ返して、膝を立てた。
「言って、どうするの?」
「それは、言ってしまったらルディ君次第じゃないかしら」
「……私の悩みなのに?ルディが決めるの?」
「ええ、たまにはそういうものもあるのよ」
「ふうん……」そもそも幻を見ているのは私だから、ルディ自身は、本当は悪くないのよ、と。付け足すように言ってみたけれど、母はそれも含めて自分でなく彼に話すべきだと、言う。理由を聞いても、それも彼から教えてもらえばいいとしか言ってもらえなかった。ふうん、だの、そう、だのという素っ気ない返事を返しながら、私はどうしてだろうと考えているけれど分からない。ルディに訊けば必ず分かるのかと訊いたら、それだけはそうとも限らないと答えてくれた。曖昧な話だ。心臓の周りが胸焼けのようにもやもやする。こんな話を、どこかで聞いたことがある。そんな気もする。
 ベッドが少しだけふわりと浮いた。来たときと同じ、きしりと音を立てるドアを開けて母は振り返る。
「まあ、あまり悩まないことね。誰にでもあることだから」
「そうなの?」
「ええ、そうよ。おやすみなさい、……良い夢を」
母さんにもあるの、と問おうとした声は、黄色い光を零しながら閉まったドアに阻まれて届かなかった。階段を降りていく足音。あとには温まったシーツと、輪郭のない話の余韻だけが残る。おやすみなさい、とは言い損ねた。
「……」
 私は一度ちらりと夜空を見てから、視線を部屋の隅に置かれた電話機へ移す。それはここしばらく使わなかったせいで、どことなく懐かしく見えた。しばし見つめてからゆっくりと手を伸ばして、ダイヤルを回す。コールはそれほど長くなかった。
「もしもし?」
「こんばんは、ルディ。私、エレーユよ」
「どうした、こんな時間に」
聞き慣れた声が、受話器を通して少し違って聞こえる。大した用ではないのだけれど、と前置きしそうになって、いやそれはどうなのだろうと口にするのを躊躇った。電話口からは何の用だと急かす声が聞こえる。私は浅く息を吸い直して、言葉を選んだ。
「ルディじゃないといけない……かもしれない、話があるの。今夜、会える?」
「え、今夜?」
「夢でいいわ。五番地の外れの丘で待ってる」
「ああ、そこなら」
「……お願いよ。来てくれなかったら明日は起きないから」
「分かってるよ、十二時でいいな?」
「うん」
約束を交わす声が、自然と小さくなるのはなぜだろう。夢で会う話をすることなんて、今さら珍しいことでもないのに。階下の音や呼吸のひとつひとつに、まるで秘密の話でもしているかのように心音が速くなる。一定の速度を崩さずに廻る天球儀の気配だけが、この小さな部屋の中で、無性に現実味を帯びていた。今こうして息を潜めている、私自身のすべてよりも。
「じゃあ、おやすみ」
「あ、うん。おやすみなさい、またあとで」
うん、と答えた彼の声を最後に電話は切れる。急激に静まり返ったここには受話器を置く音を、細く吐いた私の息が残っているだけだ。足音を立てないように戻って窓を見れば、空は相変わらず、星を撒き散らしていた。
「……」
私はそこに垂れ下がったカーテンを引き、爪先からベッドへ潜り込む。眠るために交わした言葉がひどく胸を焦がして、寝つきが悪い。かちかちと進む時計を枕の隣へ並べて、心臓の音を少し遠ざけた。この感情は一体なんだろう。きっとどこかで聞いたことがある、そんな気がするのだけれど。

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参考/童謡「きらきら星」(フランス語歌詞・英語歌詞)
この小説は、宮田さんのイラストからイメージをいただきました。ありがとうございました!
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2013 追記
宮田さんからイメージイラストを提供していただいたので、上に掲載させていただきました。ありがとうございます!


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