フラインフェルテV


 太陽の消えた森はどこまでも鬱蒼として暗く、遠くで鳴く小さな獣の声が落ち葉を踏んだ音に掻き消された。月光は薄い紙のように白く、そんな足元と数メートル先の木陰を照らすのが精々である。
「……」
「……」
だからこそ、魔に差しかかりかけたものが動く時間帯でもあるわけだが。標的を探してできるだけ音を立てないように歩きながら、私は珍しく慎重な師匠をちらと見上げた。すっと目の前に手が翳されて、足を止める。耳を澄ませ、というような仕草に意識を集中させると、少し遠くで何かの歩き回る音が聞こえた。
「シリウス・ラマン。今回の標的だが」
「はい」
「昔は討伐隊に入っていた魔法使いだ。研究側に回るとか言って引退したんだが、見た目ほどインテリでも無ぇ」
「了解ですー」
気をつけろだとか、怪我をするなよだとか。弟子になって二年、こうして一緒に戦っていても一度も言ってもらったことはない。もっとも、今さらそんなことを言われたら気色悪くて余計に気が散るだろうから構わないのだが。短い返事でそれっきりの忠告に答えて、近づいてくる足音に身構える。あと、一歩。
「――――――!?」
 だが、そうしてさくりと向かいの木陰から足音の主が姿を現したかと思った瞬間、その姿はまだ目が認識するかしないかのうちにふっと見えなくなった。代わりに背後から伸びてきた腕が、首を絞め上げる。速い。加減なしに喉を押さえつけられて、危うく舌を噛みそうになったが、同時にガンッと銃声が鳴り渡った。
「イズ!」
「っ、げほっ。あーびっくり……」
「……チッ、だから言っただろうが」
「あー、はい。本当……」
解放されて、咳き込みはしたが無事だ。師匠の銃に撃たれた腕の主はと言えば、ほんの一時唸るように蹲ったものの、すぐに顔を持ち上げてこちらを見据えた。これが、標的。本能がその異常さを察知して、間違いないと告げている。だが、確かに。
「見た目ほど、インテリじゃないんですね」
改めて向かい合ったその身体は、魔法の当たった場所から流れているのが血ではなく灰だという一点を除いて、どこまでも人間に見えた。整えられた栗色の髪、学者のようなローブを羽織って銀縁の光る眼鏡をかけている。けれど、その奥の目は異様なほど真赤で、そしてその眼差しはまるで。
「魔物みたい」
まるで魔物のように、残虐性を隠すこともなくぎらぎらと光っていた。獲物を見る眼差しだ。あの水竜などよりずっと、強烈な狩猟本能に満ちている。
「よう、シリウス。久しいな」
「……ん?おお、キーツか?懐かしいね」
「はっ、変わんねえな」
「ああ、元気にやってるよ」
「……知ってる」
まるで旧友に話しかけるようにそう言って、師匠はその左胸に拳銃を向けた。その様子は一見すればこちらのほうが異様に映るだろうが、シリウス・ラマンがすでに人としての精神を失いかけていることは、先ほどの襲撃で明らかになっている。正体さえ分かっていなかった人間を、森の中で出会ったというだけで襲うだろうか。断じて正常とは言い難い。そして。
「―――依頼なんでな。悪く思うなよ」
「ははは、何のこと、だい!」
続けざまに放たれた銃声は、うちのいくつかが命中したように思ったが、それほど強い衝撃は与えられなかったらしい。シリウスは愛想のいい笑みを崩さないまま、数発を避けて師匠の懐に滑り込んだ。会話と行動が、まるで合致していない。私に対しても、首を絞めるような真似をしておきながら平然と手を振る。その手が、師匠の放った魔法で凍りついてみるみる灰になった。
「イヴニン・ポルカ。足を絡め取れ」
手近な木に伝っていた蔦をちぎり、呪文を唱える。手を封じられたシリウスが次に振り上げようとした足は、私の腕から伸びた蔦に絡みつかれて師匠の身体へ触れる直前に止まった。力いっぱい引いて、バランスを崩したその隙に師匠が何事か唱える。すぐに片方の銃が槍へと姿を変え、先端に雷が渦巻いた。
「相変わらず武闘派だねぇ。僕とは違うな」
「よく言うぜ……、まずは口から焼かれたいか?」
「はは、怖いことを言うなよ。せっかくの、再会なんだから!」
ざっと、灰の散る音がする。圧しているのは間違いなくこちらなのだが、痛覚もすでに失いかけているのか、シリウスは怪我をするという概念なく迫ってくるため、一歩間違うと劣勢に追い込まれそうな緊張が絶やせない。蔦のちぎられた音に砂煙を巻き起こしてその視界を塞いだが、あまり効果は得られなかった。地面がぴしりと罅割れるのを察知して飛び退いた師匠の、先ほどまで立っていた場所が大きく裂けては波打つようにしてまた戻る。振動が少し私の足元まで伝わってきて身構えたが、こちらまでは裂けることも崩れることもなかった。
「ていうか、後ろの子はどうしたんだい?まさか君が、弟子でも取った?」
「ああ、そういうことになった」
「へえ……、いいね、僕も一度はお師匠なんて呼ばれてみたかったなあ」
「……は、お前が選んだら弟子じゃなくて、実験材料になりそうだな」
顔立ちは聡明そうな人間そのものなのに、舌なめずりでもするような無遠慮な視線を向けられて、ぞろりと気持ちが悪くなった。かつては名のある魔法使いだったのだろうと思う。私はこれが初対面であるが、師匠のほうは口ぶりからして顔見知りというところか。友人、と呼ぶには浅い仲だったのだろうとも思う。本当に親しければ、どんな人間であってももう少し、躊躇いが生まれるに決まっている。
「やだな、そんなふうに思われているなんて心外だ」
「……」
「でも、そうだね。……彼女、素質は悪くなさそうだし―――」
そんなことをちらりとでも、考えてしまったのが悪かった。気づいたときには再びその姿が消えたあとで、はっと息を呑んだ頃にはもう遅い。一瞬の間に真横から掬うように足を蹴られて、体勢を崩された。
「僕がお師匠だったら、もっといい魔法を教えてあげるのに。おっと!」
やたらと親密そうに広げられた腕の中へ倒れこむ寸前、シリウスの腹を狙って槍が突き込まれた。お陰で地面に膝をつくことになったが、何を考えているかも分からない胸に抱きとめられるよりはずっといい。けれども慌てて立とうとしたとき、足首に痛みが走ってよろめいてしまった。言葉は相変わらず人間らしいが、それほどの力で蹴られたのだ。油断した、と思った。だが。
「邪魔、しないでくれないか。会話の途中なんだ」
次の瞬間、顔を上げて目に入った光景に、そんなことはすべて頭の中から消し飛んだ。槍の先をかわしてうっすらと灰の散る身体を翻し、シリウスは軽やかな動きで師匠の腕へ氷塊を叩きつけた。一瞬の出来事に取り落としかけた槍を持ち直す隙をついて、木の上へと飛び上がる。そして、その手が業火を纏うのを見た瞬間、私は痛みも忘れるほど無意識だったにも関わらず、どこか冷静に地面を蹴っていた。
「―――展開!」
叫ぶようにそう唱えて、唸りを上げて砂を散らしながら迫る炎と師匠の間に滑り込む。熱気が、肌を溶かしていくようだと思った。金ランクの依頼でも経験したことのない、魔法使いの放つ本気の魔法だ。だが、躊躇いはなかった。
―――なるほど、君は……だな……
 頭の中に、いつか言われた言葉が舞い戻ってくる。孤児院は好きでもなかったが、それはあの院長が教えてくれた、私の中の大切なものだ。ある一定以上の素質を約束された魔法使いとしての、証明に近いもの。
―――この世のあらゆる魔法は、君より遥かに強いかもしれないが、君を打ち負かすことはきっとできないだろう。そう、まるで……
愛称や役割のようなものではないから、呼ばれることはない。だが、例えとして紹介されることはある。この人はこういう人だ、というのと同じように、何かに特化した魔法使いを称えて話す場合に用いられる、イメージとしての肩書き。
―――神の盾のように。
 熱風が身体の奥まで入って、内から焼かれていくようだ。けれどそれはやがて、私の腕の先で二手に分かれて背後の木々を数本焼き尽くし、終わった。すっかり大気の煙った視界に、シリウスが降り立つのが見える。煙が晴れると彼はこちらを見据えて、愕然とした表情で呟いた。
「なぜ……、何故、立っている」
「……」
「こんな……、禁を犯してまで手に入れた力なのに……何が」
何が足りなかった、おかしい、とうわ言のように繰り返す様はあまりに無防備で、無様で、そして恐ろしかった。宙を切るように伸ばされた手を、叩き落とす。目の前のものは、もうとっくに人間に思えなくなっていた。
「……“アイギス”、だそうですよ。あたし」
ぽつりと零した言葉に、シリウスの真赤な眸が驚きとも怒りとも興味ともつかない色で満ちて揺れた。すでにその両足からは、留まることなく灰が散っている。そんな足で近づく彼は、目線の高さが私とそう変わらなく見えた。けれどきっともう、痛みでさえもまるで届かない。
「アイギス……?道理で、ああそうか、アイギス」
「……」
「“神の武器”に例えられる魔法使いと生きて会うのは、これが二回目だなぁ……!」
とんと、一歩下がったらよく知った重いコートの感触に背中がぶつかった。くすんだ赤が、視界の端を切り裂いて揺れる。肩を掴んだつまらないほど黒いだけの手袋はまだかすかに氷が残っているが、いつかの夜と同じで、今夜も空気にかすんでよく見えない。
「“アイギス”と―――……“グングニル”」
代わりに、月光を弾いて鈍く光る槍先が、シリウスの言葉を合図にしたかのように目の前の身体を貫いていくのを見ていた。弾けたようにその身体は輪郭を失って、銀色の灰がざあっと散っていく。
「……“終わりだ、シリウス・ラマン。精々生まれ変わるまで眠れ”」
「……何の真似だ」
「いや、師匠が何も言わないので、あたしが代わりに師匠が言いそうなことをー」
「あァそうか、それはご苦労」
「いいえー、それほどでも?」
 高みから降ってくるゆるい握り拳を、ひょいとかわして振り返る。やたらと静かな空白が後ろにあるような気がして、すっかり忘れかけていた足の痛みが戻ってきたが、今は何かを見ていたかったし何かを言っていたかった。槍はいつの間にか拳銃へと姿を戻して、さっさとしまわれている。面倒くさがりな師匠の、いつもの癖だ。どうせもう家へ着いたら、夕食の仕度を私に任せてそれまで眠ることしか考えていないのだろう。
「帰りますか」
「おう」
「師匠ー、足痛いです。おんぶー」
「馬鹿か、お前が油断したのが悪い。背負うなら俺を背負え」
「はあ?本気ですかぁ、虐待に近くないですかー」
「うっせェ」
伸ばしてみた両腕はあっさりと無視されて、仕方なく歩き出した肩にのしりと腕が回された。所々に汚れがあるが、コートを見る限り焼けたところはない。もっとも、この人なら焼かれたくらいでは死ななそうだが。それでも帰ってコートの修繕を任されるのはどうせ私なので、洗濯くらいで済むならばそれに越したことはない。
「師匠ー、重いんですけど」
「さっさと帰るぞ」
「無視ですか」
広い歩幅だ。遅れようにも背中に回った腕のせいで、ちっとも自由なペースで歩けない。これだけ分厚ければ多少掴んでも気づかれまいと思って、ちょうどいい位置にあったコートのポケットに手を引っかけて支えの代わりにした。やはり分かりやしないようだ、何も言わない横顔を見て、何となく笑った。このまま家に着くまで、使わせてもらおうと思う。
「師匠ー」
「あー」
「夕飯何がいいですかー、あたし疲れたんで、できるだけ材料が少なくてできるだけ調理時間が短くてできればお粥みたいなもので、献立決めてくださいよぉ。リクエスト聞いてあげますよー」
「……」
「ちょっとー、潰れそうなんですけど」
いつの間にか森の出口は近くなっていて、夜は相変わらず何もなかったかのように静かだった。町は明かりが眩しくて、目に痛いから帰りたい。本格的に体重をかけられて抗議の声を上げれば、ポトフと返事が返ってきた。こちらの意見があまり反映されていないように思うのだが、考え続ける気力もなかったので却下はしなかった。帰ってみて、作る気になったら作ろう。
 どこまでも続くように見える夜道を、大袈裟に片足を引き摺りながら帰る。気まぐれにぐいと引いてみたポケットはやはり気づかれなくて、この人も大概嘘が下手だと心の中で蹴飛ばした。

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