フラインフェルテU


 その日の晩、私はようやく全部揃った書物をざっと読みながら、昔のことを思い出していた。まだ自分が魔法使いになるとも思っていなかったような頃だ。物心つく前に村を襲った魔物のせいで両親を失い、孤児院で育った。そうは言っても、それほど貧しかった憶えはない。国の孤児院はすべて賢者の管理下にあって、環境は悪くなかったし勉強もしていた。ただ、孤児院には年に二度、賢者が訪問する日がある。それは魔法の素質がある子供を見つけ出して、魔法使いとして育てるための儀式だ。
 子供は大概、魔法に興味を持っていた。素質があるねと言われると、喜んでついて行った。だが、私は当時、魔法使いというものが嫌いだった。魔法は万能ではない。けれど万能のような顔をする。間に合わなかったり救えなかったり、そんなことは五万とあるくせに何でもできるように見える。そんな矛盾が、気持ち悪いと思っていた。そして、そんな私は魔法の素質を持っていた。
「――――――……」
 自分が魔法を扱えるようだ、という事実に気づいてから、二年くらいはやり過ごしただろうか。賢者に見抜かれることなく、何もできないふりをして過ごした。だが、所詮子供の芝居だ。何度目かの訪問で見抜かれて、さらに賢者たちの近くにある特別な孤児院へ移された。十四を迎える頃には、その中でも一際目立つようになっていた。そして、どこからともなく噂を聞きつけた魔法使いたちが弟子にと話を持ってくるようにもなる。だが、どこへも行く気が起こらなかった。そんな繰り返しに嫌気が差して、いっそ逃げ出してみようかと考え、窓の鍵穴に鉛筆を突っ込んで手をかけたときのことだ。
―――『馬鹿かお前。んなもん、割れば一発だろうが』
外側から、強烈な力で窓硝子が壊されたのは。真下の芝生を踏みつけて夜が切り取られたような色のコートを翻したその男に、そこまでしたいとは言っていないだとか、そもそも誰だとか、頬を切った感触に硝子を砕けば怪我をさせるということをまるで考えてくれていなかったのかだとか。頭の中を巡ったことは山とあったけれど、ただ漠然と、ああ外だ、と思った。そうして、同時にばたばたと人の駆けてくる音が聞こえて―――気がついたら、私は素手で硝子片を握り締めて自分の首筋に当てていた。
『近づいたら死んでやる』
物音と目の前の光景に血相を変えた院長を前に、そう言い放ったことは覚えている。何を、と蒼白になる院長に、けれどもそこから先のことは何も考えていなかったのだ。あ、と言葉に詰まったと思ったとき、それが自分のせいではなくて後ろから回された腕のせいだと分かった。黒い手袋だけがはっきりと目に入って、まさかと思って振り返ったら窓を割った男と目が合ったのだ。彼は風を巻き上げるようにして、宙に立っていた。そして、ほんの一瞬何かを考えるような素振りをしたあと、院長に向かって酷く愉しげに、笑った。
『こいつ、今を限りに俺の弟子になったから。手続きやっとけ』
そして、私は生まれて初めて赤の他人に、窓からダイブさせられた。さすがにあの一瞬は記憶が飛んでいる。ただ着地したときは一応無事だったし、その後も孤児院の見えなくなるところまで、腕を掴まれるようにして走った。だが、だ。ここまでならば私にとって、彼は英雄である。問題は―――彼が、そこでぱっと手を離したことだ。
『出たそうな顔してたから、出してやったんだ。あとはお前の好きにしろ』
困惑する私にそう言って歩き出した背中が、やや小さくなるくらいまで混乱が解けなかった。そして要するに弟子にしたとはその場しのぎの口実で、事実として私は突然孤児院から引っ張り出されただけではないだろうかと気づいた瞬間、私は生まれて初めて、これまた生まれて初めて人に向かって魔法を放った。攻撃魔法を。
「……」
だが、結果としてそれは彼に傷の一つも残さなかった。そして、私の中に芽生えていた彼に対する架空の英雄像も綺麗に壊した。もはや遠慮や躊躇はなく、私は少し驚いた様子でこちらを見ていた彼に詰め寄って。
―――『師匠だっていうなら弟子の歩調くらい気遣ってくれてもいいんじゃないですか?』
結果として、誰とも交わさずにやり過ごしてきた師弟の契約を、寝床と食料の確保という目的を秘めて結んだ。結ばせた、に近かった気もしないでもないが。彼が三十人の一人であったとかその中でも大分異色だっただとか、そんなことを知ったのは随分後になってからだ。
『逆だろうが、弟子を名乗るなら俺に合わせろ』
売り言葉に買い言葉で、気がついたらこの家に着いていた。
 思い出したら頭に来て、もう考えるのはやめようと本に意識を向け直す。ただここへ来て真っ先に言われたことは、少し笑える思い出だ。餓鬼の面倒は見ないからな、動物は拾ってくるんじゃないぞ、本は勝手に読んで学べ、あっちは俺の部屋だから空いてる場所で寝ろ。そんなことを散々言われて、最後に言われたこと。
『それから、しばらく話しかけるな。……俺は今から、湯を沸かす』
それが彼の桁外れな魔力から来る言葉だと理解できるまで、時間はかからなかった。何せ、魔法使いらしく指先に火が点ったと思った瞬間、目の前でキッチンが燃え尽きたのだ。これで三十五回目の失敗だと呟かれて、絶句した。同時にこれから私もここで生活するのだと思ったら、彼に任せておくくらいならば私がやったほうがいいとも思えてきて、生まれて初めて自分から魔法を使った。
「あー……」
 読んでいるつもりでもろくに頭に入っていないと自覚して、もう眠ろうと本を閉じた。あれから二年経って、彼は大して変わらない。私は、どうだろうか。今でも魔法使いは嫌いかと言われたら、その答えにはきっと窮する。

 翌日、私はリビングで適当な本を広げていた。師匠は昼を過ぎてようやく目が覚めてきたようで、相変わらず対角で煙管をくわえて新聞を読んでいる。おじさん臭いと言ったら、この時間帯はまだ危険が伴うだろう。二時か三時にでもなれば、軽くはたかれるくらいで済むかもしれないが。
「……!はーい、今出ます」
 そんなことを思いながら頁を捲ったとき、ノックの音が聞こえた。郵便だろうか、ああ依頼かもしれないと早足に玄関へ行ってドアを開ける。そこにはちらりと思った通りと言うべきかなんというべきか、見慣れた制服にバッジをつけた配達者が立っていた。
「こんにちは、イズ様。お師匠様はご在宅でしょうか?」
「いますよ」
「では、こちらをお願いいたします」
「はーい」
抑揚のない声に、事務的だなと思いながらも魔法印を押して封書を受け取る。依頼は、基本的に断ることができない。その地区の誰にも手が出せないからこその依頼なのだ、それを取り下げてくれとも言えるわけはないし、いつも独断で受け取ってしまうが師匠もそれには文句を言わない。もっとも、あの人に断られるような依頼なら、他に受ける人もいないかもしれないが。
「師匠ー」
「んー」
「はい」
だから今回も、何と言うこともなく出かけるぞ、と言われて終わりだろうと思っていた。だが依頼の封書を開ける音がして、いつもなら手紙など放ってしまうのに、随分と真剣に読んでいやしないか。そう思ってどうしたのかと振り返ろうとしたら、口を開くより一拍早く、彼が声を発した。
「……依頼だ、イズ」
「ああ、はい」
「場所は森の入り口付近、……ランクは、白金」
「……え?」
白金。頭の中でぐるりと言葉が一回転する。依頼のランクは通常、銅から始まって銀、金と難易度を上げていく。金ランクの依頼は滅多にあるものでもなく、大抵は銅か銀だ。そして、それらとは明らかに別格である、或いは情報がまるでないといったような場合にのみ使われるランクが。
「……白金、って。何ですか、珍しい」
存在しているには存在しているということは知っていたが、実際にその依頼が舞い込んだのは初めてだ。さすがに驚いて、手紙を見させてもらおうと覗き込んだ。文字が多い。ということはつまり、情報が少ないという事情からではなさそうだ。
「“黒点”の始末の依頼だ。面倒臭ェな……」
先に資料へ目を通していた彼が、標的情報の欄に書かれた黒点という文字を指して言う。何とも言えず表情が歪むのを隠しきれなかった。“黒点”―――魔物の名ではない。
「いるんですねェ……」
「ああ、たまにな。ったく、片付けるほうの身にもなれってんだ」
これは、人間だ。しかし今はもう魔物と呼ぶに値するもの。禁術に手を染めすぎて、理性を失いつつある魔法使いのことをそう呼ぶ。制御の効く段階であれば捕獲という命令の下ることが多いと聞くが、今回は。
「殺すんですか、その人」
「……こうして依頼になってんだ。もう、人間じゃねェんだろ」
「……うえ」
手紙にははっきりと、討伐の依頼だと書かれていた。想像してみても、気分のいいものではない。いつかはそんなこともあると知識としては知っていたが、いざ目の前に突きつけられるとそんな潰れた声も出た。ごつ、と黙れとでも言うように額を小突かれたが、されるがままにしておく。
「情報によれば、動き出すのは夜だ。日が沈んだら出るぞ」
「……はァい」
行きたくないなら家に残るかというような気遣いを期待していたわけではないが、もしも訊かれたら行きたくないと答えたかったかもしれない。だが、それを言わないということは、ついて来るようにということだろう。それも当然か、と仕方なく気分を変えるためにティーポットを探す。黒点は、禁術を繰り返せる力があった魔法使いだったからこその成れの果てだ。恐らく魔法合戦になる。一人で行くと言われたら、それはそれで阿呆かと罵ったかもしれない。

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