フラインフェルテT


 縦と横という間隔さえ狂いそうなほどに、どっさりと本の積み上げられた壁を見上げる。焦げ茶色や深緑、紺や黒といったオーソドックスな色から、金や銀といったやや変り種に思えるものまで、とてつもなく大量の色が目について何とも言えない。愛好家や専門家といった類の人間に見せたら、きっと結構な値段のつくだろうと思えるような古書めいたものまでが、どれもこれも一緒くたに詰め込まれていた。そう、詰め込まれているのだ、これでも。よく目を凝らせば本棚らしく、板が横へ走っているのが見える。だが、その板は目で追っていくと、途中でばきりと折れて無残にも傾くままに放置されていた。負荷がかかりすぎなのだ、どう見たって。一体どこに、こんなにまで酷使されることを目的として作られた本棚があるだろう。目の前にある棚、もとい棚であったはずのものだって、きっと違う。
「師匠ってー、人使い荒すぎてそのうち天罰が下りますよねぇ」
膨大な書物の背骨と見つめ合いつつ、片手のメモに書き出されたこれまた膨大な数のタイトルのうちの一つをようやく見つけて引っ張り出す。出ない。仕方なくぎっちりと詰まったその一列に手をかけて、ふっと埃を払いながら上から順序良く出していく。目当てでない本を手近な机に置きたかったのに、そこにも手紙やらインクやら、大量の物がパイ生地のように積み重なっていてどうにもできなかった。
「ていうか、あたしが下しますケドー」
苛立って、メモをぱんっと空中に弾き、空になったその指をパチンと鳴らす。途端、机の上に風が巻き起こり、パイ生地を舞い上げて竜巻を作った。その指を部屋の丁度対角、日当たりのいい椅子に座って優雅に煙管をふかしながら新聞を広げている、くすんだ赤髪がだらしなく伸びた背中に向ける。そして心の中で、遠慮なくさあ行けと命じた。ごう、という小気味いい音を纏って、紙やペンの竜巻は突き進む。狙いは的確だ。だが、しかし。
「……ビービー五月蝿えなァ、羽虫かお前は」
その竜巻はあと一歩でその背中を直撃すると思わせたところで、黒手袋に包まれた人差し指に突かれて、それこそ紙に穴でも開けるような音と共に空中分解した。ばさばさと散っていく机の上にあったものたちを眺めて、舌打ちを堪えたつもりだったのだが、堪えられていなかった。チッ、と響いた私の心の声を合図にしたかのように、襤褸の帽子を目深に被ったその顔がこちらを向く。
「で?天罰とやらはいつ来るんだ、イズ」
にやりとやけに満足げな笑みだ。奥歯が軋みそうになるのを、全力で堪えた。恐怖からではない、単純に悔しさから来る歯軋りにすぎないのだが、ここでそれを露わにするのも余計に悔しい。迎え撃つようにこちらも笑顔を浮かべながら、なあ、と返答を促す男の顔を見て思う。今、この奥歯の間に挟んだらきっと殺せるに違いないと。
 ―――魔法使いの師弟。世間一般では私達のような関係を、そう呼ぶのだろう。私もきっと訊ねられたらそう答える以外、どうということも思いつかない。魔法の文化が今なお根強く、七人の賢者と三十人の魔法使いが国家の中枢を担うこの国では、別段驚かれる間柄でもないものだ。素質と多少の運があれば、魔法使いになることは難しくない。そして、優れていれば弟子を取ることもあるだろう。私達もそれに当たり、私はこの師匠の弟子を名乗るし、師匠は私を弟子と公言している。だが。
「……本当、師匠って魔法だけは出鱈目に強いですよネー」
「あ?」
「まともなことは何にもできないくせに」
やや特殊な点と言えば、この見るからに怠惰で横柄な男が、その三十人に含まれる一人だ、ということだろう。正義や善良さといったものとは程遠く見えることこの上ないが、こんなでも魔法だけはいっそ不公平なほど扱いに長けている。そして私はそんな彼の、唯一の弟子という名の独楽鼠だ。
「よォく分かってるじゃねえか、なら後は任せたぜ」
「え?」
「俺は、片付けなんて細かいことは苦手なんだ。頼んだぞ、一番弟子」
いつの間に来ていたのやら、随分と遠慮のない力で頭を掴まれた挙句に頷かされた。首に物凄い負荷がかかっている。意地でも頷きたくなどないが、頷かなければあの本棚の如く、無残なことになりそうだ。
「ちょっと師匠ー、これが可愛い愛弟子に対する態度ですかー」
「ああそうだ。あと、その本は今晩中でいいから片づけたら昼飯作れよ」
「は?もう?」
「ああ、食ったら出かけるぞ」
ちらと、気だるげな声音に剣呑さが混じったのを感じて相変わらず無遠慮に頭を押さえつけてくる手をはたく。顔を上げれば、長さの揃わない前髪から覗く灰色の眸と目が合った。
「―――討伐依頼が来てる。西の水門付近に、魔物が巣を作ったらしい」

 七人の賢者の役割は、国の統治と政。そして年中行事の管理や、未来予知など多岐に渡る。では、魔法使いの仕事は何か。単純な話だ、彼らの統治する国の秩序と治安を、維持すること。
「目標は?」
「水竜が二頭だ。討伐と、巣の破壊だな」
 あれから結局片づけを済ませて、簡素な昼食を摂って足早に家を出た。がさがさと足元で鳴る落ち葉が煩い。
「ランクは?どれですか」
「銀だ」
「ふーん。師匠、これくらいならあたしいらないじゃないですか」
三十人の魔法使いは、別名討伐隊とも呼ばれることがある。その名の通り、彼らは国中に星座の如く配置されていて、日頃はそこで自由に生活をしているが、主な仕事は近隣の魔物退治といったところだ。一般的な剣士や魔法使いに手の出せない魔物の痕跡が発見されると、こうして近くに住む誰かに依頼がやってくる。魔物はこの国家が何百年と昔から抱える最大の敵であり、その発見が居住区の近くである場合は尚のこと無視ができない。報告はまず町の人々から賢者へ渡り、そこから依頼という形で討伐難易度によって金銀銅のランクに振り分けられ、専門の配達者を通して封書で任じられる。賢者はその公正な立場上、儀式的なこと以外に魔法の力を使うことがない。そのため伝達も古典的な方法が取られるし、こうして実際に力を行使するのは魔法使いだ。
「じゃあ帰るか?」
「いいえ別にー」
「おう、なら働け。護りは任せたぞ」
「はあい」
がしゃんと、見た目だけ馬鹿に華やかな二挺拳銃が黒手袋の先で回る。中には弾丸など入っていない。あれは、魔法を小さく圧縮して撃ち出すために師匠が編み出したという独自の方法だ。彼は攻撃の魔力が、桁外れに高い。人の多く住む付近で戦うときは、いつも拳銃を通して戦う。万が一軌道が逸れたときに、少しでも損害が少なく済むように。
(巣は……、あそこか)
護りを任せられた私はと言えば、結界を張ってひとまず陰で様子を窺うことに決めた。自分にでも彼にでもない。彼の魔法が直撃するであろう水門に、だ。私は、防御の魔力に特化している。結界の完了を見計らったように銃声が鳴って、水竜の放つ氷の礫が戦闘の始まりを告げた。大袈裟だ、と欠伸をかみ殺す。出て行くまでもない。攻撃は、時として最大の防御。やられる前にやれ、が信条の師匠の前に、繁殖期の浮かれた竜など飴細工のようなものだろう。二挺拳銃の先で踊る業火が、純銀でできていると言われる鱗の下の心臓を射抜いた。

 くつくつと鍋の煮える音を背中に、本棚を漁ってはメモに書かれた書物を抜き出す。いい加減、師匠はリビングで何もかも済ませようとする癖をどうにかするべきだ。自室はあるのに生活のほとんどをここで済ませようとするものだから、中々に広いはずのこの部屋は、キッチン兼リビング兼書斎という謎の部屋になってしまっている。まあ、もっとも。
「……」
その元凶は今、すっかり自室で眠りこけて夕飯が出来上がるのを待っているわけだから、ここで何を思っても伝わるはずがないのだけれど。依頼は結局あの後も私が何かをするまでもなく片づいて、面倒くさがりな彼はどこかへ出かけるということもなくさっさと帰宅したがった。私は私で、町を見て歩くというような趣味もない。いつも通り、連れ立って引き摺られたり逃走したりしながら帰ってきた。疲れていたから歩幅を合わせる気になれなかったという理由で年下の女の首根っこを掴んでさくさく歩かせようとする辺りが、あの男がいかに強くても英雄でなく暴君にしか成りえない確たる証拠だと思う。
「師匠ー、ご飯できましたケドー」
 呼んでもどうせ、すぐには来ない。散らかった部屋の中で唯一、私の管理下である食器棚はそれなりに整理が行き届いている。そこから皿を二枚とマグカップを出して、スープを盛り付けながら奥の部屋へ向かって声を投げた。本はまだ全部揃わない。新しい魔法を教えてやるから明日までに探しておけ、というのもいつものことだ。体のいい掃除の頼み方だと、毎回思う。大概の場合はそれを自力で読んで、別に見てもらうわけでもなく機会があれば実戦で使う。そんなものだ。
「師匠ぉー、先に食べますよー」
「……」
「……?」
呼びかけ直してみても返事がないので、遠慮なく私室のドアを開ける。蝋燭の明かりが一つ点っただけの、薄暗い部屋だ。放置された煙管が揺らめく炎に照らされて、ぼんやりと影を伸ばしている。
「師匠」
「……あ?」
「あーじゃないでしょう。何ヒトに夕飯作らせといて本気で寝てんですかー」
「できたのか?」
「とっくに」
ベッド代わりのソファに寝そべって仮眠どころか悠々と寝ていた彼は、それでも朝よりは機嫌が悪くない。寝起きと言っても大した時間ではなかったせいだろう、いつもこれくらい話が通じる目覚めをしてくれればいいのにとつくづく思う。
「早く来てくださいよ、冷めても温めませんからねー」
先に行って食べていようと思い、起こすだけ起こして薄暗い部屋を出た。生活空間がここに集まってしまう理由は、あの部屋にもある。ランプを使えばいいのにと思うが、彼にとってそれは例えばあの水竜を倒すことよりずっと面倒くさい。魔力は強ければ強いほどいいというわけでもなく、彼がその手で鍋に火をつけようと思ったら、中の料理はおろかキッチンが一つ黒焦げになる。コップに水を汲もうと思ったら、雹が降る。あの蝋燭は、毎回マッチを擦っているようだ。私は力を放つことより受けることに長けているせいか、料理や洗濯、掃除や風呂といった生活全般に魔法を使うことができる。だが水竜二頭を倒すとしたら、きっと余裕などまるでないだろう。
「なんか酒臭……っ、師匠、酔ってません?」
「なんだ、お前も飲むか?」
「結構ですー、この酔っ払い……」
どちらが便利かと言われたら間違いなく自分だと思うが、反面、羨ましいとも思わないとは言えない。もちろん、いつかは負かす。踏んづけて泣かせてこれまでの扱いを詫びさせてやると目論んではいるが、きっとそれは叶わないだろうとも思っている。私は、単純な力においてこの師を超えるということがよほどの奇跡でも起こらない限り不可能なのだ。三十人の魔法使いの中で、討伐者の異名が最も似合うと言われ続けるこの人と、同じ高さに並び立つことは性質としてできないだろう。だから。
「……祝杯だろうが」
「ハイ?」
「俺が器物損害を起こさなかった記念だ」
「それ、あたしの結界が良かったおかげですし」
尊敬しているかしていないかと言われれば、と。ふと過ぎりかけたそんな考えも、何を言うかと思えばどうしようもない一言に消し飛んだ。切り分けたパンを一つ取って、チーズと林檎を重ねて齧る。上機嫌なのは睡眠時間の関係などではなく、ほろ酔いだっただけらしい。

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