ミスターパレットW

 どちらにしても、考えても仕方のないこと。私には今ここで彼を引き止めるほどの、無謀と呼べるような勇気はない。来年は太陽の街に滞在するのかと、答えの読めないそれを聞く強さもない。持っているのは、輪郭を見つけ出したばかりの淡やかな慕情だけだ。せめてもの心を込めてそう約束すれば、彼はひどく安堵したように笑うから、寂しさは余計に見せられなくなった。
「さようならだ、エリー。―――秋を呼ぶよ」
 ざあっと、今まで息を潜めていた風が鳴いている。切り立った崖の端へ立ち、彼は深く生い茂る森と夕空を一望できる場所で両腕を広げた。濃くなった朱色の光が、その瞳を透かしている。両手の先で尖った爪が震え、その光を弾いて切っ先のように煌いた。
「あ……!」
波のようだと、思った。どこからともなく赤や黄、橙の波が押し寄せてくるように、崖の下を埋め尽くす森の木々が染め変えられていく。それは瞬く間にすべての緑を侵食して、晩夏の気配を消していった。どこからともなく木の葉の匂いがして、後ろを振り返る。足元を風が吹き抜けていくのが感じられて、目に入った森はもう、秋の色だった。
 黄金の季節。そんな言葉が脳裏に甦る。本当に、なんてその通りだろう。大地までもが色を変えられたように赤く見える。それは彼がいつか秋に例えた、夕暮れの色に他ならなかった。
「……貴方は、旅をやめるわけにはいかないのね」
「え?」
「いいえ、何でもないわ。……季節の変わるのが、こんなに綺麗なものだなんて知らなかった」
なんて美しい、景色なのだろう。こんなものを見せられてはきっと、私でなくても行かないでくれなどと言えない。彼の目的だという、この季節を回す旅を。放り出してほしいだなどと、どうして言えるだろう。
「……本当は嵐の前に、やらなくちゃならなかったんだけど。一人でここへ立ったとき、何となく君に見せたいと思ったんだ」
「そう、だったの?」
「うん。……不思議なものだな」
秘密を明かすような言葉に、私の体の底で眠る耳が別れの音を聞き取る。秋が訪れる場所を、彼は巡る。秋に満ちたこの街は、もうその片側の目と同じ色だ。
「君を街へ送ったら、その足で駅へ向かうつもりだよ。次の街へ行かないとならない時期だ」
「……そうね。季節が変わらなかったら、麦も林檎も実らない。貴方が行かないで、一体誰が行けるの」
「うん、そうだな。……帰ろう、エリー。一緒に」
差し出された手を、今度は私のほうが強く握っている。涼しくなった空気の中で、その温もりは灯のようだった。巻き戻しのように駆け抜ける森は、来たときとすっかり色を変えている。私は木を数える暇もなく過ぎていくその景色へ視線を向けたまま、喉の奥が焼けるように熱くなっていくのを堪えた。背中の向こうで夕陽が、ゆっくりと今沈んでいく。

 するすると、オリーブグリーンの毛糸が膝の上で少しだけまばらに編まれていく。転がった毛糸玉をカウンターの奥に置いた椅子へ座ったまま見送って、私はまたひと針、編み棒を動かした。
 ふとドアの前を人が通ったような気がして顔を上げたが、見間違いだったようだ。誰もいない、と確認して、作業を続ける。
 日々は水の流れるように零れ過ぎ、あれから季節はいつの間にか冬へと移り変わった。この街にも冬が来たということはいつぞやに聞いたセイウォンという馬がやってきたということなのだろうが、今回はそういったものに関わるということもなく、私は一人の街人として気がついたらそこにある季節を迎えていた。今までがずっとそうだったように。きっと今回も色を塗り替えるように景色は変わったのだろうに、意識さえもしないうちに変わってしまったかのような、そんな感覚でいる。
 彼はあの日、言葉通りに私を街へ送り届けた足で駅のほうへと向かった。見送りには行かなかった。汽車に揺られて遠ざかる横顔は、想像するだけで私の笑みを少し脆いものにするのだ。手を振ってそこへ立って、汽車がすべて見えなくなった後に、何事もなかったような顔で家路へ着けるとは思えなかった。
 彼はそんな私にまた来ると言って行ったが、そこのところは信じているようで信じきれずにいる。疑わしく思うからではなく、期待をしすぎて待ち焦がれる熱に耐え切れる気がしないからだ。いつ、とは言われなかったことも理由のひとつで、いつかを待ち続けてばかりでは、私は涸れてしまう。期日のない約束は時として残酷だ。思い出は褪せるように見せかけてふいに浮き彫りになり、その度に流れるようだと感じていた日々の遅さを思い知る。
「……あら、間違えちゃった」
 手元の編み目がどうにもずれていることに気づいて、私は我に返った。考え事ばかりしているからだと、小さく苦笑してそれをいくつか解く。指先は暖炉を燃しているのに冷たくなって、窓の外には雪がちらついている。この時期はお客も少なくなるものだ。仕入れた紅茶はまだ香りが薄らいでいないだろうか、そんなことを確認しなくてはと思ったときだった。
「え?あら、いらっしゃいませ」
 カランと、来客を告げるベルの音が久しぶりに鳴ったのは。慌てて編みかけの毛糸を置き、椅子を立って、先刻転げていった毛糸玉をカウンターの奥へやって姿勢を正す。そうして顔を上げて、そこに入ってきた人物を一目見たとき、息を呑んだ。金の髪と、異国の服。古びた鞄を片手に提げて、傘を持たなかったのだろうか、微かな雪がその肩の上に載っている。
 その男が声に反応してこちらを向いた瞬間、頭の奥の扉が開かれて、そこへ押し込めたはずの日々が咲き戻るように溢れ出した。ああ、本当に。
「……やあ、お邪魔するよ。旅の途中なんだけれど、雪に降られてしまってね。傘を持っていないんだ、しばらく、休ませてくれないかい」
「……連絡もなしに来て、よく言うわ。しばらくって、大体どれくらい?」
「そうだな、できれば―――」
本当に、なんて言葉にし難い感情だろう。淡いままに掠れて見えなくなっていくものだと思っていたのに、こんなにも簡単に私の中へしまいきれなくなってしまう。そしてそれは、いつの間にこんなに鮮やかなものへと成長してしまっていたのか。
「……夏の終わる、その頃まで」
 駆け出して、目の前の温かい体を抱きしめる。ふわりと抱き返した両手の先にある爪は何の変哲もなく、間近で見れば微笑んだ目は、どちらもくすんだ青色だった。秋の目覚めはまだ遠く、今はしばしの眠りについているのだろう。彼がその足を、今一度ここで止めることと同じに。
「お帰りなさい、ランドウ。……本当に、また会えたわ」
「うん、ただいま。ああなんか、僕が言うと変な感じだな」
「ふふ、いいんじゃないの。旅人にも、休暇があるご時世なのだもの。もっともうちは宿屋さんじゃあないから、住み心地は保証できないけれどね」
「それは住んでみなきゃ、分からないさ」
「そうね」
柔らかな指が、髪を撫でる。可笑しな話だ。私も彼も、一人きりには慣れているはずなのにこんなにも懐かしい。誰かがそこにいないことを寂しく思うようでは生活などままならないと思っていたのに、違えた螺子は嘘のようにぴたりと嵌って、まるで今こそが本来の形であるかのように心の底の深い場所を何かが埋めていく。それは手を離した日の傷口を塞いで、あらゆる思い出を易々と引き出した。
「……会いたかった」
独り言のような呟きに、爪の先まで灯が燈る。ああなんて、恋は恐ろしくて、愛おしい。

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