第五幕


 朝の町は霧が薄くかかって、船の汽笛はその間を漂いながら大通りまで聞こえてくる。バザールへ向かう人や散歩の老夫婦とすれ違いながら、私は黙々とそこを歩き続けた。時計台の針がいつもより二回りも早い時間を指している。明日もここにいるからと、いくらそう言った彼であれ、こんな時間から会えるのかどうか。保証はない。確信はもっとなく、けれども私には一掴みの希望を持ってそこへ向かう以外、できることなど何もなかった。たくさんのことを話したつもりでいた。それなりのことを明かしたつもりでいた。けれども私は、彼について、結局のところどこへ住んでいるのか、何時頃ならあのベンチで会えるのか、そんなことさえも知らなかったのだ。
「!」
どうか、いてほしい。きりきりと痛む心臓をショールの上から押さえて角を曲がったとき、公園の大きな木の間に朝焼け色を見た。彼だ。いつもと何ら変わりない横顔に、本当に会えたのだという驚きと安堵で力が抜ける。歩み寄ってみれば彼は、ライムを片手に取っては分け、選別の作業か何かをしていた。若い実をまとめて大きな瓶に入れ、熟したものは鞄へ戻す。私はそのベンチの横へ行って、そっと肩を叩いた。
「レイシー」
「……」
「おはよう、どうしたんだい。今日は早いね」
荷物を退かして席を空けようとしてくれた彼に仕草で構わないと伝え、私は昨日ベンチの下に置いていった小石を手に取った。
『仕事中でしょう?分からなくなってしまったら困るから、空けないでいい』
鞄を引き寄せて瓶を片手に取りかけていた彼は、私の走り書きを見るなり少し迷って、それからそっと荷物を置いた。笑ってみせれば申し訳なさそうに苦笑して、それから自分が立とうとするから、私はまた首を横に振る。
「悪いね、いつもは君が来るまでに終わっていたのだけど」
『いいの、今日は私が早かったんだから。それは何?』
「ああ、これかい?昨日バザールでまたライムを仕入れてきたのだけど、思ったより酸味が強くてね。半分くらいは砂糖漬けにしたほうが売れそうだから」
『鞄が重くなるでしょう』
「はは、まあ仕方ない。売れ残るよりはましだよ」
『そうね』
「君は、どうしたの?今日はずいぶん早いけれど」
昨日は霧雨で湿っていた砂も、今日はもう乾いている。それでも初めの日のような白さをなくしているのは、まだ夜が明けてから短いせいか。木陰の草に溜まった夜露を横目に見て、私は少し、彼の問いかけに手を止める。
「というか、やっぱり座っていいよ。疲れるだろうし、衣装、汚れると良くないんじゃないかい」
『いいの、大丈夫。そんなに長くいられないから』
「え?何か用事?」
『うん』
見上げた眸は、今日も変わらずあの甘酸っぱい味を思い出させる色をしている。底に淀んだ砂糖のような、潜めた優しさが好きだった。アンティークのようだと思ったのは、きっと色ではなくて、どこか懐かしさを感じさせる眼差しだったから。彼はその眼差しに、どんなときでも温情を持っている。惜しみなく向けられるまるで愛情のようなそれが、私には戸惑いであり、どこまでも鮮やかな喜びであった。だからこそ。
『今日は、お別れに来たの』
私は彼に、向き合いたい。たくさんのことを隠した。多くのことをごまかした。そして明かして、受け入れてもらった。最後くらいは、自分からきちんと伝えたいのだ。それが感謝になるのかは分からないが、こうして今日会えたことに意味があるのだとしたら、きっとそれは私なりの誠意を伝えるためなのだろう。


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