第三幕


「―――」
そうだと、言って。声にならない声でそう唇を動かしたけれど、砂に視線を落としていた彼には気づかれなかった。それでいい。その眼差しのぶつかるところへ指を伸ばして、また文字を綴る。私は臆病だ。
『貴方は』
「ん?」
『ライムの香りがする』
わずかな沈黙に甘えて、話を逸らすことを選んだ。顔を上げた彼の後ろの日溜まりを、鳥が歩いていく。
「あれ、分かる?」
少し嬉しそうにそう笑った彼は、肩に羽織った朝焼け色のショールを外して、ふわりと私に羽織らせた。ライムの香りが強くなって、思わず瞬きをする。
「僕、バザールで仕入れたその地域の果物を売って歩いているんだ。最近は専らライムだったからだろうね、手が塞がったときはこれに包んでいたから」
「……」
「自分じゃ分からないものだね」
言われてみれば、と頷いて、彼はまた私の肩からショールを外した。私の纏っていた若草色のショールが捲れて戻り、かすかに移った香りが髪を滑る。
「そうだ、せっかくだからシロップ漬けにしておいたやつをひとつあげよう」
「!」
「おいで、ほら」
秘密の話をするように小さく笑って、彼は言った。一瞬の躊躇を読み取られたのか、手招きに使われていたはずの手が有無を言わさず差し出される。不思議な人だ。温かい手に引かれて短い距離を歩きながら、私は彼の後ろ姿を見て思った。穏やかで優しく、威圧感を与えるような真似は何もしない。それなのに彼は、こうして最後にはそれとなく私を折る。一度は断ったはずのベンチに二人並びながら、隣で瓶を開ける彼の手元を見るともなしに眺め、私はそっと背もたれに肩を預けた。古びた木の感触が背骨を撫でる。
「はい」
細いフォークを刺して渡されたライムの一欠片は、晴れた日の葉の影のように透けて、万華鏡を思い出す。自然と笑みが溢れて、私はそれを口に運んだ。
『ありがとう、美味しい』
ふらふらと足の先で、不器用に文字を並べる。彼はそれをどこか楽しげに眺めて、他愛ない言葉を返した。


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