公園の悪魔(♯)

 それは神様が寄越した四月馬鹿だったのか、はたまた私の今日の不運が招いた、ただの馬鹿だったのか。神様でない私に分かることは少なく、ただ察したのは世間には色々な人がいるらしい、それくらいのことだった。
「嘘はいかが?おひとつ十円だよ」
目の前で細い足を組み薄い唇を意味ありげに吊り上げてそう言ったそいつは、さながら悪魔のようだった。真っ黒なシャツに真っ黒なパンツ、そしてやはり真っ黒な靴を履いて、真っ黒な帽子で目元に影を落としている。表情こそよく見えないが、口元から察するに笑っているらしい。そいつは、その帽子の下から見える髪すらも真っ黒だった。無視すれば良かったのだろうか。その異様とも言える風貌に、足を止めてしまってからはたと気づく。だがそこまで考えて、いやいやと首を振った。私が足を止めたのは、彼―――と呼んで差し支えないと思う―――の、そのファッションセンスが気になったからではないのだ。
「聞こえてる?買わないかい、嘘。今だけ限定十円だよ」
そう、それだ。今まさしく、思考でも読んだかのように繰り返されたその言葉。先ほども似たようなことを言われた。他でもない、それが私の足を止めさせたのだ。
「……」
「……」
にこにこ、というよりはにやにや、だろうか。人の不快感を煽る笑みだ。馬鹿にされているような、そんな印象を受ける。
(悪戯……?)
その答えに行き当たるまで、時間はかからなかった。エイプリルフール、四月馬鹿とはよく言ったものだ。嘘を売る、なんてこの人はどれだけ今日を楽しんでいるのだろう。しかしこれは、どうしたらいいのやら。
「……」
「……」
じっと見つめていると、まるで見つめ返されているような錯覚に陥って、それとなく目を逸らす。可笑しな話だ、彼の目は帽子に隠されているというのに。それでも視線を重ねた気になってしまうのは、きっとこれほどに沈黙が続いてもまだ、彼が始めのにやにや笑いを崩さずにいるからだろう。いっそ冗談だよと吹き出すなり、からかいがいのない女だったとでも立ち去ってくれれば良いものを。彼は辛抱強く、にやにやしている。
「……ひとつだけ」
「ん?」
「ひとつだけなら、買うわ」
我ながら馬鹿馬鹿しい冗談に付き合ってしまったものだ。口にして、そう実感した。けれど一度立ち止まってしまったものを何も言わずに立ち去れるような度胸はなかったし、そもそも本当に十円で済むなら、この悪戯はそれなりに良心的な気がした。それに。
(……嘘、ねえ?)
悪質そうなら逃げればいい。好奇心に負けた心へ、言い訳を添える。そう、簡単に言うなら私はこの悪戯に、少しばかり頬が緩んでしまう程度には興味があった。というか湧いてしまった。限定という言葉に釣られたのか、それとも単に目の前の馬鹿が移ったのか。分からないが、財布から十円を取り出す。そこで出てきたレシートを見て、ああと納得した。そう、そもそも私は今日、苛ついていたのだ。
「どうした?」
「何でもないわ。はい」
「毎度あり」
ちゃり、と手渡した十円が彼の手のひらで音を立てる。シルバーリングかと思ったそれは、よく見ればやっぱり黒かった。
「どんな嘘がいい?」
「え、選べるの?」
「あんたの買い物だからね」
「……選ぶ種類もない駄菓子くらいの値段よね、まあいいけど。じゃあ、嫌なことを忘れちゃうような、後味のいい嘘がいいわ」
どうやら意外に、というか本当に、なかなか良心的な悪戯だったらしい。実を言えば万が一財布を掴まれたら叫んでやろう、くらいの疑いは持っていたのだが、その心配も無用だったようだ。それどころか嘘はリクエスト可能ときた。存外凝っている。彼はやはり、よほどこの日を楽しむ気でいるらしい。
「後味ね、それじゃあ……ああ」
「?」
「足を見せてよ」
「……」
「……うわ、そんな顔しなくたって」
前言撤回、変態か。そう思った瞬間、私はよほどきつい顔になったらしい。相変わらずのにやにや笑いに苦笑が混じる。
「……足じゃなきゃ駄目なの?」
「嫌なら違うのにしとく?」
「嫌っていうか……別にいいんだけど、笑わないでよ?」
前置きをして、靴を脱いだ。そのまま彼の座るベンチの端へ、足を載せる。途端に露になる膝―――ではなく、それを覆うくらいの絆創膏。我ながら痛々しい。だから嫌だったのだ。
「うわ、やっぱ酷いな」
「やっぱ?」
「ん?ああいや、さっき歩いてたときにさ、随分痛そうに歩くと思ってたんだ」
「……見えた?絆創膏」
「そりゃあね」
「……」
情けない話だ、どうやら隠そうかどうしようかと戸惑ったのは私だけで、彼は始めから気づいていたらしい。こんなでかい絆創膏あるんだね、などという台詞が聞こえた気がしたが、頭にきたので無視した。
「朝からこれだけ派手な生傷作れば、誰でも苛々するわな」
「……貴方、どこまで知ってるわけ?」
当たり前のようにかけられた言葉に、訊ねずにはいられない。すると彼は悪びれもせず、長い爪で傷の外を辿るように触れながら笑った。
「あんたがこの公園に入ってきて、そこの石でヒール折って、転んで砂場に突っ込んで、出ようとしてもう一回転んで生傷作ったあたりから」
「へえ、要するに全部ね。ていうかいたなら助けなさいよ」
「やだね、面倒だろ」
「……いい歳して十円せびって遊んでる暇人なんじゃないの」
「……あんた、外面はげんの早くない?」
外も内もなさそうな貴方に言われたくないわよ。笑いながらそう返せば、彼もまた気を悪くするわけでもなく、それもそうだなと答えた。図太い神経の持ち主なのか、なんなのか。人のことは言えないが、少なくともデリカシー溢れるタイプではないのだろう。だって、もしそうならヒール折って転んで以下略で、どこからどうみても不機嫌極まりなくコンビニから絆創膏を買って帰ってきた女に、エイプリルフールごっこなど持ちかけはしない。知らなかったどころか、全部眺めた上で声をかけたというから相当なものだ。そんなことをぼんやりと考えていたら、膝からぴり、と何かを剥がされるような音がした。
「……何してるの」
「え?まあ待ってなって、嘘ならもう始まってるからさ」
「は?……え、ちょっと」
「というわけで」
にやにや笑いが、ほんの一瞬濃くなる。そして―――何かを言うより早く、貼ったばかりの絆創膏が遠慮を知らない勢いで剥がされた。
「ちょ、痛っ!?あのねぇ、貴方何す―――……」
「……」
「……え、」
痛い。否、痛いはずだった。視界の隅で彼の手を離れた絆創膏が、ぺた、とベンチの向こうへ落ちる。ごみ箱に捨てましょうよ、なんて場違いと言えば場違いな言葉が頭に浮かんで、けれどもそれは目の前の衝撃に消されて声にならなかった。
「嘘吐き」
「……!?」
「痛くなんかないだろ?」
にやにや笑いを崩さずに、彼は言った。息を飲む、とはこのことなのかもしれない。飄々と笑う彼とは対称的に、数秒呼吸すら止めてしまった私は、ただ目の前で起こったことが信じられずにいた。何故だ、何が。
「ど、どうなって……」
「ん?」
「貴方、何したの!?」
自分の状況が飲み込めなくて、思わず声を張り上げる。
「なんで……だって、私、確かに怪我してたのに……!」
これが我を忘れずにいられようか。
「なんで、跡形もないのよ……!?」
これが、目を見開かずにいられようか。言葉がろくに纏まらない頭で、それでもなんとかそれだけは絞り出して。けれども彼は何も答えず、ただその長い爪で私の膝を突いた。そこに痛みは愚か―――傷はもう、見当たらない。
 それは神様が寄越した四月馬鹿だったのか、はたまた私の今日の不運が招いた、ただの馬鹿だったのか。
「事実は事実、怪我なんてどこにもないだろ?」
組んでいた足をひらりと解いて、立ち上がる彼を見上げた。真っ黒な全身は影と同化してしまいそうな、そんな雰囲気を持つ。悪魔のようだ。
「嘘吐き」
彼はそう繰り返して、笑った。呆然と立ち竦む私の頭に、子供騙しのようにわざとらしく優しい手が降りてきて、一度弾んだ。
「またね、四月馬鹿のお嬢さん」
ご馳走様でした。囁いてどこかへ歩き出した彼の口の中へ、十円玉が消えていく。私はそれを、ただ目を開いて見つめていることしかできなかった。これははたしてどこまでが、嘘なのだろう。

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