竜の花(♯)

 その宝は千年に一度、白銀の鱗と金の眼を持つ竜の爪に守られて、この世界に咲くという。


「歌が聴こえるの」
 崖をくりぬいて造られたような薄暗い洞窟の中で、飴色の髪をした少女が言った。ゆらゆらと燃える焚き火の時折はぜる音以外、何も邪魔をしないそこでは、彼女の声はやけに凛と澄んで響く。
「歌?」
向かいで静かに洞窟の入り口を見つめていた少年は、視線をゆっくりと少女へ向ける。うん、歌よ。こくりと頷いて、少女は言った。続きを促すように、少年は黙ってその目を見つめる。
「夜になるとね、聴こえるの。君は私の眸、君は私の星」
「それは……」
「そう。神話に出てくる竜の歌の一節でしょう?」
若草色の袖を引き伸ばしながら、少女は言った。少年は静かに頷いて、ゆら、と揺れた火の底へ枝を投げ込む。一回り大きく燃えた火は、少女が手にする分厚い本と、古びた地図を鮮明に照らし出した。千年に一度だけ現れると云われる、伝説の宝を讃えた物語と、その在りかを伝える地図。
「やっぱりこの近くにあるのよ」
竜の花、と。人はそれをそう呼ぶ。少女はこれを見て、と分厚い本を少年へ渡した。栞のページよ、落とさないでね。少年は言われた通りに、注意深くその本を開く。少しでも雑に扱おうものなら、ばらばらに壊れてしまいそうだ。本は、そんな印象を与えるくらい古かった。もっとも本当は、旅人である少女が持ち歩いて山を登り町を下り雨を浴びたくらいではびくともしない、不可思議なほどに強いものなのだが。
とはいえ、少女がそれを大切にしていることに変わりはない。共に旅に出て一年、そのことを十分に知っている少年は、骨董品に触れるようにそのページを開いた。

君は私の眸、君は私の星
君は私の刻、君は私の脈
眸よ、この空を見せておくれ
星よ、あの海を教えておくれ
刻よ、この命に名前をおくれ
脈よ、その音に行方をおくれ
私は君の夢、君の揺り籠
君よ、この爪に―――

「……」
 竜の歌と呼ばれるそれが綴られたページは、最後の数文字だけが掠れたように読めなくなっていた。見えないね。少年が無表情な顔に少しだけ苦笑いを滲ませて言えば、肝心そうなものに限ってそういうものよね、と少女が答える。
「でもね、次のところを見て」
「次?」
「そう、隣のページ」
蜂蜜色の眸をふわりと細めて、少女は焚き火の向かいから指を指す。届きようのないそれはしかし、少年の目を誘導するくらいのことは果たした。ああ、これ。少女の言わんとしたものが目に留まって、少年はまた本に視線を戻す。
「そこ、書いてあるでしょう。竜の歌は、」
「……竜の花を慈しみ、あらゆる災いから守るための、祈りの歌である」
「そう、つまりね」
続けるように読み上げれば、少女は満足したように頷いて、顔を上げた。
「竜の歌が聴こえるってことは、竜の花がこの近くにあるってことだと思うの」
確信と不安をどちらも孕んだ声でそう言うと、少女は手にした地図を広げた。千年に一度の竜の宝を記す地図が、どれほど信用なるものなのかは分からない。印はあまりに大きく、ほぼこの小さな国をすべて囲んでいると言っても良いくらいだった。紛い物でない証拠はない。だが、確かめようもない。
生まれた時に抱いていた地図など、一体どうして本物かなど確かめられよう。
「……この辺りになら、あるのかな」
「……」
「私の、何か」
ぽつりと、少女が呟く。その声は凛と澄んで震えて、少年はまた一本、枝を投げ込んだ。

 すべては、ここから町をいくつか越え山を下りた先にある、丘の上で始まった。少女は生まれた。そう、生まれたのだ。そこに立つ、高く聳えた一本の樹から。
 少女は自分が生まれたことを、生まれながらに知っていた。生きる知恵、歩く足、言葉、相応の年の姿。少女は生まれながらに何もかもを持っていたが、自分自身のことは何一つ分からなかった。
 ある日ある時、新芽のようにそこに生まれた自分。そして瞬きをしたところで、少女は気づく。自分が持っていた、一冊の分厚い本と、一枚の古びた地図に。

 すべては、そこから始まったのだ。謎に包まれた、というよりは、謎に包まれているのかさえ分からない自分を得るための旅。何もかもを持っている。けれど何もない。空っぽの器を埋めて歩くような旅だ。いつ埋まるのか、否、埋まることなんてあるのか。それすらも分からないまま歩き出して、そして町を越え、森を抜け、昼を越え夜を越えて。
「きっとあるよ」
「!」
「……大丈夫」
そうして、少女は少年と出会った。大丈夫、別に何も訊かないよ。宥めるような声色に、あの日、雨の中で言われた言葉が甦る。
大丈夫、別に何も訊かないよ。君の名前以外は。
「ティカ、僕は」
「……」
「君の行きたい場所へ行って、見たいものを見て、信じたいものを信じるのがいいと思ってる。僕は、君の―――」
最後の数文字だけが、掠れたように聞こえなかった。何て言ったの。聞き返した少女に、少年は何でもないと首を振る。
「少し休むといいよ、疲れてるんじゃない」
「そうかな」
「……先に眠っていいよ、水を取ってくる」
「ごめん、ありがとう」
少女の聞き返しを疲れと取ったのか、少年は小さくなった焚き火を消した。まだ暖かい空気の残る壁に凭れて、少女は手元にあった毛布を引っ張り上げる。ゆっくりと瞬きを繰り返せば、意外に早く眠気が降りてきた。疲れなんてと思っていたが、そうでもなかったのか。ぼんやりとした眼差しで、洞窟を出ていく少年を見送る。

 かさりと、指の先に地図が触れた。この長い迷子の先には、何が待っているのだろう。自分はそこで、何を知るのだろう。そうして何を得るために、生まれてきたのだろうか。消された焚き火の跡の向こうで、閉じられた本の表紙が揺れる。竜の花。それは竜の、唯一無二の宝だというけれど。それにお目にかかることができたとき、自分は何かを知ることができるのだろうか。
証拠はない。だが、それ以外には何もない。
「……」
行きたい場所へ行って、見たいものを見て、信じたいものを信じるのがいいと思う。徐々に緩慢になる思考の中で、少年の言葉が甦った。それならば私は、竜の宝を探してみたい。そうして見てみたい、竜の花と呼ばれるそれを。信じたいものは一冊の本と、一枚の地図と、それらを抱いて生まれたことに意味があること。それから。
 閉じてゆく視界の先に、肩へ届く白銀の髪を結ぶ背中を見た。いつかの声を、昨日のことのように覚えている。
大丈夫、何も訊かないよ。君の名前以外は。僕は、名前も教えられないけれど。

「……」
 木々の隙間に沈んでゆく夕日を見送って、少年は一度だけ、洞窟を振り返った。金の眸が瞼を下ろした少女を映して、少しだけ柔らかさを滲ませる。そうして少年は、いつものように水を取りに行った。藍に変わる空が、尖った月を飾る。

君は私の眸、君は私の星
君は私の刻、君は私の脈

 歌が聴こえる。少女は眠りに就こうとする瞼を擦って、耳を傾けた。胸の奥に雫を落とされるような、不思議な声だ。心が波打って、そして落ち着く。
(……もう少し、聴いていたいのに)
自分を得る、手がかり。けれども必ずと言っていいほど夜に聴こえるそれは、一日歩き疲れた体には穏やかすぎて。諦めでも促すかのように空気を震わす声に、一度は開けた瞼を下ろした。

眸よ、この空を見せておくれ
星よ、あの海を教えておくれ
刻よ、この命に名前をおくれ
脈よ、その音に行方をおくれ

 足音が聞こえる。聞き慣れた、平たい靴を鳴らす足音。

私は君の夢、君の揺り籠
君よ、この爪に―――

「僕は君の、揺り籠」
深く微睡んでゆく意識の中で、その声だけは、確かに少女の夢まで届いた。

―――君よ、この爪に形なき愛を与えておくれ。


 その宝は千年に一度、白銀の鱗と金の眼を持つ竜の爪に守られて、この世界に咲くという。

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