屋根裏のフラジールU(♯)

「君は、普段何をしてるの?」
「お掃除をしてるわ」
「外へ遊びに行くことはあるの?」
「ほとんどないけれど、このテラスからの夕焼けは綺麗なのよ」
「……君の、部屋って?」
「ふふ、面白いこと訊くのね。ここに決まってるじゃない」
今ここにいるでしょう。当たり前のように言った彼女に、僕は何を答えたら良いのか分からなかった。薄暗い屋根裏、埃の積もった階段、錆びたテラス、継ぎ接ぎだらけの服。それらすべてを飲み込んで、何もかもに相反しようとするかのような笑顔が悲しい。泣いても良いと思うよ、なんて言えるわけがなかった。所詮僕は今このときに匿われているだけで、あと数分、数十分という単位で君と離れていくだろう。そんな僕が、君がここまで積み上げてきた強がりを崩すなんてとんでもなかった。ずっと傍にいて守ってあげられるわけでも手伝ってあげられるわけでもない。そんな僕が泣いても良いよなんて、言えるわけが。
「ねえ」
「なあに?」
「君はよく笑うんだね」
口にしたい言葉は山ほどあるのに、その中の一体いくつが君を傷つけず、僕らを繋いでくれるだろう。考えてみるとそれはあまりに少なく思えて、僕は結局言いたくもないことを選ぶしかできなかった。うん、と彼女は頷く。いつも笑顔でいるとね、幸せになれるのよ。誰が言ったの。私の、お母さま。
瞬きをする瞬間は儚くて、灰色のこの部屋に融けていってしまいそうだ。怖くなって無意識に指を絡めた。からんと落ちたブローチが、やけに目に痛い。ああ、この赤はこんなにも眩しいものだったっけ。
「ねえ、君」
「?」
「僕と一緒に行こうよ」
口から出た言葉は無意識に近いもので、そんなことが可能かどうか、僕には分からない。けれど可能でないなら可能にしてみせる。それくらいの気持ちは充分にあった。名前も知らない誰かについてきてくれるのかなんて分からないけれど、君が頷いてくれるなら僕はどこまでだって意地になろう。見知らぬ土地で見知らぬ僕を助けてくれた、優しい女の子。君にはもっと木洩れ日の綺麗な、真昼のテラスが似合うのに。
「……行かれないよ」
「……」
「私は、行かれないよ。おかあさまが許してくれない」
「逃げ出そうって、言ったら?」
「……駄目。見つかったらきっと、連れ戻されるわ。そんなの、今より悲しいよ」
「あ……」
「きっと、耐えられない」
呟くように口にされたそれは当たり前の言葉で、故に悲しくて。けれど今までの何より彼女の本心を見た気がした。一瞬の希望なんていらない。遠回しに言われたその言葉が、後先を何もかも見ないことにしようとした僕に突き刺さる。
「でも、ありがとう」
「え?」
「あなたがそう言ってくれて、嬉しかった。私はあなたにとって、一緒に行ってもいいんだって」
「……当たり前、だよ」
「ふふ、嬉しい。……ねえ?」
「?」
「ひとつだけ、我が儘を言ってもいい?」
「うん」
「ブローチじゃなくて、あなたのハンカチをちょうだい。エプロンのポケットにして、ずっと私の宝物にしていられるように」
「……うん」
落ちたブローチを拾った手が、そっと僕の手に重なる。赤く光るそれの代わりに、百合の綴られたハンカチを渡した。ありがとう。心から嬉しい出来事のように言われて、指が震える。あまり大きさの変わらない手が、今の僕には悔しかった。ああどうして。
「……君は、お姫様みたいだね」
「え?」
「そのエプロン。初めて見たとき風が吹いて、花嫁さんのドレスかと思ったんだ」
「……ありがとう。そんなこと言われたの、初めて」
「うん」
どうして、僕らは大人じゃないのだろう。たった一人の優しい女の子の、その優しさが胸に痛い。どうして、僕らはここにいるのだろう。こんな感情すら霞ませてしまいそうな灰色の屋根裏じゃなくて、君にはもっと明るい場所を見せてあげたい。もっともっと、楽しいものや綺麗なものを分けてあげたい。
幸せになってほしい。もっとどうしようもなくなるくらいに、笑ってほしい。それだけなのに。
「ねえ、笑ってくれない?」
「いいわよ、どうして?」
「……どうしても」
僕達は幼くて、とても無力だった。願いや思いはいくらでも持てるのに、それを叶える力が何もない。悔しくて悲しくて、どうしたら良いのか分からなかった。ふわり、細められたアメジストがかすかに切なさを孕んで、僕の望みを叶えようとしてくれる。それがとてももどかしい。
「……ありがとう」
流せない涙が重く固まって、ガラス珠のように胸の奥で丸まった。半透明のそれはどこか、微笑みが解ける瞬間の君の儚さに似ている。ころころと転がり落ちていったそれが、どこへ辿り着くのかは分からない。ただ、僕は忘れないようにしよう。君の柔らかな笑顔も、それが解ける瞬間も。思い返すと遣る瀬なさに切なくなる。それでいい。
じりじりと胸の奥に焼きつけて、忘れずに持っていよう。この今の、灰色の空気から触れた手のひらの体温までの思い出を、何もかも。

「アルス様、アルス様!」
「!」
ふいに外からの声が、灰色の部屋に飲まれそうになっていた僕達を引き戻した。はっと顔を上げた僕が窓の外を見たのに気づいて、彼女が察したように立ち上がる。
「……アルスっていうのね」
「あ……」
「行かなきゃ。お迎えでしょう?」
「でも」
「私だって、もうお掃除に戻らなきゃいけないもの。だから、ね」
「あ……っ」
「楽しかったわ、会えて良かった。……元気で」
するりと呆気なく離れてしまった手を、離したくなくて。けれども彼女は迎えがいるうちに帰るよう促すと、ワンピースのポケットにハンカチを隠して、にこりと微笑んだ。それがまるでこれきりになってしまう挨拶のように感じて、考えてみれば始めからこれきりになるのが当たり前だったはずなのに、それこそ耐えきれなくて。
「待って!」
「!」
気がつくと、叫んでいた。狭い薄暗がりの中に、切羽詰まった残響が漂う。階下へ繋がる階段に手をかけて踏み出そうとしていた彼女が、振り返る。
「君の名前は?」
僕達は幼くて、とても無力だった。願いや思いはいくらでも持てるのに、それを叶える力が何もない。けれど。


「シンデレラ」


僕は君を忘れない。例えこの思い出が色褪せて、この灰色の空気すらセピア色に思えるような長い時間が流れたとしても。
最後に一度笑って、彼女は階段を下っていった。僕はそれに背を向けて、反対側のドアからついさっき駆け上がった階段を下りる。錆びた手摺が、きしりと音を立てた。

「トーイ」
「ここにいらっしゃいましたか、アルス王子!探しましたよ」
「ごめん」
「何もございませんでしたか?お怪我などは?」
「大丈夫、……何もなかったよ」
「そうですか、それは安心しました」
「心配かけてごめん。勝手に歩いたことも」
「ええ、本当に……貴方様が見つからなかったらどうしようかと。ご無事で何よりでございます」
「……うん」
「さあ、もう戻りましょう。ここは長居をするには危ないそうですからね。何しろ物盗りが出るのだとか」
「ふうん」
「無論、私がついておりますのでご安心を。ああそうだ、ですが」
「?」
「ブローチとネクタイピンだけ、外させて……おや」
「あ」
「王子、ブローチとピンはどちらに?」
「……さっき外した」
首を傾げる従者に、ポケットから二つを取り出して渡す。そうでしたか、と納得した彼はそれを当たり前のように受け取り、同時に受け取った僕の鞄へしまった。そうしてそのまま、まっすぐに来た道へと歩き出す。
「……」
僕は一度だけテラスを振り返ったけれど、そこに彼女はいなかった。きんと痛んだ胸に手を当てて、ガラス珠をやり過ごす。泣いてはいけない、僕にはもうハンカチがないのだから。それに、彼女はきっと今も微笑んで、いる。
「アルス様?」
「何でもない」
歩き出した足は疲れて重く、今あったことが嘘ではないのだと教えてくれる。僕はそっと手を握って、また足を進めた。



忘れたくない思い出があるのだ。遠く澄んだ静けさの向こう。

「王子、トーイです」
「開いてるぞ」
「失礼します」
慌ただしい夕方の部屋に、ノックが響く。返事を確かめてから入ってきた従者は、手にしたメモを広げて、部屋の最奥に腰掛ける青年の隣へ立った。
「今宵の舞踏会のことで、ひとつお話が」
「また舞踏会関係か……お妃なんてまだ早いって、父上は何度言えば分かるんだろうな」
「はは、仕方ありませんよ。昔からせっかちな方ですから」
「まあ、それは言えてるけどさ」
笑い混じりに仕方ないなどと言った従者に、他人事だなあと苦笑する。そんなことありませんよと飄々とかわされるのは、もう昔からのことだ。
あれから十年。まだまだ若者扱いされる年齢ながら、同時にそろそろ未来の妃を選ぶような歳になった。舞踏会の開催時間が書かれた紙と、参加者のリストを受け取る。この手は、今なら望みを叶える力くらいあるのだろうか。
「今日で選べとか言わないよな……」
「さすがにそこまで気の早い方でもないでしょう」
「用件はこれを渡しに来たのか?」
「ああ、いえ。もうひとつ」
たかが一度の舞踏会を開いて、そこで一体何人の何を見極めろと言うのだろう、父上は。リストにずらりと並んだ名前をぼんやりと読みながら、そんなことを考える。
「実はですね、リストに名前のない方が一人いらっしゃってまして」
「招待状を出してない相手ってことか?」
「ええ、しかもその……」
「?」
「何やら南瓜をモチーフにされたような、大変華やかなオレンジの馬車でのご到着でして」
「……は?」
「いかがいたしましょうかと……」
「……名は?名乗れる者だろうな?」
「ええ、それはもちろん。ええと」
ぱらり、彼が紙を捲るのを黙って眺めながら、これだから舞踏会なんてと思わずにはいられない。来客は来客だ、追い返すつもりはないが、しかし南瓜の馬車とは一体どこの誰が作ったのだろう。それに乗ってやって来たという本人も、どこの誰なのやら。
ああ、ありました。目的のメモを見つけたらしい従者の声に、顔を上げる。


「名をシンデレラと申されておりますが、いかがなさいますか?」


忘れたくない思い出があるのだ。遠く澄んだ静けさの向こう。昔々の霞んだ記憶に、転がり落ちたガラス珠のような。


「……シンデレラ?」


運命は、終わらない。
 

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