屋根裏のフラジール(♯)

忘れたくない思い出があるのだ。遠く澄んだ静けさの向こう。



「おい、こいつのブローチ見てみろよ!本物だぜ」
「ああ、見ろよ。服も安物じゃねえ」
「離せっ!触るな!」
「おっと」
「……っ!」
「チッ、逃がすな!」
それは馬車を乗り継いで二つか三つ、いやもっとだろうか。とにかく見慣れた町並みが見えなくなる程度には遠く離れた、とある小さな町に出掛けたときのことだった。
「へえ、逃げ足は悪くねえなぁ」
「!」
「まあまあ、そう睨むなって坊っちゃん」
大人に叶わないのは、仕方ないだろ?目の前で胡散臭い笑みを浮かべてそう言った二人組を見上げ、ぎっと唇を噛む。迂闊だった。治安の悪い町だとは言い聞かされていたのに、久々に見る外の景色に浮かれていた。こんなことになるなんて思いもしなかった、とは言えない。あれほど一人で歩かぬよう言われていたのだ。少しだけ、なんて思ってしまった数分前の自分の、危機感のなさに今さら気づく。言い付け通りちゃんと、赤いソファーのあった部屋で話が終わるのを待てばよかった。なんて、本当に今さらだけれど。
「…っ来るな!」
「ッ!痛えなこのガキ、調子に乗りやがって」
「おい、何やってんだ!ガキの一人くらい捕まえておけよ!」
「うるせぇ、あいつどこ行った」
「あっちだ」
後悔と自己嫌悪に俯いていると、観念したとでも思われたのか肩を掴んでいた手の力が緩んだ。その隙をついて掴んだ砂を投げ、小さな倉庫のような住居が建ち並ぶ路地へと逃げ込む。背後で何事か罵り合いながらも、同じ方向へ追いかけてくる足音が聞こえた。逃げる足音を聞かれたくなくて、なのに散々走り回った足では緩やかな着地なんてできやしない。冷たい空気が肺を急き立てて、ひゅうと呼吸が乱れた。どこまで行けばいいのか分からない。重くなる足が時折縺れるのを、何とかやり過ごして走った。その時。

「こっち!」

聞き覚えのない声が、どこからかそう叫んだ。耳を頼りに顔を上げれば、ばさりと翻った白が目に入る。それは少女の腰に結ばれたエプロンだった。呆気に取られて一瞬足を止めた僕を、角の向こうから聞こえてきた罵り合いが現実に引き戻す。
「こっちに来て」
迷っている暇はなかった。細いテラスから手を伸ばした彼女の指差す、裏階段のような狭い階段を駆け上がる。途中何度か躓いたが、ここで見つかったらもう逃げ場がない。錆びた手摺を必死に掴み、できるだけ静かに足を進めた。
「確かにこっちへ曲がったはずだ!探せ!」
「……っ!」
声が近づく。まずい、そう思った瞬間に片腕をぐいと引き上げられた。転がり込むように最後の二、三段を駆け上がり、そのまま腕を引かれるままに窓のような小さなドアへと飛び込む。閉めて。潜めた声でそう言われて、慌ててドアを閉めた。ギィ、と軋んだ音を立てたそれにびくりと肩が跳ねたが、幸いにも音は道まで届かなかったようだ。
「どこへ行った?見失ったか?」
「ああ悪い。温室育ちの坊っちゃんだと思ったからよぉ、油断した」
「チッ、だから捕まえろってあれほど……」
「……」
「……」
ドアを締めても充分に聞こえるほど大きな声で、二人の男はまた何やら罵声紛いのやりとりを繰り返す。その様子を、僕は小さな窓から覗いた。悪態をつきながらしばらくうろうろと歩き回っていた彼らは、やがて諦めたのか別の道を探しに行ったのか、路地の先へ曲がっていった。
戻ってくる気配がないのを確認して、僕はそっと窓枠から手を離し、隣で一緒に外を窺っていた少女のほうを振り返る。
「君、ありがとう。助けてくれたんだよね」
薄暗い部屋の中、というか屋根裏部屋の中では日差しの下ほどはっきりとものが見えない。だが、彼女と僕は同じくらいの歳に見えた。華奢なシルエットが暗闇にふんわりと滲んで、緩くカールのかかった髪が尚更、細い線を細く見せる。
「怪我はない?何か取られたものは?」
「全部大丈夫だよ、君のおかげ」
本当にありがとう。何度言っても足りないが心からの礼をもう一度口にすれば、彼女はそう、と頷いて安心したように微笑んだ。こっちへ来てと叫んだ声とは別人のような、柔らかな笑顔だった。花のような、とはこういうのを言ったのかもしれない、なんてことを無意識に思ってしまって、ふいに気恥ずかしくなる。追いかけられたところを助けられたような分際で、場違いなことを思った。曖昧な灰色の暗闇は焦点の合わせ方が難しくて、じっと見つめていると思考を見透かされてしまいそうな錯覚に陥る。けれどもそんな状況を忘れたようなことを考えて思わず目を逸らした僕に、彼女はやがて小さくもう、と口を開いた。叱咤するような声音に顔を上げる。
「駄目よ、そんな綺麗な格好をしちゃ」
「あ……」
「売ってくださいって言ってるようなものだもの。どこから来たのかは知らないけど、ここではそういうの、外したほうがいいよ」
「ご、ごめん」
ぴしりと指を差されて、ネクタイピンとブローチを外そうとした。けれども慌てたせいか気が抜けたせいか、ネクタイピンは取れたのにブローチが取れない。もたつくところを見られたくなくて半歩後ずされば、狭い室内の斜めになった壁が肩を叩いた。あ、と呟いた僕の襟へ、彼女が手を伸ばす。
「貸して」
「……ごめんね」
「どうして謝るの?」
「助けられてばかりな気がしたから」
ふうん。僕の返答があまりピンとこなかったのか、それともブローチを外すほうに気がいっていたのか。どちらなのかは分からないがあまり深追いしない返事をした彼女は、ぱちんと襟元にあったそれを外した。針を反対側に収めて、くるりと表を向ける。白い手のひらの上で、赤いそれはとても複雑に映えた。
「はい」
「ありがとう」
礼を言ってばかりだ。そう思いながら渡されたブローチを受け取り、ポケットに押し込む。彼女の言う通り、これで少しは目立たなくなっただろう。もっとも。
「……なあに?」
「……あ、何でも、ない」
「ふふ、可笑しい」
装飾品を外したくらいでは、まだこの町を歩くには不完全かもしれないが。目の前で再び柔らかな笑顔を浮かべた彼女を見て、遣る瀬ないとも居たたまれないともつかない気持ちを抱かずにはいられない。彼女はとても、可愛い女の子だった。けれどその服は継ぎ接ぎだらけで所々が煤に汚され、とても似合うだとか美しいとか、言えるようなものではなかったのだ。古びた靴とぼろぼろの服に、裾を引き摺るような長いエプロン。大人がつける大きさのそれはずるずると長くて、けれども唯一真っ白に洗われていて、彼女のくすんだワンピースを覆い隠していた。
どう見ても、あまり良い生活をしているとは思えない。この町は治安が悪いと聞くし、もしかしたらここでは当たり前なのだろうか。そう思いかけて、でもと通り道に見かけた数人の服装を思い出す。確かに皆あまり良いものは身につけていなかったかもしれないが、それでももっと厚い生地の服を着ていたし、それには煤なんかついていなかった。あの物盗り達でさえ、走れるような靴を履いていた。こんな、片方のベルトが切れた靴なんて、履いていなかった。
「……ねえ、あのさ」
「?」
「君は、この町の子?」
「そうよ」
「……ここは、君のうち?」
「うん」
こんなことを訊いても良いのだろうか。そんな躊躇いがなかったわけではないが、聞かずにはいられなかった。彼女はあまりに異様だ。いくらこの町が貧しいと言ったって、その中でも浮いている。けれどここが彼女の家だと言うのなら、彼女はこの町の中で決して小さくない家に住んでいるし、家族だっているのだろう。それなのになぜ、こんな身なりをしているのか。親を亡くして雇われてでもいるのかと思ったがそういうわけでもないようだし、ますます分からない。
僕は迷って躊躇って、けれどもやっぱり口を開いた。
「ねえ、君」
「?」
「これをあげる。助けてくれたお礼だから、受け取って」
「え……」
「さっきの人達に取られちゃ駄目だよ。これを持って、ひとつ南の駅まで行くんだ。そこならきっと買い取ってくれる人がいる、だから」
「……」
「これを売って、ちゃんと暖かい服を買いなよ。走れる靴も、髪を結べるリボンも、きっと買える」
押し付けだと思われても、何でも良かった。ただ僕は必死だったのだと思う。どうして、こんな優しい女の子がこんな服しか着られないのだろう。どうして、それなのにそんな屈託なく笑うのだろう。
僕にはなんだか何も分からなかったけれど、何もせずに眺めているよりはきっと良いと思って。喜んでほしかったわけじゃないけれど、ただ受け取ってほしかった。でも。
「駄目よ、これはあなたのだもの」
「僕には必要ないよ」
「そんなことない、似合ってた。それに、私は受け取れないもの」
「どうして」
「あなたがせっかくくれても、おかあさまに見つかったら意味がないから」
おかあさま?あまりに自然に言われたことを聞き返す僕の手を、彼女の冷たい手がそっと包み込む。ごまかすように手のひらへ返された赤いブローチが悲しくて分からなくて、胸の奥がぎゅうと締まった。
僕はよっぽど変な顔でもしていたのだろう。困ったように笑って眉を下げた彼女が、一歩こちらへ詰める。小さな部屋はやり場のない僕達の感情でいっぱいで、息が重い。それなのに僕は、彼女がどうしてそんな泣きそうな顔をしているのか、たったそれだけのことが分からなくて戸惑っている。
「おかあさまは私が綺麗なものや高いものを持っていると、とても怒るもの。このブローチはとても素敵。きっとおかあさまやお姉さま達の持っているどんな宝石より素敵なくらい」
「……だから、受け取れないの?取り上げられちゃうから?」
「そう、あなたがせっかくくれても、私がいつまで持っていられるかは分からない。それに、私だって女の子だもの」
「?」
「例え身なりが汚くても、髪を結ぶものさえなくても。そんな綺麗なものをもらったら、売っちゃうなんてできないわ」
あなたの気持ちが嬉しい、だからこそ無駄にしたくない、と。囁くように言った彼女はやっぱりただの優しい女の子で、それなのにどうしてこうも、震える手で僕にブローチを押し付けるのだろう。受け取ってくれたら良いのに。売りたくないなら売らなくたって良い。お金がないなら売ればいい。その程度のものなのにと思ったけれど言えなかったのは、彼女があまりに意思の強い目で微笑むからだ。最初に見たときもそうだった。危険を省みずに僕を呼んでくれた、あのときと同じ。
「君のお母さんは、お母さんじゃないみたいだ」
やり場のない気持ちを押し込めるのに精一杯で、自分が酷いことを言ったと気づくのに時間がかかった。けれどはっとして謝ろうと顔を上げれば、そっと首を横に振られて遮られてしまう。
「良いのよ、だってみんなそう言うもの」
「……ごめん」
「私だってそう思う。でもね」
「……」
「私のおかあさまは本当のお母さまじゃないのよ。継母っていうんですって」
「え……」
「お姉さまもね、本当のお姉さまではないみたい」
瞬間、言葉が出なかった。返事を忘れた僕の胸に、声にならない嫌な感情が渦を巻く。ぼろぼろな服を握りしめて微笑む彼女を、見つめた。すべてのことが繋がった気がして、けれどそれを知ってしまうのはあまりに衝撃的で。他人事なのに事実を受け止めきれなかった。黙り込んだ僕に、彼女はでもねと続ける。
「おかあさまは確かに冷たいけれど、私を追い出したりしないわ。食事もあまり美味しくないけれどきちんと食べられるし、どこかのお屋敷にメイドとして売ったりもしない。こうして部屋だってもらえたし、服だって着ていられる。おかあさまは冷たいけれど、私を生かしてくれるもの」
それは流れるように滑らかな言葉で、彼女はやっぱり笑っていた。大方が本心からの言葉だと、そう分かってしまったことが辛い。分からなければもっともっと無遠慮に、君はそれでいいのと訊くことができただろう。
良いわけがない。けれどどうにもならないのだ。
 

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