蒼葉の碑(♭)
僕が彼女に恋をしたのは十五の夏のことだった。きっかけは多分、これといってない。というか考えるつもりはない。クーラーも何もない夏休みの教室で国語の補修を受けるような僕の面白味のない言葉では、僕が恋だと気づくほど好きになった彼女の魅力を言い表すことなんてできはしないだろう。
「……」
蝉の声がする。じりじりと鼓膜を内側から焼くようなそれをうんざりと聞きながら、僕は昔々の誰かが作った文章を読んでいた。開け放った窓から吹き抜ける風は確かにないよりましだけれど、それでも記録的猛暑にやられてぬるま湯のような触り心地をしている。問六、この時の作者の心情を答えなさい。定番の質問だぞと職員室で袖を捲った国語の教師は言ったけれど、こんなもの分かるわけがない。綺麗なことばかり真面目に考えながら作った話だという保証なんて、どこにもないじゃないか。そう考えることが果てしなく無意味であることは知っているけれど、首を流れた汗に苛ついていたのかもしれない。問六の、問、の真ん中を塗りつぶす。蝉の声が途切れた。
その日は窓を開けてはなりませんと放送が流れるような暑い日で、僕は眩しいプールを眺めながら昔々の誰かの心情を考えることに飽きていたのだと思う。ふと斜め前の机を眺めた。それは夏休みを間近に控えた水無月の終わりくらいからの癖で、国語の得意な席の主は今日ここになんて居はしない。それくらいは分かっていたけれど、何となく眺めた。昔々の緑の絵の具が小さく染みた背もたれの椅子は、きちんと机に押し付けてある。それをぼんやりと見つめて、そうして僕はふと見つけてしまった。
その日は光化学スモッグが出るから窓を閉めなさいと放送が流れるような暑い日で、僕はきっともしかしたらもう微熱に浮かされていたのかもしれない。かたん、と自分が席を立つ音に怯えたけれど、そこから先はまるで日頃の臆病が嘘のように手が進んだ。机の中に置き去られた一冊のノートに手を伸ばす。授業のノートではないことはすぐに分かった。ピンクのチェック柄リングノート。交換日記、と書かれた表紙を暑さでぼやけた頭のまま見つめる。そうして僕はそれを、どこか夢の中のような曖昧な心地のままに開いてしまった。
「……」
中には他愛ない日常の話が、延々と続いていた。二人で書いているものなのか、一頁ごとに筆跡が変わる。柔らかな文字のほうを時々読んだ。風の吹かなくなった窓から、熱射病注意を促す市役所の放送が流れ込む。
思えば僕はこの時すでに、今の状況が決して良くないことには気づいていたのだ。けれどもあまりに静かな教室は、好奇心を消す理性を揺さぶるものが何もなかった。教師の足音がやって来ることを、心の底で望んでいた気がする。ちくりと痛んだまともな神経に目を背けられることが、怖かった。
けれどもそうしてまた一頁捲った時だった。ふいに飛び込んだ一文が、脳に電気を走らせたのは。告白しないの。そう綴ったのは彼女の文字ではない。急いで頁を遡った指が、小さな傷を作る。
約束してね、誰にも言わないで。私好きな人ができたの。小さな頃からいつも一緒だったの。これだけ言えばもう誰か分かるでしょう。
読み飛ばしていた頁の後半を、それ以上読むなと警告する脳に逆らってずるずると読み耽った。名前はどこにも出てこない。けれどひとつだけ分かるのは、僕はこの春彼女と同じクラスになった。それだけ。
「……」
閉じた日記を、もとあった場所へそっと返した。最後に見たのは告白しないのと書かれた頁のひとつ後。彼女はもう少し待っているのだそうだ。季節があと三つ巡る頃にはこの学校を出ていく僕ら。春からはきっと彼女も彼女の友人も僕も、そして彼女の傍にいたはずの誰かも、別の道へ進むだろう。変わらぬ彼と変わらぬ今を、もう少し見ていたいのだと彼女は言う。いつの日か遠く離れるその時になら、頑張れる気がするのだと。
問六、この時の作者の心情を答えなさい。適当なひとつに丸をつけて、僕は鞄を抱えた。空欄はないことを確かめて、プリントを片手に教室のドアを開ける。振り返れば窓が開いていて、広葉樹の枝が風に押されるようにベランダの先で揺れていた。それをぼんやりと見つめて、教室を後にする。
窓を締め切られた廊下は、くぐもった蝉の声しか聞こえない。僕が彼女に恋をしたのは十五の夏のことだった。