白昼夢(♯)

そう、いつだって僕らは同じ時間の上を進むように違う鍵盤の上を歩いた。

人は自分に無いものを求めるとはよく言ったもので、僕と彼女は酷似していながら、それでも1ミクロンずつ違った意思を持つ。そう、違っている。
きっと存在自体も存在理由もその言い訳すらも違う者同士、ただ僕らのそれはとてもよく似ている気がすると云うのもまた、事実なだけ。
僕と彼女は同一ではないから、僕らに互いの頭の中を覗くことは出来ないし、心のかたちを思い描くことは尚更難しい。不可能だ。
けれどもそれをしようと手を伸ばしてみたり、なんてするのが、人間の言葉で云うのなら嗚呼なんだったか。

確か、恋とか。
そんな名前。

彼女の心は彼女のもので在って、僕のものじゃあない。ただ、僕はきっとそこに棲むことを許されている。僕が僕の心があのこの世界と混ざることを厭わないみたいに。それを心地いいと思えるみたいに。たぶん。
ずれた色した世界が混ざることが幸せ、なんて、可笑しな。それを払い除けることが出来ないくらい大切に思ってしまったから、僕は禁忌を犯したのだろうけれど。僕らは、禁忌を犯したのだろうけれど。
逆さまにしたって重なり合わない少女趣味かつリアリズムを、そのばらばらな集合体の君を、君の思考の爪先までを欲しがるみたいに、焦がれている。
浮遊するみたいに、僕は。
「地上の空気はまだお気に召さないかい?」
「当たり前でしょ、排気臭くて頭が痛くなりそうよ」
隣で咳を漏らす彼女に笑い混じりで問えば、いつもと変わらない不機嫌な台詞、今日も機嫌は上々と見た。
手のかかる、理解してやりたくなる子。僕はその手を取って、今日も確認するんだ。天を追われた証が、その薬指にちゃんと輝いていることを。
嗚呼、今日も。君は此処にいるんだと。
端から見れば毎日毎日、朝一で確認するような深い事実じゃあない、かも知れない、けれど。所詮は誰かと誰かの心情なんて誰かと誰かにしか解らないんだから、世界のすべてがどう思おうと、別に。
そんな目線に、重みなんて在りやしない。
大時計の針は、そろそろ五時と六時の中間に踏み込もうとしていた、朝の。
まだ暗い目覚める前の世界を破るみたいに君は立ち上がり、無言のそれを合図に僕も眠りの余韻を振り払う。仕事だ。

手を繋いで、唄をうたった。
始まりと出逢いの唄を、彼女は歌う。鏡の破片みたいな澄んだ声が、すきだった。終わりと別れの唄を、僕は吟う。彼女の背後で朝日が昇り、僕の背後で月が沈んだ。
迎えるみたいに、彼女はピアノを弾く。太陽を迎える強かなカノン。労うみたいに、僕はピアノを弾く。月を見送る慈しむようなワルツ。
不協和音にしかならないそれも、聞き慣れた耳には至上の音楽。朝が来るのを静かに見上げて、この世界でいちばんに、僕らは朝日を浴びる。

君は嫌いだと云うけれど、僕は地上の空気が好きだ。排気と時々潮の香り、乱雑な空気は高い空の美しさで傷ついた肺に丁度いい。
規律と身分に縛られた世界で、自由なんて真っ黒なものは認められないのなら。無垢で無知で無欲な白しか求めるなと云うのなら、僕はきっと初めからそこにいてはいけなかったんだ。君も。
タブーを見過ごせない世界に、僕達は理解なんて求めない。和解も妥協もしたくないから、少しだけ、我が儘なロマンティシズムに埋もれてみた。還る予定も場所もない逃避行、この地上はそんな僕らを否定しない最後の楽園。空を翔べたって宇宙を抜けられないのなら、せめて自由な愛くらい求め合える世界で生きたい、そうじゃあないか。この世界はそれを案外簡単に許すから、僕は好きだ。
僕がそれを云うと、彼女は毎度難しく考えすぎだ、と溜め息をつくのだけれど。じゃあそう思ったことはないのか、と問えば、そういうわけでもないらしいから。僕は安心する。君の世界に否定されたら、僕は生きていく意味の大半を失うから。君が僕の世界に否定されたら、そうなるのと、同じに。
大半の残りは何なのか、なんて、別に深く考えようとは思わない。大切なものだけ解っていれば、不必要な謎めいた部分に縋らなくたって生きていけるのだから。少なくとも僕はそれで満たされてる。だから。
つまるところ僕は、僕の心に入り雑じるぶんの君を理解して、たまには束縛できれば、それで。嗚呼、今日も朝日は虚しくなるほど眩しかった。目映かった。月は愛しかった。鍵盤を滑る指は踊るよう、だ。

焦燥、衝動、矛盾。すべての答えが君に繋がることを無上の愛だと云ってしまうのは、おこがましいことなのだろうか。もっとも誰がそう思おうと、僕は一向に構わないけれど。
逆さまにしたって隠しきれない享楽主義とエゴイズム、そのばらばらな集合体の僕は、自分の世界を回す軸が自分以外になるなんてありえない。そして君以外になることもありえない。
その理解不能な矛盾を理解しようと手を伸ばす顔をして楽しんだり、なんていうものが。
恋だって云うんなら、僕らはきっとなかなか素敵な恋をしていると思われる。

「アポロン、またピアノの腕を上げたんじゃないか?」
僕は彼女の名を呼んだ。
太陽を司る勝ち気な女神には、よく似合う名だと思う。
「ありがとう、でも」
唄の間奏を弾く手を止めずに、彼女は微笑む。

「わたしは貴方のピアノのほうが好きかもね、…ディアナ」

彼女は僕の名を呼んだ。月を司る気儘な僕に相応しい名だと、君は云う。

彼女の心は彼女のもので在って、僕のものじゃあない。ただ、僕はきっとそこに棲むことを許されている。僕が僕の心があのこの世界と混ざることを厭わないみたいに。それを心地いいと思えるみたいに。たぶん。
ずれた色した世界が混ざることが幸せ、なんて、可笑しな。それを払い除けることが出来ないくらい大切に想ってしまったから、僕らは禁忌を犯したのだろうけれど。

人は自分に無いものを求めるとはよく言ったもので、僕と彼女は酷似していながら、それでも1ミクロンずつ違った意思を持つ。そう、違っている。けれどもそれを理解しようと足掻いてみたり、必要以上に欲しがって手を伸ばしてみたり、なんてするのが、人間の言葉で云うのなら嗚呼なんだったか。
確か、愛とか。
そんな名前。

「…ねえ、」
「なぁに?」
「久しぶりに、何処か出掛けようか」

唄はもうすぐ終わってしまう。鏡の破片みたいな澄んだ声が、とてもすき、だ。大時計の針が、六時を踏みつけて鐘を鳴らした。
笑い混じりに問えばいつもと変わらない不機嫌な返事、今日も機嫌は上々と見た。君も、僕も。

そう、いつだって僕らは同じ時間の上を進むように違う鍵盤の上を歩いた。
同じ唄を、謳った。
 

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