エンターW

 朝が来て、太陽が昇る。夜が来て、月が懸かる。毎日はそうして回っていて、私達はその真ん中に生活を詰め込んで生きているのだ。笑う、泣く。働く、遊ぶ。得る、失う。それは流れ動いているものなのか、長い目で見れば不変の、と言ってしまえるようなものなのか。分からないけれど私達にとってそこに日々があることなんて当たり前で、明日が来ることなんて考えるまでもなくて。そしてそれは一度くらい失いかけたところで、何ら変わらない感覚らしい。
「嘘、もうこんな時間!」
 何度目かの目覚ましで目を覚ました朝は、変わらず青い空と白い雲、黄色い光。太陽は今日も昇って、私の目蓋をこじ開けるけれどやはり少し遅い。正確には、かなり遅い。ベッドから転げ落ちるように出て洗面台の鏡と向き合った瞬間、悲鳴が漏れそうになる。今日も今日とて、寝癖だけはばっちりだ。
「あら、まだ起きてなかったの?」
「今、起きたの!」
物音に気づいたのか、リビングから顔を出した母が暢気におはようと笑う。洗顔石鹸塗れの顔でおはようと返したら、苦い泡が口に入った。思わず酷い顔をした私の後ろで、私よりさらに遅れて起きてきた父が寝惚け眼を擦っている。
「おはよう、お前、今日は休みだったか?」
「ううん、一限目から」
「そうか……、それは大変だ。お父さんに先、譲ってくれ」
「無理」
狭い洗面台の前に二人で並んで顔を洗う様は、何と言うか、自分のことながら親子なのだなと痛感する。あれこれと言い合って歯ブラシを間違えて騒いだり、そんな私達の背中にご飯できてるわよ、とかかった声の一言で二人揃って静かになったり。どんな日も、朝というのは巡る限り慌ただしいものらしい。
「いただきます」
「はい」
焼きたてのパンとミルクティーを交互に口に運んで、時々スクランブルエッグにも箸を伸ばす。花瓶の白い花は、名前なんて知らないけれど今日も良い香りだ。ニュースの合間に流れる星座占いは良くも悪くもなく、何はともあれ落ち着いて行動せよと早速の無茶を言ってくれる。思うに、この時間の占いを落ち着いた気持ちで眺めている人などそうそういないのではないか。
「お母さん、このパンひとつ持っていくね」
「お弁当?少ないんじゃない?」
「え?ええと……ああ!最近ね、早弁に凝ってて」
「ああそうなの……え?」
「とにかく、そういうことだから!着替えてくるわ、ご馳走さま!」
意味が分からないという表情で父のカップに注いでいたコーヒーを溢した母に、内心で申し訳ないと手を合わせながら階段を駆け上がる。片手に持ったパンが熱い。まったく、どうしてこんなことになっているのやら。
「起きて、朝よ」
部屋に戻るなり押入れの襖を開けて、私は上段に積み上げたふかふかの布団を占領している少年へ声をかけた。あまり叫ぶと下の階に聞こえてしまう。そうは思っているのだが、彼もなかなかどうして、私と張り合える程度には朝が弱い。
「う……」
「はい、もらってきたから。もう、貴方って思ったより人間臭いところ多いわよね」
元々癖のついた茶色の髪が、寝癖で酷いことになっている。ブラシを持った手を伸ばして適当に梳かしてやりながら、私は差し出したパンを受け取った彼を見て言った。
「燕汰」
それが、今の彼の名だ。安易と言われてしまえばそれまでだが、私とて同年代の、いやむしろ実年齢は私よりずっと上の異性の名付け親になる日が来るなんて思ってもみなかったのだから仕方ない。
「え、閉め……」
「うるさい、着替えるの」
ましてやこんな、宇宙人でさえないような得体の知れない相手と同居生活が始まるなど、思ってもみなかった。人生の中でする予定の微塵もなかった経験だ。ぴったりと襖を閉めて手早く選んだ服に着替え、鞄を肩にかける。
「開けていい?」
「どうぞ」
「ご馳走さまでした」
「はいはい」
世界の終わりを連れてきたはずの彼と、とりあえずの危機を乗り越えたようで、放ってもおけないので押入れを貸し出して一緒に暮らしています、なんて。かつての私だったら想像がつかなすぎて興味も示さなかっただろう話だが、今ではすっかり我が身の事実である。笑えない。
「今日はどこか行くの?」
「バイトの面接」
「ああ、靴屋さんの……長続き、とは言わないけれど、せめて一ヶ月は続くよう願ってるわ」
「……一ヶ月か……」
「目標ね。ほら、もう行きましょう」
項垂れる彼の肩を軽く叩いて、私は玄関から、彼は外階段から家を出る。そして自転車置き場で落ち合うのがいつもの約束だ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
リビングに向かって一声かけ、ドアを開ける。今日は本当に良い天気だ。まるで世界の終わりなんて非現実的なものを告げられた、あの日のような。
「お待たせ」
「うん」
「そこは待ってないよ、とか言えばいいのに」
「待ってないよ」
「……明日からでいいわ。後ろ、乗せて」
とはいえ、その終わりはもうここにいる。恐れたものが一番近くにあるからこその安心、なんて変な感じだが、そういうこともあるだろう。自転車の後ろに跨り、背中を借りる代わりにマフラーを貸した。初めは同居なんてどうなることかと思ったが、朝の自転車を漕いでもらえるのはなかなか悪くない。
 あの爆発のような光の現象がニュースになってから、一週間が過ぎた。当人である私達はと言えば知らぬ存ぜぬの一点張り、他人のふりでやり過ごしているが、お陰で世間ではやれあの公園にUFOが墜ちただとか異界へ繋がっているだとか、何やらすごい騒ぎになっているらしい。真相を知っているのは、他でもない私達だけだ。現実はUFOより危機一髪だった気がしなくもないのだが、何はともあれ、迫り来る終わりのなくなった世界で私達は生活している。
 あの光が鎮まってから、変わったことがいくつか。ひとつは、彼が心臓を手に入れたこと。もうひとつは、彼が知らないと言い張っていた自分の立場について明かしてくれたこと。曰く、彼は遠い昔時空の隙間で造られた隕石のような存在だったそうだ。生物の生きてゆけない世界や植物さえ育たないような世界など、そういった世界を終わらせて新しく生まれ変われる状態に戻すのが仕事だった。だが問題は、彼を造ったという時空管理局そのものが、ひとつの時空の中にあったことで起こる。ある日、彼と同じように命の育たない世界の廃止を目的として造られた仲間が、システムの故障によりその時空へ降り立った。当然管理局は消えてなくなり、彼らを操作するコンピューターも跡形もなく消え去った。そういうことらしい。彼らには、時空の行き来で命に負担をかけないよう、心臓に特殊なロックがかけられていた。それが、あのパスワードである。簡単に外れてしまうことのないよう、いざというときは管理局が教えるという約束で、本人達にも知らされていなかったらしい。しかしその管理局もなき今、彼には老いる術さえなく、操作されるルートさえなく、何もできぬままに時空を漂い、流れ着いては消滅させを繰り返していたそうだ。仲間達もそうして、何人かはその中で降り立った世界から戻ってこなくなったという。きっと彼のように、パスワードを解く相手が現れたのだろう。
「ねえ、燕汰」
「何?」
「……やっぱりいいわ」
 口にしかけた言葉を、思いとどまって飲み込む。誰にでも踏み込まれたら痛い部分というのはあるものだ。傷かもしれないと分かっているところを素手で触れるほど、私は強気ではない。
 だからこれはあくまでもしかするとの話、私の憶測に過ぎないのだが、燕汰はもしかしたら過去に異なる世界、別の時空で、私を選んだことがあるのかもしれない。彼は心臓を手にして普通の人間に戻ってから、すぐに職を探し始めた。とはいえこの一週間で三軒雇われて三回クビを経験という、何とも苦笑いしか出てこない結果なのだが、まあそれは仕方ないだろう。アイスコーヒーをスプーンで飲んでいた姿は記憶に新しい。いつまでもゆっくりすればいいなどと言えるほど寛大ではないが、まだしばらく、この世界に馴染むまでに時間がかかるのは仕方あるまい。その燕汰が初めて行って初日に餞別のごとく渡されて帰ってきたわずかな給料で、私に礼がしたいと買ってくれたのがサンドイッチだった。生のついていない、ただのハムとトマトの挟まった、深緑の紙袋のサンドイッチ。私が日頃よく食べる、あの日一緒に食べたものより三十円下げたものだ。私はこの世界で燕汰とそれを食べたことも、好きだと言った憶えもないのだが、彼はさらりと前に好きだと言っていた、と言った。私はそれに対して追及はしなかったが、思い当たる節は他にもある。例えば私の今日の服を前にも着ていなかったかと訝しげに眺めたところだとか、私の自転車を教えた憶えはないのに父の自転車とは間違えないところだとか。数え上げればそれなりの数になるそれらは、まるで前にも私と会ったことがあるかのようだ。パラレルワールド、という言葉を思い出す。燕汰の言う時空というのがどの程度の違いで成り立っているものなのか私は知らないが、そういう可能性だってゼロではないのだろう。
 もっとも、もしそうだとすれば、燕汰がここにいるということはその世界はもう存在しないということだ。だから私はまだ、深く追及はしないことにしている。いつか話してくれるときが来たら、運命的じゃないかとでも言って笑ってやろう。だって、流れに任せて辿り着いた時空の先で出会って、こうして今、何の不安もなく命を謳歌している。それはとても、とても奇跡的なことに思えるのだけれど。
「ねえ、そういえばさ」
「?」
「燕汰は、どうして私を選んだの?」
 乾いた日差しの匂いが満ちる噂の公園の横を抜けながら、ぐいと足を伸ばす。ぐらつく自転車に運転慣れしない燕汰はすぐ焦るが、転ばされたことはないので私は余裕なものだ。彼は多分、自分で思っているよりはこの世界に適応してきている。触れて、人の温もりがあることに驚かない程度には、人間らしさも出てきた。
「どうして、か……」
「うん」
「それは」
さあっと、太陽を含んだ風が吹き抜ける。燕汰は赤く光る信号に自転車を止めて、街行く人を眺めながらふと笑った。
「君が、楽しく生きているように見えたから」
信号が、音もなく青になる。止まった車の音に変わって流れていくのは靴の音。その中を少しだけ速く、私達は走り抜けていく。工事中の道路を踏んだ自転車が揺れて、油断して前髪を弄くっていた私は咄嗟に目の前のマフラーを掴んだ。燕汰の少し可哀相な声が聞こえた気がして、軽く謝ってジャケットを掴み直す。楽しそうに、か。
「……そうね」
微笑めば、遠くで汽笛が鳴った。確かにこの世界は、代わり映えがあるのかないのか分からなくて、それでも時に刺激的で、楽しいかもしれない。

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