エンターV

 一頻り納得いくまで電話帳を眺め返してみても、携帯電話を閉じたのは案外すぐのことだった。何となく静かに過ごしたくなってサイレントモードにして、鞄の底へ放り込む。
「お待たせ」
「もういいの?」
「うん、満足」
世界の終わりに話したい人なんて、本当は案外少ないのかもしれない。電話帳に登録されていた人数と実際にかけた人数の差を思って、私は小さく笑った。もちろん、もう会えなくていいなんて言いたいわけではないのだけれど。ありがとう、大好き。そんな言葉をかけたいと思える本当に大切な人は、この手で十分に数え切れた。不思議な満足感に、ああそうかあと五時間と少しだ、と時計を眺めて考える。刻一刻と七時に向かう長針を動かす秒針は忙しなくて、それでも見つめていると何かを許せてしまいそうな気持ちになってくる。受け入れきれるような事態では、ないはずなのだけれど。容量オーバーというやつなのかもしれないなと自分を可笑しく思いながら、冷えた指先を擦り合わせた。変な感覚だ。満たされたようでやっぱりそんなわけはなくて、遣る瀬無い。無力、だなんて言葉は嫌いだけれどそうなのだろうか。私にもっと何かできる力があれば、この近づく終わりを遠いところへ弾き飛ばすようなこともできたのだろうか。分からない。
「……消えるって、どんな感じかな」
「え?」
「あ……、ごめん」
ぽつりと落としてしまった呟きは無意識に近くて、私は思わず彼に謝った。こんなことを言いたいつもりはなかったのだ。これではまるで。
「……ごめん」
「……」
「ここへ来て、ごめんね」
彼を、責め立てているみたいだ。じわりと滲んだ罪悪感に、けれども首を横に振るくらいしかできない私がいる。心のどこかで、思ってしまっていた。彼は自分を、エンターと言った。如何なる世界の片隅にも、彼を置くことで終わりは訪れる。ならば、その彼がここではないどこかへ辿り着いていたならば。私達の世界が跡形もなく消えるなんてことはなかったのではないかと、どこか別の、知らない世界の話で済んだのではないかと、最低だと自覚しているが思わずにはいられない。なぜ、ここだったのだろう。でも。
「謝らないで、貴方は悪くない」
「どうして?」
「……謝ってくれるからよ」
矛盾した言葉。けれどそうとしか伝える術が見当たらなかった。彼が心苦しさの破片を見せてくれるから、私も彼を許すことができる。認めることはできなくても、ゆるやかに受け入れて、受け止めて。許容することが不可能ではないと思える。微笑んだ彼は私などよりよほど儚く見えるのだから、この世界は理不尽だ。生き残るのは貴方で、私ではないのに。今消えていくことと残されてまた巡ること、真に辛いのはどちらなのかと問われたら、私は自分の手を挙げられる自信がない。
「ねえ、貴方っていつ頃からこうやって、時空を渡っているの?」
「分からない。記憶にある中で一番古いものは、もう古すぎて見えない」
「それなのに記憶にあるの?」
「あるよ。忘れられない」
彼は独り言のように、記憶ではなく、その記憶が刻まれた瞬間の胸の痛みや濁りといったものを思い出せるのだと言った。この先は深い傷に触れてしまうような、そんな気がする。そうなの、とだけ言って、私は星空を見上げた。七時を回った空は、月を掲げていつもの通りだ。そろそろ良い頃だなと、鞄を開けて中から深緑の紙袋を取り出す。
「食べない?」
「?」
「一人で食べるのって気まずいでしょ。片方もらってよ」
中身は昼間、喫茶店を出るときに買っておいたサンドイッチだ。私の好みで生ハムとトマトの挟まった、いつも買うものより三十円高いものを選んだ。ハムの前に生がつくかどうか、そんな些細なことで値段は変わるし、味も変わる。たまにはこちらを買うのも、悪くないと思う。
「いただきます」
「……いただきます」
見慣れないものを見るようにまじまじと眺めてから口に運ぶ彼が可笑しくて、私は二つ入りを買ったことを良かったと思った。ライ麦の入ったパンに挟まれたしょっぱい生ハムと、瑞々しいトマトが美味しい。ついでに自動販売機で買ってきたコーヒーも並べれば、お金のない若者らしい簡素な外食が揃った。いつもいつもこんなふうに済ませているわけではないけれど、これはこれで楽しい。きっと彼は憶えていてくれるだろう。世界最後の夕食を、こんな寒い公園のベンチで終わりそのものたる自分と分け合った、図太い神経の女がいたことを。忘れないでほしい。少しでいいから。
「……ふふ」
「?」
「下手すぎじゃない?トマト落ちそう」
慣れないサンドイッチに苦戦する彼の手元から、今にも零れそうなトマトを抜き去る。そのまま私のパンに乗せて、一口で奪ってやった。
「隙あり、っていうのよ。こういうの」
唇についたソースを舐めて、我ながら子供っぽいと思いながらも笑っておく。何よりも怖いのは、忘れられること。いつか何かでそんな台詞を聞いた。あのときは分からなかったけれど、今なら理解できる。私は、負担になっても彼の中に記憶として残りたい。世界中が消えても、彼だけは消えないのなら、どうか。ああもし、こんな気持ちで初めの問いかけをされたなら、きっと“貴方に私を憶えていてほしい”との願いも追加したのに。今からでは、遅いのだ。私は少し彼のことを探りすぎた。憶えていてほしいけれど、同じくらい忘れてもらいたい。私のこと、この世界のこと、何もかも。どれもこれも忘れて、少しでも彼が苦しまずにいてくれたらと思ってしまう。終わりに情が移った、なんて馬鹿みたいだ。けれど移ってしまったのだから仕方ない。
「ねえ」
「?」
「わざとらしいかもしれないけど、私、貴方のこと恨まないから。悔いなくていいよ」
「え……」
「思うことは色々あるけどね。でも、それでも貴方を恨んだって結末は変わらないなら、言っておきたかったの」
時計の針が、また進んでいく。見つめても歩調を緩めることなどないそれに、なぜだか目の奥がぎゅっと痛くなった。夜風が沁みて、どうしたら良いか分からなくなる。私は口許に笑みを浮かべて、隣の彼の肩を掴み、カーキ色のジャケットに顔を埋めて抱きついた。
「……泣いてるの?」
「まさか。違うよ、少し寒いの」
「……ごめんね」
「……何のこと。それより、腕くらい回してよ。私ばっかり恥ずかしいでしょ」
願わくは、何も言わないでほしい。察するようにそっと背を撫でた手の温もりは変わらなくて、けれど抱きしめたその体から、鼓動の音は聴こえなかった。同一なようで別物。彼は残るもの、私は消えるもの。落ち着けたつもりだった心から、どんな名前も付けがたい感情が溢れていく。零したつもりの笑い声は震えて、背中を撫でる手を心なしか優しくしただけだった。
「ごめんね、私」
「?」
「パスワード、本当はちょっと探したよ。考えたし貴方との話にも混ぜてみたけど、どれも違ったみたい」
「うん」
「見つけて、あげたかった。世界護って、貴方も救って。でもできなかったみたい」
交わした言葉に、嘘はない。けれど私はそっと、嘘をつかないようにしながら一日、パスワードになりえそうな言葉を彼に向けてみてもいた。けれどそのどれも、見当違いだったようだ。もっとも私に思いつくものなら、とっくに誰かが言ったのかもしれないが。
「……時間切れだわ」
 最も言われるはずのない言葉。見つけてみせたかったけれど、もう家に帰らなくては。諦めなければ時間はまだある。けれど、見つかる保証はない。ならば私は世界の終わりの日まで家族に心配なんてかけず、早めに帰って一緒にテレビでも見ようと思う。何事もなかったような顔だって、今ならできるだろう。強く握っていたジャケットを手放したら、背中の温度も遠ざかった。ふわりと離れていく温もりが少しだけ、名残惜しい。行く先を知っている者同士、もう少し一緒にいたかったけれど。
「さよなら、私、もう帰るから」
あのジャケットに吸い込まれて止まった涙は、染みを残すだろうか。何も残さないだろうか。分からないが、私達はここで別れるべきのようだ。思えば、何とも不思議な午後だった。一生に一度くらい憧れたような経験だったと、言ってあげても良いかもしれない。
「……あ、エンター」
「?」
歩き出した私を、彼は引き止めない。数歩離れてからふと大切なことを言い忘れてきたのに気づいて、ただ黙って見送る彼へ振り返った。感情の読めない、無機質な目。でも今の私には、もう彼に感情などないのではなんて、とても言えない。だって。
「私のこと、世界の終わりの話の相手に選んでくれて、嬉しかった」
「……え?」
「ありがとう」
彼はもう私にとって、世界の終わりに話したい人の一人だ。どうして、なんて訊かれても困るけれど、私は選ばれたことに感謝している。お陰でこうして、心置きなく残された時間を満喫できるのだから。
「……エンター?」
微笑んで言った私と対称的に、彼は突然出会った直後のごとく表情をなくして固まってしまった。返事がないことをおかしく思って差し伸べた手を、伸びてきた手が強く掴む。
「もう一回、言って」
どうしたの、と驚きに声を上げるより早く、彼はそう言った。何かに急き立てられるような眼差しにこんな人間のような顔もできたのかと息を呑んだが、ひとまず頷いて望まれるままに口を開く。
「私のこと、選んでくれて」
「その後」
「……ありがとう?」
 声にした瞬間、何かが大きく揺れたような衝撃を感じた。どくん、と、繋いだ指先を伝うこれは鼓動だ。私のものではない。あんなに傍で抱き合ったときには感じられなかったはずの鼓動が、今はこんなに離れている私にまで伝わるほど強く発せられている。これは、紛れもなく。
「エンター……?」
口にしたと同時に、その強すぎる命の感触が収まっていき、代わりに彼の左胸に青白い光が溢れた。硬質な板のようなそれはよく見ると何かが砕け散った残骸のようであり、けれども彼に苦しむ様子は見受けられない。私と同じく、自分の左胸を見つめて呆然としているだけだ。その唇から、彼のものではない音声が勝手に流れ出した。
「≪時空回遊管理システム“Enter”、世界番号06297にてヒトの意思による解除命令を確認。規律番号29を適用、生命を解放します≫」
それはまるでラジオのようなノイズ雑じりの音声で、けれども確かにそう耳に届いた。どういうこと、と問うよりも先に、ぱっと強い光に囲まれて目が眩む。掴み合った手が衝撃で離れて、何も見えない。私は空いた手を伸ばして彼の存在を確かめようとしたけれど、視力が役立たない状況下では必死になればなるほど白を掴むばかりで、ただひたすらに光が鎮まるのを待つしかなかった。

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