エンターU

「なんで貴方は、それを知っているの?」
それでも私の口をついて出たのは、意外に冷静な言葉だった。この世界が跡形もなく失われることを知っているなんて、彼は科学者か何かだろうか。だったら、多少変わり者なのも仕方ないのかもしれない。素晴らしい人というのは、大抵ネジが跳んでいるものだ。見たところ私とあまり年齢も変わらないようだし、この歳で世界の行く末を知れるような科学者だというなら、さぞかし研究にすべてを費やしているのだろう。だから、アイスコーヒーをスプーンで掬って飲みだすような人なのも、仕方ないのかもしれない。顔を上げた彼にさりげなくスプーンは上のクリームのためだけについているのだと教えたかったけれど、私にその上手い伝え方は分からなくて、結局彼のほうが先に口を開いた。
「……終わらせるのは、僕だから」
「……え?」
「そういう役目なんだ。昔の昔から、ずっと」
沈黙にカランと、相変わらずアイスコーヒーを掬うスプーンの音が落ちる。頭の中が混乱しそうになって、私はとりあえず、反論してみることにした。
「あの……、私、貴方がどういう人なのか知らないけど」
「?」
「あまり危ない実験は駄目じゃない?貴方ね、一体何億の人が犠牲になると思ってるの。世界がどうにかなるような実験なんて、やめておきなさいよ」
昔から、というには念願の実験なのかもしれないが。だからと言って、一個人の暴走で世界をおかしくされては堪らない。ここは一応、どういう縁か知らないが少なくとも縁あってこうして同じテーブルにいる以上、止めなければ。そう意気込んで一息に言い切ったのだが、当の彼はと言えば、そんな私を不思議なものでも見るような目で見て言った。
「実験じゃない。役目だよ」
「何が違うの?あ、誰かにやりなさいって言われているとか?」
「生まれたときから、ずっとそうなんだ。時空を渡って、辿り着いた世界でたった一人の願いを聞き届けて、お別れ」
「……待ってよ、意味が分からないんだけど。貴方、科学者か何かじゃないの?」
「科学者?違う、僕は……」
溶け出した氷が、音を立てて崩れた。いらっしゃいませ。新たな客を迎え入れるウェイトレス達の声が、どこか薄い膜の向こうのことのようにぼやけて聞こえる。ゆっくりと合わさった感情のこもらない、それでいて物悲しげな眼差しだけが、妙に目蓋に焼きついた。
「僕は、“エンター”。如何なる世界の片隅にも、僕を置くことで物語は完結する―――生まれる前に、何かにそう決められた」
頭の中にコンピューターのキーボードが浮かぶ。連ねた言葉の区切りに、ぽんと打つあのキー。決定、そして時として終わり。
「……馬鹿なこと、言わないでよ」
「……」
「物語なんかじゃない。私達、それぞれに生きてるのよ」
ぽつりと漏らしたやり場のない、二度目の呟きと悔しさの滲む言葉。時計の針は午後三時を指していて、新たに二人連れが入店してくる。私が吐いた精一杯の拒絶の言葉にも、彼はただ、寂しく微笑むだけだった。

 夕暮れ時の町並みは、どんなにビルが聳えていても赤く染まるものだ。五時を過ぎた交差点を渡って歩きながら、私は隣を歩く彼に声をかけた。
「そこの公園でいい?」
「いいよ」
「そう」
私達の会話は相変わらず長くない。言葉を交わす数は少なくないけれど、続かないのは彼のあまりに単調な態度のせいか、それとも私の意識がそこまで上向きになれないせいか。どちらでもあるとは思うのだけれど、私は先ほどより、そう、あの喫茶店にいたときよりは大分落ち着いていた。
「こっちよ」
橙色に染まる電信柱を見上げて立ち止まった彼を呼んで、近くの公園に入る。あの後、私達はそれなりに色々なことを話した。主に訊いたのは、彼のことだけれど。
 エンター。それが彼に与えられた名だそうだ。名といっても、呼び名でしかなく、何かの意味を込めて名づけられたようなものではなさそうだが。彼の言う役目というのは、時空を流れに沿って渡り歩き、辿り着いた世界に終わりをもたらすことらしい。許されているのは、その世界の中で一人だけに、世界の終わりを教えること。それによってその日を好きに過ごすのを、手伝うこと。何とも勝手な話だと思うが、彼は自分の存在について、何のためにだとかどうしてだとか、そういったものは知らないようだった。ただ分かることは、これまでにもそうして消えてきた世界があること。私達の世界も、たまたまそうなる運命に選ばれた。それだけだということ。逃れる方法は、彼にパスワードを与えることらしいが、そのパスワードが何なのかは彼自身も知らないそうだ。彼は感情などないのではないかと思ってしまうほどの無機質な雰囲気を纏うが、望んで世界を終わらせ歩いているわけではないことは何となく理解できた。そのパスワードとやらを、彼も欲しているからだ。それが手に入れば、彼はこの役目から解放されるらしい。それが彼にとっての何を意味するのかは分からないが、きっと訊ねても彼自身知らないのだろう。ただ、解放を望んではいる。けれどそのパスワードというのは“彼にとって最も与えられるはずのない言葉”であるらしく、これまでにも多くの人がそれを見つけ出そうと努力して、そして見つけきれずに終わりに呑まれていったのだとか。私はそうはなりたくないし、それは逆に彼を苛ませているようにも見える。だから遠慮なく、望み通りの世界最後の日を送ることにした。やり遂げられないことには、勝算もなく手を出さない。無気力だとか情熱がないだとか叱られるかもしれないが、私にとって今一番したいことは、とても簡単なことだ。
「それじゃあ、そこで少し待ってて」
 人のいない公園の空いたベンチに彼を座らせ、私は隣に腰を下ろして携帯電話を取り出した。日の落ちた空間に画面がぱっと明かりを放って、電話帳を見せる。その中からとりあえず、母親を選んだ。
「……」
「もしもし?」
「あ、お母さん?」
しばらくのコールの後に、聞きなれた声が耳に届く。どうしたの、と言った声の向こう側は静かだ。家にいるのだろうか。
「今どこ?」
「帰り道。ええと……、友達と会って。少し遅くなるけど、心配いらないから」
「あらそう。夕飯は?」
「食べて帰るよ。あ、ねえ」
「何?」
夕食の席へ行きたい気持ちはあったけれど、行ってしまったら世界が終わることを言わずにいられない気がした。けれど言いたくない。余計なあれやこれやといった難しいことは考えさせたくないのだ。いつも通りがきっと一番いい。それは私の勝手な考えかもしれないけれど、数時間後に世界がなくなります、なんて誰が言えるだろう。代わりに、冷えてきた空気を吸って通話口に向かって言った。
「いつもありがとう。大好き」
言ってすぐ、それじゃあ後でねと電話を切る。驚いて笑っているような声が聞こえた。私にとってはそれで十分だ。零時を跨いだら、誰の意識もここには残らない。ならばあれをしておけば良かった、こう言えば良かったなんて後悔も残らないだろう。お互いに。だから返事は聞かなくて構わない。だってきっと、私と同じことを言うと分かっている。
「もしもし?」
「あ、お父さん?」
次いで電話をかけた先は父親だ。この時間だとちょうど仕事帰りだったろうか、電車の通る音が聞こえる。
「仕事終わったの?お疲れ様」
「おお、今な。どうした?」
「うん、ちょっとね。いつもありがとう、大好き」
「は?」
呆気に取られたような声に満足して、私は笑いながら電話を切った。きっと帰ったらしどろもどろになりながら、お母さんに相談するに違いない。続いての相手は誰にしようか、そう考えてしばらく電話帳をいじり、やがて一人の友人に繋げる。
「もしもし、どうしたの?」
「あ、もしもし……、あれ、亜季ちゃん?」
「うん?」
「あ、えっと……、間違えちゃった。ごめん」
「ええ?何やってんの」
笑いながら、彼女は答える。本当はさすがにこの状態でかけ間違いなど起こせるほどの性格ではないのだけれど、同い年の友達に突然かけてお疲れ、というのも何だか違う気がして、咄嗟にそんな演技でごまかした。言いたいことだけ言えれば、過程はこの際何でもいい。
「しっかりしなさいよね。大丈夫?」
「ふふ、心配性ね。そんなところも大好き」
「へ?」
「ありがとう、またね」
きっと彼女には、もう会えないのだろう。家族のところへは、家に帰れば行ける。けれど友人とお茶でもしようなんて言って会うには、もう怪しまれるような時間だ。私は彼女にも、余計な緊張を負わせたくない。私はこうして今彼女達に連絡するまでに、長い時間があった。それは世界の終わりという事実の前には短いものだったけれど、それでも確かにあったのだ。戸惑って、恐れて、悔しがって、そうしてなすべきことに手をつけている。彼女達に、今さら、こんな差し迫った時間になってから重大な事実なんて明かさなくていい。
「あ、もしもし」
私はまた携帯電話を片手に、思い当たる人達に電話をかける作業に戻った。横目に見れば彼は退屈そうにする様子もなく、そんな私の声を聞き流しながら、空に浮かびだした星を見ている。その横顔は私と同じこの世界の人間に見えるのに、きっともっと別物なのだ。この世界が消えて、なくなっても、彼はまたどこかへ続いていく。消えていった世界のことを、彼だけが憶えたままで、また次の場所へ。それは、どんな気持ちなのだろう。

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