エンター
朝が来て、太陽が昇る。夜が来て、月が懸かる。毎日はそうして回っていて、私達はその真ん中に生活を詰め込んで生きているのだ。笑う、泣く。働く、遊ぶ。得る、失う。それは流れ動いているものなのか、長い目で見れば不変の、と言ってしまえるようなものなのか。分からないけれど私達にとってそこに日々があることなんて当たり前で、明日が来ることなんて考えるまでもなくて、だからこそ幼い頃に皆でよく交わした懐かしい問いかけ。
「明日、世界が終わるとしたら何をしたい?」
パッパー、と自動車のクラクションが遠くで鳴り響く。昼下がりの交差点で横断歩道の白いところに立って、私は目の前でそう言った少年の顔をまじまじと見つめた。行き違う人々は誰も私達に気など留めず、ただ避けるようにして向かい側へ渡っていく。その途中で出会い頭に会話している人達などそうそういるわけもなく、私と彼もそうして、ただ通り過ぎていく他人であるはずなのだけれど。あったはず、なのだけれど。
「ねえ、」
無表情に、淡々と答えを急かした彼の声は、再び鳴ったクラクションに掻き消された。びく、と肩を揺らしてようやく気づく。遠くで鳴ったと思ったクラクションは、こちらに曲がろうとする車が鳴らした、案外近くのものだったらしい。明らかに私達に向けられている。
「ねえ、明日、世界が終わるとしたら」
「……話は、こっちでしない?」
「いいよ」
車のほうを見ようともせずもう一度問いかけを繰り返した彼の腕を軽く引いて、躊躇いながらも元々渡ろうとしていた方向へ誘ってみた。断るという選択肢さえ持ち得ていないかのように返事をして、彼は元来た方向だというのに、すたすたとついてくる。まるで、初めから私と話すことが最優先事項だとでも言うような迷いのなさだ。歩き出した背後を車が通っていく気配を感じながら、ちらりと彼を見やる。
「……」
私とさほど変わらない身長、どこか無機質な印象を与える顔立ち。癖のついた茶色の髪は柔らかそうなはずなのに、優しげな印象というものは不思議とあまり感じられない。まあ、もっとも。
「何?」
「……それは、私が訊きたいことよ?」
ただ一瞬、目が合っただけの私にこんな唐突な問いかけをしてくるような人だ。そんな相手に抱く印象と言えば、普通はやれ優しそうだの怖そうだのというより、何より先に、不思議な人。その一言しか浮かべようがないというものだろうが。横断歩道を渡りきった先の自動販売機の前に並んで、目の前に立った彼を改めて眺めてみる。私の至極平凡なはずの返事にも、彼は首を傾げた。そして少し考え込むような素振りを見せた後に、ぽつぽつと切り出す。
「僕は、君の願いを叶えようと思うんだ」
「私の願い?」
「そう。明日、世界が終わるとしたら何をしたい?」
また、そこに戻るのか。一体これは何のための問いかけなのだろうと疑問に思いながらも、私はひとまずそうね、と小学生くらいの頃に友人達と交わした会話を思い出しながら、考えてみた。答えは案外、迷うともなく出てくる。
「家族や友達、そういう大事な人達に挨拶かな。ありきたりだけど」
奇抜な答えを望んでいたのなら、申し訳ない。そう思いつつも一応、真面目に考えた結果を答えてみた。私にとってはいつの頃も、結局これが第一だ。例えば好きなものを好きなだけ買いたいとか、食べたいとか、やりたいとか。欲は決して少なくないから、望みたいものはいくらでも思いつく。けれど、そのどれもこれも捨てても、世界の終わりが分かるなら大切な人達に感謝の言葉を伝えておきたいと思う。きっと、そういう人は少なくないはずだ。
「こういう答えでいいの?」
「うん」
「ふうん。なら良かった。それにしても、貴方、もしかして通りすがりにこんなことを訊いて歩いてるの?だとしたらちょっと面白いわね」
我ながら面白味や斬新さは何もない答えだなと思ったのだが、彼はそれについて不満はないようだ。どんな心境で訊かれたのか分からないが、質問の答えとして満足してもらえたならそれでいい。それじゃあと別れて目的のデパートへ向かおうかとも思ったのだが、この人は道行く人にこんなことを訊ねまくっているのだろうかと考えたら何だか可笑しくなって、ついそう訊いてしまった。しかし、彼は何を言っているのか理解できないとでも言いたげな顔をして、首を横に振る。
「たくさんの人に訊くのは、ルール違反になるよ。僕が願いを訊いていいのは、一人だけだ」
「一人……ルール違反?何かのゲームなの?」
「ゲーム?違う、僕は君の願いを聞き届けることにしたんだ。真剣だよ」
「願いって、皆に挨拶っていうあれを?あれは、世界が終わるならなんて貴方が言うから、試しにそう考えてみただけよ。何も今日、いきなり挨拶なんかしなくったって、本当に明日世界が終わるわけじゃなし」
本当に、不思議というか変わった人だ。おまけにちょっとしつこい。真剣に遊ぶのは構わないが、見ず知らずの他人を巻き込むのはどうかと思うのだけれど。答えるだけは答えたのだし、もうあまり深入りしないほうがいいのかもしれない。そう思ってこれ以上関わるのはやめておこうと、それじゃあ、と手を上げたときだった。
「終わるよ?」
可笑しなことを言っているのは、私のほうだとでもいうように。彼はさらりと、相変わらずの淡々とした口調でそう言った。
「え?」
「世界は、明日でおしまいだよ。正しくは今日で、だけど。日付が変わったらもう、その先に明日はない」
「……どういう意味?」
間の抜けた声が漏れて、は、と呼吸が乱れた。なんて顔してるの、と今にも彼が笑い出すのを待ったが、一向にその気配はない。それどころか、彼は離れかけた私に一歩近づいて、こう口にした。
「明日、世界が終わるとしたら何をしたい?僕は、君の願いを叶えようと思うんだ」
頭の中がぼうとぼやけて、痺れていく。彼は何を言っているのだろう、と何度も何度も思ってみたけれど、初めから彼はそんなに多くを口にしてはいないのだ。
「……馬鹿なこと、言わないでよ」
世界が終わるなら、何をしたい。すべてはその一言に詰まっている気がして、私は思わず自動販売機に手をついた。コインを入れずに押したボタンから、それでもピッと音だけは出る。世界が、終わるとしたら。ざあざあと目の前の景色が、砂嵐のように揺れた。
ぱちん、と伝票を伏せる音がガラステーブルに響く。ごゆっくりどうぞ。そう言って軽く一礼を残し、お団子頭のウェイトレスが去って行くのを確認してから、私はミルクティーに手を伸ばした。ガムシロップを開けて、ゆっくりと中に垂らす。ふと顔を上げれば、その様子をぼんやりと見つめる視線が刺さった。
「飲まないの?」
「……あ」
「……奢るわよ?私が連れてきたんだし。もしかして今さらコーヒーが嫌いだとか、言う?」
目の前の彼はグラスに注がれたアイスコーヒーに視線を落として、しばし私と見比べてからストローを挿した。駅前の広々とした大衆向けの喫茶店には流行のポップスが流れていることが多いのだが、今日は少し落ち着いたクラシックを流している。私としてはイヤホンで聴くならともかく、店内で聴くのはこういったもののほうが好みだ。少し機嫌が良くなってミルクティーを一口飲んだ。けれど、それは上辺だけの気分の上昇に過ぎない。
「どう?」
「美味しい」
「そう、良かった」
短い会話を交わして、何とも言えない心地で彼から目を背ける。あの道端での非日常的なやり取りの後、あまりに現実味のない言葉に気分の悪くなった私は、その場にしゃがみこんでしまった。日頃は何とも感じないような排気の臭いが肺に入り込んで、噎せこむ私を彼はただ、同じ目線に屈んで見ていた。大丈夫、の一言も何もない。この人には感情というものがあまり鮮明に感じられないのだが、一体どういうつもりで私に関わってきたのだろう。
「ねえ、貴方さっき、世界が終わるって言ったけど」
「うん」
「あれは、どこまで事実なの?」
性質の悪い冗談に捉まった。そう笑って流すには彼の態度はあまりに淡々としていて、それが逆に薄っすらと恐怖心を揺する。嘘ならさっさと嘘だと言ってほしかったし、それ以外だというなら、無視できない話だ。世界が終わる。それは何かの比喩なのか、それとも本当にただそれだけの意味、そのままなのか。アイスコーヒーを飲み込んで、彼はこちらへ視線を戻した。
「どこまで、って……」
「うん」
「言った通り、この世界はもうおしまいなんだ。今日が終わって零時になったら、消えてなくなる」
初めから、何もなかったみたいになるんだよ。なくなる、ってそういうことだ。彼はそう答えて、窓の外を眺めた。行き交う人々の波が、信号の切り替わるたびに止まっては流れ、止め処ない。ぱたぱたと瞬く青信号を見て、そうして彼の手元のグラスについた水滴を三つ数えた。店内に流れていたクラシックは、いつのまにか聞き覚えのない曲に変わっている。
「本当に?」
「うん」
「なくなって、どうなるの?」
「どうにもならない」
彼の答えは心のどこかで予測がついていて、けれども全く実感の湧かないものばかりだった。消えてなくなる、というのは握り潰すこととは違う。消滅なのだ。それは確かに、その先に何も残さないという響きがあるけれど。
「こんなに、いつも通りなのに?」
「うん」
「人だってこんなにいるのよ?」
「うん」
「決して、小さい世界でもないのに」
空は、海は。大地は、動物は、宇宙は。子供のように思いつく限りの大きなものを挙げてみる私に、彼は呆れもせず、慰めることもなく、ただ頷くだけだ。それがすべての肯定のようで、私はどうしたら良いのか分からない。悲しみと呼ぶには漠然とした感情が、冷たい水のように胸と背中の間を流れていく。怖いのか、寂しいのか。違う、ただ単に、理解ができない。けれどどうしようもなく、叫びだしたい。