夜明けの待ち合わせ

 三日三晩、同じ夢を見ている。合歓の木の下で誰ともつかない人に迎えられる夢だ。私はどうしてもその人の顔がぼやけて見えないのだけれど、夢の中ではそんなこと忘れたかのように微笑むことができる。そして手を繋いで、銀河のような深海のような、温かい場所へ潜ってゆく。
 キイ、と窓辺の地球儀を揺らした夜風に、私は閉じかけていた瞼を開いた。肌寒い長月の風をぼうとした意識のままに吸い込んで、顔を上げる。いつの間に転寝をしていたのだろう。手にしていたはずのペンが机の端まで転がっているのを見て、ゆっくりと瞬きをした。日記に連ねていた文字が、何とも中途半端なところで切れている。最後のほうは書いたことすらよく覚えていない。
「――――――……」
また、同じ夢を見ていた。時計は午前四時を回っている。冴えない頭で何時間眠っていたのだろうと考えてみたが、よく分からない。日付が変わる前に日記を書くのは私の習慣だったので、零時前からであることは確かなのだろうけれど、それ以上のことはよく思い出せなかった。それよりも私には、繰り返し見る夢の記憶のほうがずっと鮮明だったのだ。
 夢は今日も、何の変わりもなく唐突に始まった。柔らかな草を踏みしめて歩く、合歓の木への道。ころころと鳴く虫の声が、川の流れ去る音に紛れて過ぎた。私はそこをただ、とても静かな心地で歩いているのだ。そして、その人は今日も私を迎えた。微笑んで、手を差し伸べてくれる。その顔が誰のものなのか、どんなものなのかさえ読み取れない私に、その温かな手を差し伸べてくれるのだ。そして私は迷いなく、指を絡めてどこともしれないどこかへ潜ってゆく。
 時計を見れば回り続ける秒針が、ちょうど長針と重なったところだった。ほんの一秒姿を消してまた歩き出すそれをぼんやりと見つめて、夜風にはためくカーテンを開ける。外は仄暗く、それでいて何も見えない月の刻とは違う。目に映るものがすべて藍色を被り、まぼろしのように輪郭をぼかされていた。
「……」
書きかけた日記を何の感傷もない言葉で締め、窓に鍵をかける。夜に浮かされた足取りで部屋を横切って、入り口近くの壁にかけた上着を取り、そのままドアを開けた。夏の名残を纏ったような白地のワンピースにそれを羽織り、音を立てずに階段を下る。外へ繋がるドアを開ければ、明ける手前の空は刻一刻と変化して、道はどこか白んだ藍色を映し、鏡のように伸びていた。翻るスカートも絡まる髪もそのままに、導かれるように新月の夜明けを歩いた。
 さくりさくりと、足元が次第に柔らかさを帯びてゆく。アスファルトを外れて川辺へ出てゆけば、そこは水気を含んだ空気に満たされてしっとりと重い。どこかでほう、と聴き慣れない鳥が鳴き、木々のざわめきが大きく聞こえた。遠くへ目を凝らせば、暗い坂道はどことなく寂しげに霞んで続いていく。先の見えないそれから視線を逸らして、私はまた思いのままに足を進めた。
「……」
ころころと、虫の鳴く声がする。見知らぬ世界の片隅のようだと、歩いてきた道を振り返って思った。サンダルを引っかけただけの爪先は夜露に濡らされ、次第に踝を覆う高さへと変わってきた草の感触をとても鮮明に感じる。不意に川の流れる音がどよめいたような気がして、私は顔を上げた。そして、そこに見た光景に息を呑むこととなる。
「――――――……」
そこには、彼がいた。いつの間にこんな近くまで来ていたのだろうと驚くほど、目と鼻の先にある小高い丘の上。遅咲きの合歓が季節外れの雪のように藍色の空を染め上げ、花を閉じることも忘れて咲き誇っている。その、根元に。
「……」
「……」
「あ……」
夢の中で逢瀬を重ねたその人が、佇んでいた。まるで私が来たことを知っていたように顔を上げた彼を、思わず引き込まれるように見つめる。声を漏らしたのは、無意識のことだった。琥珀色の眸。視力は決して良いほうでもないのに、薄暗闇の中でそれだけははっきりと確認できた。月明かりのようだ。立ち尽くしたままそんなことを考えた私をしばし眺めて、彼はやがて唐突に笑みを零した。
「初めまして」
「……!」
「……」
「あ……、初めまして」
そっとかけられた挨拶の言葉に私はすぐに返事ができず、妙な間を空けてしまった。しかし同時に私達の間が、こんな時刻に顔を合わせた見ず知らずの男女というには少し近く、けれども話をするには遠すぎると気づく。少し躊躇った後、数歩近づいてみれば、彼は何も言わずに手招きをした。日頃であれば考えられない行動だったと思うが、私はなぜかそれを拒む気にもなれず、合歓の木の下へ歩み寄った。朝はまだ先だというのに薄紅色の花を咲かせたそれは、まるで異国の木か何かのようで少しだけ怖くなる。知らない世界に足を入れてしまったような心地になって、頭一つ高いところにある彼の目を見つめた。藍色の空と合歓の花に掻き消えてしまいそうな、白いシャツとグレーのパンツを着て、腕にジャケットをかけただけの姿。胸に入れたポケット越しに透ける懐中時計の鎖だけが、彼に人間らしい存在感を与えている。柔らかに見つめてくる眼差しをどう受け止めたら良いのか分からなくて、私はワンピースを握って、言葉を探した。
「私と、どこかで会ったこと、ない?」
口をついて出たそれは、場違いと言われてしまえばそれまでの言葉だったと思う。けれど今の私達には、何より通じ合える鍵のような言葉だったのかもしれない。柔らかに、けれど底を探るように向けられていた視線がふっと和らぎ、驚いたような、それでいて安堵したような、何ともいえない色を宿して瞬きをする。
「……生まれてこのかた、夢を見なかった夜はない」
「え……?」
「合歓の咲き乱れる夜明け。長月の頃だ。僕は川辺の小高い丘、その合歓の木の根元で誰かを待っていて」
「……うん」
「懐中時計が、虫の声に消されながら鳴っている。遠くの道が白んで見えてそろそろ夜が明けるかと思ったとき、ふと見ると真っ直ぐ、こちらへ歩いてくる人がいてね」
彼は淡々とした口調で、けれどもどこか楽しむような素振りさえ滲ませて語った。さあさあと流れる川の音を、私は聞くともなしに耳に入れて、あの夢を回想する。
「彼女はいつも迷うことなく、僕へ手を伸ばしてくるんだ。けれども僕は何度見ても彼女の顔が分からないし、声も聞くことはできなくて」
「……」
「覚えているのは、真夏みたいな白いワンピースを着ていて、少し寒そうなんだ。それだけなんだよ」
ざ、と風が吹き抜けて薄手の上着が巻き上がるより一秒早く、彼はその腕にかけていたジャケットを私に羽織らせた。驚いて顔を上げた私に苦笑して、手振りでそれを着ておくようにと示す。遠慮がちに袖を通したら、思いの外暖かくてなぜか無性に切なくなった。胸の奥が痞えて、ありがとうの一言さえ上手く出せない。
「僕は生まれてからずっと、その夢を当たり前のように繰り返し見てきた」
「……」
「変化はいつもなかった。でも、三日前のことだったかな」
「?」
「彼女がね、戸惑ったような気がしたんだ。いつもは迷わず手を繋いで笑い合った彼女が、初めて僕に対してほんの一瞬、躊躇ったんだよ」
「それって……」
「……分かってる。君が夢を見始めた日、だろう?」
頭の奥でどくどくと、何かが鳴っている。湧き上がるのはこの期に及んで恐怖でも驚愕でもなく、ただ途方に暮れるような正体不明の衝動ばかりだ。言葉を交わしたい、もっと声が聴きたい、触れてみたい。名前も知らない彼を相手に何を考えているのかと自分を諌めてみても、何も変わらなかった。耐え切れずに伸ばした手を、同じように伸ばされた手が絡め取る。どうして。呟いた言葉は彼が私の夢について知っていたことへのものでもあったし、重ねた手を拒絶されなかったことへでもあった。彼は後者については触れず、風に巻かれた髪を押さえようと離れかけた私の手を、今一度きつく掴んだ。
「これは、とても不確かなことだけれど」
「……?」
「僕達は、何かの意図を持って繋がっている。僕は今日、現にこうして夢に見た場所で君に出逢った」
「……ねえ、貴方は私の知らないことまで知っているの?」
「きっと少し。……でも、詳しいことは分からない。僕にとってこの夢は当たり前に見てきたもので、それがこうして現実味を持つなんて考えたこともなかったから」
伏せられた目に前髪がかかっている。無意識に避けようとして伸ばしたもう一方の手は、またも彼の手に捉まった。輪のように両の手を繋いでいると、何かが身体の奥から込み上げてくる。涙に似たその感覚は、けれども悲しみではなかった。強いて言うなら、止めどない懐かしさ。
「そっか……、そうよね」
「うん。ねえ」
「……ん?」
「夢の続きを知るのは、怖い?」
頭の奥では相変わらず、何かが鳴っている。それは呼びかけのように私を揺すり、足元を覚束なくさせた。答えを見透かすような琥珀色の眸。対称的なまでに振り払えば離れることもできそうな手で鎖のように私を繋いで、彼は訊いた。その言葉に、私は夢の終わりを思い出す。そして一度目を瞑り、ゆっくりと首を横に振った。
「怖くないわ。例え何を知ったとしても、貴方も一緒なんでしょう」
微笑んでそう言えば、返答に満足したように彼もまた笑みを返し、今度こそ解けないようにきつく指を絡める。瞼を綴じたら身体の奥に込み上げてきていた何かが、一斉に溢れて私を飲み込んだ。不意に孤独になった気がしてそっと足を出せば、懐中時計の音が鼓膜に落ちる。そのまま存在を確かめるように寄り添ってみても、彼は教えた覚えのない私の名前を呟いた以外、何も言わなかった。
 瞼の奥に遠い世界の、私の知らないはずの景色が流れ込む。同時に差し込む眩しい光はきっと朝日だ。どちらからともなく合歓の木の幹に凭れて温もりを分け合いながら、私達はただ銀河のような、深海のような記憶の奔流を深く、深く潜っていた。次に目を開けるとき、私達はどんな顔で互いを見ているのだろうか。ずっと、貴方に逢いたかった。そんな言葉が零れかけて引き結んだ唇に、頬を滑った温い雫が朝露のように染みて、風が鳴いた。

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