翠の雫・後日談(♯)
からからと、篭の中でいくつかの小瓶が転がる。涼しげな音を立てて揺れたそれは、狐色に焼けたパンに当たって弾み、またからりと小瓶同士で戯れた。
「……」
赤や黄色、橙や紫の小瓶が日差しを浴びて、瞼の奥まで眩しさを残す。今日は良い天気だ。晴れた日の昼近くというのは、どんな季節でも太陽を大きく見せる。見上げた視界に入る空と、それを縁取るように揺れる木々の枝を見て、そこを飛んで行く鳥の影を跨ぐように、私はまた歩き出した。青桜の花が、今年も咲いている。
「お姉ちゃん」
「え?あ、エル。どうしたの?」
緑の匂いが濃くなる辺りまで森を進んだころ、私はふいに声をかけられて、一本道を少し外れたほうへ目を向けた。手を振ってこちらへ来た少女は、三件先の家に住む顔見知りだ。ぱたぱたと小走りに寄ってきたその手に、黄色い輪が握られている。
「この辺りに見たことのないお花が咲いたから、遊びに来たの。見て」
「わあ、本当だ……何の花だろう。綺麗ね」
「でしょう?」
自慢げに差し出されたそれは、花冠だった。黄色い、見たことのない花で編まれた花冠。見せてあげると手渡されたそれを受け取って、彼女の出てきたほうへも目をやってみる。小さく開けた、まるで兎か何かのためのような草むら。ちょうど少女が一人座り込んだら、良い具合かもしれない。それくらいの広さの場所に、ぽつぽつと黄色い花が咲いている。
「一人で来たの?」
「うん。あのね、お母さんが、最近は森が変わったみたいに明るくなったから行ってもいいよって」
「そう……、ふふ、良かったね」
「あのね、お姉ちゃん」
楽しそうに笑顔で話す彼女に合わせて、少し腰を屈めながら、私は首を傾げた。なあに、と訊けば彼女は一層笑みを深くして、口を開く。
「お母さんはね、今ドライフラワーの勉強をしてくれてるんだって」
「ドライフラワー?どうして」
「エルが森で作った花冠を、もっともっと長持ちするようにしてくれるんだって。そうしたら」
「うん?」
「エルも、森のお花も幸せなんだって。毎日摘むと、昨日のお花が可哀相だから。一度作ったものを、大事に使いなさいって言うの」
「!」
「エルもね、これが明日も明後日も使えたらいいなって、いつも思うの。だから帰ったらお母さんに渡して、おまじないをかけてもらうの」
いつまでも枯れないでねってお願いするのよ、と、彼女は土のついたスカートを揺らして笑った。ふとその胸に、青桜が留めてあるのに気づく。ブローチだ。私も幼いころ、花を髪に挿してみたことがあったものだ。だが夕方になって鏡を覗いたら、萎れかけた花びらが物悲しく見えて、結局一度きりでやめにしてしまった。きっとこの青桜は、この花冠と一緒にお母さんの手に渡って、幸せな花になることだろう。花冠のアクセントになって、いつか今度は、彼女の髪の上に帰るのかもしれない。
「素敵なおまじないね」
「うん」
「きっと上手くいくよ。似合っているもの」
ふわりとまだ甘い香りの漂うそれを彼女の頭に返して、私はそう言った。礼を言って森の入り口のほうへ帰っていく彼女を見送る。送っていこうかと申し出たが、よく来ているから大丈夫だと断られてしまった。それもそうかと篭を抱え直して、せめてその後姿が見えなくなるまで手を振りながら、私は一人、何だか嬉しさを抑えきれなくて、小さく笑みを溢す。
(あの子も森の花も幸せ、か……)
頭の中に、三件先の女性の顔が浮かんだ。森に嫌悪感を隠さず、彼女、エルにも森へ近づいてはならないと厳しく言っていた人だ。私のことは尊敬する、偉いと思うとは言ってくれていたし親切にもしてくれていたが、彼女が森について私に訊こうとすると、途端に声音を鋭くした。そして少し罪悪感に染まった顔で、薬草を持った私を見て目を逸らしていた。そんな人が、そんなことを言うまでになったのか。楽しそうに駆けて帰っていった靴音を思い出しながら、私は草の深くなるほうへ、迷わず歩いていく。
しばらく行くと、唐突に空気の涼しくなるところがある。水気を含んだような、少し重くて、透明な空気。私はそれの漂うほうへ、威厳のある古い朱桃の木を目印にして、一本道を逸れて草むらを抜けた。
「―――狐か?」
さあっと視界が良くなって、今までこんな場所をどう隠していたのだろうと後ろの木々を振り返ってしまいそうになる場所に出る。石の壁は相も変わらず蔦が這って、どこからか入り込んだ空色の鳥が、入り口に立てられた杯を模した石の上で雨水を突いていた。その杯にはやはり傍に転がる岩と同じく苔が生して、きっとそれらの緑がこの神殿を人の目につきにくくしてしまっているのだろうが、何せその風景はここの主の気に入りだそうだから、どうにも仕方ない。
「もう、分かっているくせに。私よ、上がってもいい?」
そんな緑の神殿の屋根へ向かって、私は声を上げた。了承の返事が耳に届いてから、すっかり慣れた手すりのない階段に足をかける。いつもより少し重い篭を手にそこを上りきってみれば、いつも通りの景色が、私を迎えた。
「こんにちは、シルヴァ」
泉のような双眸。褐色の肌と対称的な印象を与える、柔らかな灰の髪。日を弾く金の装飾が印象的な、その姿。
「イリス。今日は早いな、どうした?」
そしてあのころと比べると、幾ばくか親しげな色を滲ませるようになった、その声。私は自然と自分の表情が綻ぶのを感じながら、その隣へ行くため、神殿の上をそっと歩く。あれから、二年の月日が経った。
「狭間の森」―――ここがそう呼ばれていたのは、今ではもう少し懐かしい話だ。森が開けていってからというもの、村の生活は豊かに変化した。滞りがちだった外との交流も楽になり、その結果、何十年という交流の乏しかった間に、この村では独自の文化が出来上がっていたことが話題を呼んだのだそうだ。主に織物や料理などに珍しい手法が多いらしく、それらを記録した本が旅人や行商人に売れるおかげで、逆にこちらは他の村の文化や生活の知恵を知ることができるようになった。とはいえ人の生活は二年などという時間で変わるには限度があるというもので、実質、村人達にそれほどの変化はない。
そしてあの日、翠の雫を追って彼と出会った私は、以来毎日のようにここへ通っている。初めは彼に会ったこと自体を、現実なのかと確かめるような心地で。それから今度は、数十年間誰とも口を利いていなかったという彼に、現在の村の話をしたり、また彼から昔の村の話を聞いたりするため。そして今ではすっかり、身に馴染んだ日々の楽しみとなってしまっている。
彼は昔の話も表面的なことだけでなく、懐かしい思い出なども語るようになり、私は私で真面目な話から、他愛ない世間話のようなものまで、ありとあらゆることを二人で話すようになった。昨日のこと、今日のこと、明日のこと。何十年前の過去のこと、今この瞬間のこと、未来のこと。気づけば仕事のない時間のほとんどをここで過ごすようになって、もう何ヶ月と経つ。その間、毎日通う中で、森の変化を眺めるのも楽しみの一つであったりするのだ。人の感覚を狂わせるほどの静寂と謳われたこの森は、この二年でずいぶんと色を変えた。季節の花が咲き、木の実が実り、果実が落ちる。風が通り、日の零れる道はステンドグラスのように深い緑の影を落とす。見上げれば空を欠いて揺れるその木々は、時折訪れる鳥に撓り、また足元を煌かせる。
彼曰く昔はもっと鮮やかな森だったというが、狭間のころしか見たことのなかった私からすれば、この変化は驚くなどという言葉では表しきれないものであった。実は無理をしているのではないかと、何度彼を問い詰めたか分からない。しかしその度、彼の正論の前に頷く結果となっている。彼は言うのだ。自分は森であり、この森は自分である。それならば自分が無理をしたら、森のどこかが枯れていくに決まっているだろうと。私はこの森のすべてを知っているわけではないが、見聞きしたものをすべて思い返してみても、枯れた場所があるなどという不穏な話は知らない。無理をしていないのなら、それでいいのだけれど。俯く度に、彼は言った。イリス、お前は知らないかも知れないが、これこそがこの森の、俺の本当の姿だ、と。笑って木々を見上げるその横顔に、嘘偽りは感じられない。だから私も最近は、日々力を取り戻して生まれ変わっていく森を、ただその源たる彼の傍らで見守っている。
「ねえ、シルヴァ」
私は持ってきた篭を引き寄せて、中から小瓶を取り出して並べた。先に実質、村人達の生活にそれほどの変化はないといったが、私は案外、一番変化があったのは私なのかもしれないと思っている。色とりどりの小瓶を手にとって眺める彼の隣で、厚いパンを半分に切って、小瓶の蓋を開けていく。
「何だ、これは」
「ジャムっていうらしいの。あなたが昨日くれたものでいくつか作ってみたのだけど、どう?この間うちに寄った行商人さんが、値段のわりに良い薬を扱っているって、お礼にレシピを教えてくれたのよ」
「そうか、……順調なのだな」
「ええ、あなたのおかげ。やっぱり植物のことはあなたに訊くのが一番ね、おかげで今、うちの周りにある薬草だけで三十種類は薬が作れるわ。行商人さん、驚いていた。個人でここまでの数を常に揃えていられるのはすごい、町の薬売りよりずっと当てになりそうじゃないか、って」
狭間の森が恐れられる森でなくなったとき、私はそれを喜びながらも、心のどこかでもう薬売りでは生活していけなくなるだろうと思っていた。元々子供が集められる知識をかき集めて作っていた、いつ売れなくなっても仕方ないようなわずかな種類の薬だ。森が開ければその実りで食べ物は手に入りやすくなるかもしれないが、同時に外との交流が発展するのは目に見えている。大きな町で評判の良い薬を積んだ荷馬車でも通ってしまえば、私などが太刀打ちできるものではないだろう。何か新しい仕事を探さなくては。そう決めかけていた私に手を差し伸べたのは、またも彼だったのだから、私は本当に感謝しているとしか言葉が出ない。
数十年、あるいは百年近く前の人間が使っていたという薬草の調合の知識を、私に与えてくれたのだ。彼は。今ではどんな町にも残されていない、単純で、それゆえに効果の大きい理想的な薬だった。そして自生しているものでは材料が手に入りにくいだろうと、それらの種と、育てる知識を―――過去の人々がそれを育てた記憶を、私に授けてくれた。水の音、日差しの色、風の匂い。すべてが映像として教えられたことの意味は大きく、私はこの二年で約二十種の薬草を育て、自宅でどんな急な依頼にも対応できるようになった。結果、今でも私は薬売りとして生活し、その傍らで材料となる薬草も育て、要望があれば売って暮らしている。彼はこのことについて礼を言うと、それは自分から私への礼のようなものなのだから気にすることはない、俺は教えただけであって働いているのはお前だろうと言うが、私にとってこれほどに生活が安定しているのは生まれて初めてのことだ。彼の言っていることが分からないわけではないが、事実として助かっているのだと、それだけはやはり譲れないのである。とはいえ彼は、私がそれに固執することをあまり良しとしない。だからこそ、私も彼を良く思っているのかもしれないが。
「はい、これ」
「?」
「せっかく作ったから、誰かと食べたいと思って持ってきたの。あなたの分よ、良かったら」
そして多分、彼が私を傍に置く理由はそこにある。私は彼が私や村にとっていかに大きな存在であるのかということも理解しているが、だからどうこうというつもりはない。私達の関係は、至って対等だ。以前に伝承のあなたは存在すると村長へ伝えようかと訊いたら、そんなことをして手でも合わせられたら敵わないからやめてくれと、そう笑っていた彼を思い出す。彼は時間がかかっても、あくまで自然に受け入れてもらいたいのだそうだ。私と彼とがそうであるように、どんな祈りよりただの言葉が通じ合う。そういう関係を、また村人達と結んでいけたら、それこそが理想なのだと。崇拝ではなく尊重という信仰が本当に取り戻されたとき、きっとこの森はかつての、真に鮮やかな姿を広げることだろう。
「ありがとう」
「どういたしまして」
金のスプーンで思い思いのジャムを掬って切ったばかりのパンに塗り、心地好い風の吹き抜ける神殿の屋根から足を垂らして、私達は正午の鐘を聞いた。木々を隔てたすぐ向こう側を、探検ごっこの服に身を包んだ子供達が駆けてゆく。この神殿が賑わいを取り戻し、伝承が現実のものとして村人の中に生き返るのも―――そう遠くない話、かもしれない。