翠の雫U(♯)
「この森そのもの、なのね」
口にした瞬間、それはより強い確信へと変わった。シルヴァ。この地でも古くは使われていたと言われる言語で、森。小さいながらも隣の村と交流を重ねて発展したことで、この村の言語は時代に合わせて変わっていった。より外へ通じやすいものへ。私も実際、この言語を使ったことはない。村の老婦人が、幼い頃に読み聞かせてくれた伝承で知ったくらいだ。―――森の草木とその命を共有し、人の暮らしの傍らにあり続ける神。命の色の血を持つ。
「昔は誰もが、俺を知っていた。俺も村の人間全員の名を呼べるほどに、彼らを知っていた」
「……」
「懐かしいものだ。何十年ぶりだろうな、人間に触れたのは。最後に来たのは、先代の村長だった」
「え?」
「あなたを伝承にしてゆく村を、許してほしいと。やがて誰もがあなたの存在を物語の中に閉じ込めてしまっても、いつかまた、きっと誰かが会いに来るだろう。伝承を伝承でないものとして受け止めるものが、現れるだろう。その日までどうか、この村を許して、変わらぬ恵みを与え、待ってやってほしいと」
「!」
「……やっと、来たか」
くすり、叱るような口調と裏腹に、彼はひどく穏やかに笑った。あの流れ込んだ遠い日の中の、彼そのものだ。
「同じだ、森も、人間も。独りは自由で、長くて―――時に、寂しいものだった」
「シル……」
「まあそれも、こうして終わったわけだがな」
さあ、と、静寂ばかりが満ちていた森に、風が吹き抜ける。摘みなれた薬草の匂いに混じって、知らない香りがどこからか運ばれてきた。振り返って、私は思わず目を見開く。―――そこには、ただ鬱蒼と茂るばかりの木と深い草むらではなく、鮮やかな赤や黄色の果実を実らせる木と、様々な花を咲かせた草が、所狭しと並んでいたのだ。
「先代の村長の訃報を耳にしてから、俺は長い時間をかけて森を暗く、静かなものに変えた」
「どうして?」
「信仰が全くなくなってしまっては、森は生きていけない。この森は、俺の生命そのものだ。……次から次へと実るのを良いことに摘み取られてしまっては、どうなるか」
「あ……」
「分かるだろう?……そうなったら、俺は村人の前に出て行って、彼らを咎めなくてはならない」
伝承を記録した絵本の中でしか見たことのない、瑞々しい木の実が落ちる。それを先ほどまで音もなく飛ぶだけだった濃紺の鳥が、甲高い声で鳴きながら突いていた。
「一度架空の存在にされてしまったものというのは、簡単には受け入れてもらえない。多くの村人は俺を知ったら、まず慌てふためくだろう……幸いにもお前は違ったようだが」
「それは、あなたが正体を明かすより先に魔法なんか使うからよ。驚きがとっくに許容量を超えていたから……」
「魔法?……ふ、はは、お前はこれを魔法と呼ぶのか」
「それ以外になんて言ったらいいのか……だめ?」
「いや、気に入った。そう言われればそんなふうにも思えてくるものだ。……神秘だなんだと言われたことはあったが、そんな呼び方は初めてされたな」
私が咄嗟に発した言葉の何をそんなに気に入ったのか、彼はここで会って初めて、声を上げて笑った。そのときになって初めて、私は森の天井が少し開けて、空を見せるようにもなったことに気づく。日光の差し込んだ彼の眸は、本当に泉のようだった。
「とにかく、大抵の人間は伝承の中にしかいるはずのないものが出て行って名乗ったところで、子供の悪ふざけ程度にしか思わないだろう?」
「それは……、そうね」
「……だが、力で脅して取り戻すような信仰はいらない。俺がほしかったのは、親しき仲の礼儀だけだ」
「森と、人間の?」
「そう考えると難しいだろう。俺と、お前達のだ。お前は村人が飢えていたら、そのとき手元にパンが余っていたらどうする?」
「もちろん渡すわ」
「そういうことだ。俺を、この森を、傍らの人間を守ろうとするのと同じ感覚で、それなりにしておいてほしいだけだ。雨が足りなかったら、川の水を少し周りの木に与えてほしい。腐らせるほど余計なものを持ち出さず、次に入ってきた人間が木を倒さなくても木の実を採れるよう、少しだけ残しておいてほしい」
「シルヴァ……」
「俺が取り戻したいと願い続けてきたのは、そういう付き合いだ。恐れながら崇め奉られることも、すべての人間から忘れ去られることも、どちらも虚しさでしかない」
だから彼は、森を閉ざしたのか。すべてを言われずとも、何となく理解することはできた。森に命があることを忘れてしまった人々が、それでもそれはそれとして生きてゆけるために。実りを奪い尽くされないよう最低限のものに抑え、木を切り倒されないよう、恐れられるほどの静けさを作り上げて。そうして彼は、狭間の森で独りになった。
「……あなたは」
「?」
「ずっと、色んなものを守ってきたのね。自分の命だけじゃない、この森が狭間の森と呼ばれているおかげで、私達の村には大きな村からの品物もあまり入ってこないわ」
「……」
「……だから、私みたいな子供でも、今まで薬を売って暮らせたのよ。知らなかったの、ずっとこんなに近くにいたのに気づかなくてごめんなさい、私は」
狭間の森。誰もがそう呼んで恐る恐る足を踏み入れては逃げるように帰る森で、ずっとずっと独りきり。それはどんなに、長い時間だったろう。想像しても追いつかなくて、それでも胸がきんと痛む。少しの躊躇いを振り切って、私は彼のゆるく握られた拳に、自分の手を重ねた。温かい。どこかとても、懐かしい体温。それもそのはずだ。
「私はずっと、あなたの命を分けてもらっていたようなものなのね」
きゅっと握ったつもりの手には力が入らなくて、私は何だか泣きたいのか微笑みたいのか分からない、やり場のない気持ちでいっぱいになった。幼い頃、必死に薬草の知識を身につけて、大人も嫌煙する狭間の森へ飛び込んだ日のことを思い出す。静けさは確かに恐ろしくもあったが、それ以上に、この森は私にとって生活の糧を与えてくれる場所となったのだ。人の出入りは少なく、それゆえに、この中でしか手に入らない薬草を使った薬はよく売れる。身寄りのなかった私にとって、それはどんな一時の優しさよりも頼りになる、大きな安心であった。彼は幼い日の私を、知っているのだろうか。もしかしたらこの森そのものだと言うのだ、知っているのかもしれない。あるいは知らないが、私がよほど、どうしたらいいか分からないとでもいうような顔をしていたのか。振りほどかれたと思った手は、その口調や風貌から見るよりもずっと優しく包まれた。
「お前に、一つ教えてやろうか」
「?」
「お前は、俺の血の音を聞いてここへ来たと言ったな?」
どこか嬉しそうに、最初に交わしたはずの言葉を確認する彼を見つめて、私はただ頷く。腕飾りがしゃらりと音を立てて、その冷たい金属や石の感触が私の指先にも触れた。きらりと日差しを弾くそれ。濁った灰色だとしか思わなかった彼の髪も、日の下で見るとこれほどまでに柔らかく見えるのか。
「あれには、少しばかり細工がしてあった」
「細工?」
「お前流に言えば、魔法だ。……どんなものだと思う」
「……分からない」
白い羽虫に交じって、視界の端では青い蝶が飛んでいく。道標にと残した青桜に止まって、花びらを増やした。私はしばし考えたものの、分からなくてまた彼へ、視線を戻す。あれを聞いたからといって、私の身に何が起こったわけでもない。一体、どんなものだったというのだろう。
「―――伝承をただの神話やお伽噺ではなく、実在したものだと信じている者にしか届かない」
「え?」
「伝承を、森を無機質なものとして考えず、命あるものとして見てくれる。そういう人間にしか、届かない音だ」
「そうだったの?」
「あれは言うなれば、森の息吹そのものの音だからな。森を思わない、伝承を信じない者に聞こえないのは、当然といえば当然のことだ」
「そうだったんだ……」
当たり前のことのように言われたが、その言葉は私にとってとても嬉しいものだった。与えられるばかりで、何も返せない。ならばせめてと、心を捧げることだけは忘れずにきたつもりだった。多くを採らず、小さなものを採らないことで。それは、意味のあることだったのだ。自己満足だが独り善がりではなかった。彼は、それをこうして感じ取ってくれたのだから。私の積み重ねてきたことは、確かに伝わったのだ。そう思うと、これまでの森で過ごした時間を、とても尊いものだと思えた。
「何十年もそんな人間は来なかったからな、もう諦めかけていた」
「そんな……」
「だが、そこにお前が来た」
「!」
「……名は?」
「あ……、私は、イリス」
「イリスか。虹の女神の名だ、新しい伝承の始まりにちょうどいいな」
「え?」
がくん、と地面が大きく揺れた。何が起こるのかと聞くよりも先に、私の問いを待たずに、彼はどこか楽しそうな顔で手を翳す。空へ。
―――そして、晴れ晴れとした声で、言った。
「伝承は、蘇る。今日からここはまた時間をかけて、遠い日の恵みの森へ、生まれ変わると約束しよう」
「!」
「狭間の森はこれで終わりだ。―――手始めに」
ざわざわと音を立てて、静寂の森が開いていく。差し込んだ眩しい光に空を見上げて、私は思わず目を見開き、それから笑った。
「俺を生き返らせた者の名を、村中に見せびらかそう」
空には大きな虹が、森を囲うようにかかっていた。濃紺の鳥は空色の鳥となって、その中を高く飛んでいく。
今頃きっと、村では皆が虹を纏って開いてゆく森を見て、古い絵本を広げていることだろう。新たな伝承は、ここから始まるのだ。