翠の雫(♯)

 ぽたり、ぽたり、と。苔に覆われた岩を、翠の雫が叩いている。宝石のように煌く、透明な雫だった。
 「狭間の森」―――いつからだったろうか、この静かな深い森が、そう呼ばれるようになったのは。蒼い空が欠けた硝子のようにしか覗かないほどに、鬱蒼と茂った木々。その間を、濃紺の鳥が音もなく飛んでゆく。自分の足音、呼吸の音、わずかな手を擦り合わせる音や鞄の中が揺れる音―――この森に入ったら最後、耳に届くのはそういったものだけ。有名な話だ。この森はそれほど難しい構造をしているわけではなく、細い一本道を迷わずに、横に逸れずに進めば向こうの村へ抜けられる。けれど何故かここでは、たくさんの人間が迷い、戻ってきたころにはひどく衰弱している。それは何故か。―――恐れてしまうのだ。自らの発するもの以外何も聞こえない森の中で、ただひたすらに歩き続けることに、いつしか不安を抱いてしまう。本当にこの道を行けば向こう側へ出られるのか。そんな疑問と幾日か戦ううち、やがてふらりと木々の隙間から見える開けた場所へ、泉へ、川辺へ、橋へ。我知らず行ってしまう。そして振り返った時にはもう、どこを歩いてきたのか分からないのだそうだ。異常なまでの静けさが感覚を狂わせ、人を奥深く、もう戻れない場所まで誘う。故に、狭間の森。
 さて私はその狭間の森にて、立ち尽くしていた。ぽたり、ぽたり。音がするのだ。感覚が狂うほどの、精神がおかしくなるほどの静寂と謳われる森から、音が聞こえた。薬草を三種と青桜の花を一束摘んだ篭を抱えて、後ろを振り返りながら、好奇心に逆らえず一本道を逸れて数歩。それは木々に隠されて、存在していた。
「神殿……?」
朽ちた木の根が幾重にも絡まりあったような地面、そこから伸びてさらに絡まる蔓草。白い羽虫がふわりと舞って、石の壁に貼りついた。その壁には罅が入っており、よく目を凝らせば、何か文字らしきものが彫ってある。初めは小さな崖か何かかと思ったのだ。すべてを見てそれが建物だと把握するまで、それなりの時間を要した。それは建物と認識するには、あまりにも古び、草を纏って、辺りの風景と一体化してしまっていたから。
「……」
ぽたり、ぽたり。翠の雫はその神殿の前にごろりと転がった、大きな岩に落ちている。幾分上から落ちてくるようだ。ぱしん、と弾けては地面に零れるそれをしばしぼんやりと見つめて、出所はどこだろうかと視線を上げてみる。
「!?」
ゆっくりと神殿の屋根を見上げた瞬間、私は背筋が粟立って息を呑んだ。―――手だ。人の手がだらりと、力なく下がっている。しかしせわしなく動く心臓のおかげで咄嗟に引き返すどころかじっと見つめてしまった私は、その宝石のような雫が、その指先から滴り落ちていることに気づいた。恐る恐る、一歩二歩と近づいてみる。みしりという根を踏む音。深い緑に囲まれた神殿の前で、それはとても罪深く聞こえて、私はできるだけそっと足をつくことにした。
「……あの……」
跳ね上がる心臓もそのままに真下近くまで来てしまった私は、そっと声をかけてみる。もう一度、今度は少し大きく呼んでみたが、返事はなかった。どうしようか。迷って思わず後ろを振り返る。来た道は私が草をかき分けた時のまま、きちんと目印の青桜一本も、残されている。
「……失礼します」
ここまで来てしまったのだ。確かめずに帰っても、気にかかることには変わりないと、私は意を決した。神殿の脇に備えつけられた石の階段を、誰にともなく断って上る。ひやりとした壁を這う蔦につかまって、心なしか震える膝に気づかないふりをして、私は一息に長いようで短い階段を上りきって、目を向けた。
「―――狐か?」
「!?」
その瞬間、私は驚きで心臓が飛び出しそうになるという感覚を、初めて本気で味わった。石の屋根の上に横たわっていた小柄な体が、急にむくりと起き上がって声を発したのだ。エメラルドの眸。深い泉の水面のような色に、釘づけになる。
「……人間?……これは珍しい」
「え……、あ、あの」
「ん?違うのか?」
「え?」
「お前は、人間ではないのか?」
褐色の肌。何とも言えない濁った灰色の髪を、無造作に片側へ寄せて縛っている。だがその留めてある装飾は豪華で、蔓草を模したような金の輪と、その所々に眸と同じ色の石を嵌め込んでできている。白と金を基調とした、狩人のような服。腰に下げた短剣が、よりそれを強調して見せた。
「え、人間です」
「だろう?……ふむ、久しいな」
「?」
「何十年ぶりに見たか。それもこんな年若い人間など」
彼は、と呼んで間違いないだろう。髪こそ長いが、声が女のそれではない。彼は、こちらをじっと見たまま、そんなことを言った。彼の言葉を初めから反芻してみる。
(……私、狐に間違われた?)
それだけではない。人間か、と当たり前のことを問われて咄嗟に言葉が出なかった私を眺め、違うのかとも訊いた。頭の中で考えれば考えるほど、その質問の意図が分からずに、混乱していく。それに。
「年若いって……」
「?」
「あなたも、そんな歳には見えないのだけれど」
同じくらいか、むしろ年下か。目の前の彼は、私とあまり歳の開けていない人間に見えた。この森を知り尽くした狩人か何かではないのだろうか。手すりのない階段の一番上に立っているのが落ち着かなくて数歩進んだ私を、彼は咎めるでも招くでもなく、座ったままでいる。距離を取りすぎるのも話がしづらいとまた数歩近づいたとき、私は思わず声を上げた。
「あ……!」
「ん?」
「それ、さっき下で……」
私の目に飛び込んだのは、彼の手だ。胴や翡翠の腕飾りを通したこちら側の手ではなく、陰になっていて見えなかった、何もつけていないほうの手。その手の先から、あの翠の雫が滴っている。元はと言えばそれが始まりでここに来たのだったと、この数分間で何度となく衝撃的な思いをしたせいですっかり忘れていた。下で見た手の主は、彼だったのだ。最悪の想像を免れたことでほっと息をつくが、しかし疑問は何も片づいていない。
「ああ、これか」
「ええ、それが岩に落ちる音を聞いて、ここへ来たの」
「……これが?」
「ええ、そうよ。これだけ静かな森だと、水滴の音まで聞こえるものなのね」
「……」
「見て、驚いちゃった。すごく綺麗……植物から採った液か何か?良かったら見せてもらいたいの……、だめ?」
私は少し表情の変化に乏しい彼が何を考えているのか分からなくて、弱気になりながらも、ようやくそれだけ言って答えを待った。何かを考え込んでいるような、むしろ探ろうとしているような眼差しに居た堪れなくなる。だが、私が無理ならいいと諦めて言葉を発しかけたとき、彼のほうが先に口を開いた。
「……約束を」
「え?」
「むやみに人に言わないと約束をするなら、来い」
「!」
ずっとこちらに向けられていた、警戒にも似た眼差しがふっと緩んだのを感じる。
「約束するわ」
意思の固さを示すように真っ直ぐ見つめて頷けば、長い爪の手が私を招いた。許されるままに隣へ腰を下ろして、歩き疲れた足を崩す。傍へ置いた篭の中で、青桜が薬草と交じって、清涼感のある香りを漂わせた。
「ほら」
「わあ……」
差し出された手を、じっと見つめる。石の上に滴る雫は先ほどよりその間隔を伸ばして、ゆっくりと、より美しいもののように落ちていた。薬草や森の入り口近くに咲く花に関しては詳しいつもりでいたが、これほどまでに透き通った翠を出す植物はなかなか見かけない。草から採ったものではないのだろうか。見れば見るほど不思議なそれに、私は思わず、彼に訊いた。
「ねえ、これ何?」
「血」
「……え?」
「血だ、俺の」
頭の中で言葉が文字になって、また言葉になるまで、時間がかかったと思う。ゆっくりと顔を上げた私の目は、何事もなかったかのようにこちらを見つめる彼の眼差しに受け止められて、言葉を失くした。―――血。その言葉とものがようやく一致して、改めて彼の手に視線を落とす。ゆっくりと、彼はその手を裏返してみせた。その指先には刃物で切ったような傷がひとつあり、塞がりかけたそこから、翠の雫は溢れてくる。
「薬売りか、お前は」
「あ……」
「篭を見せてみろ」
どうして、なぜ、と疑問ばかりが空回りして声にならない私を横目に、彼は私の持ってきた篭へ手を伸ばした。その中から薬草と青桜を次々と取って、何かを調べるように眺めては戻していく。
「……良い選び方だ」
「え?」
「未熟なものを採らず、枯れる手前のものを選んでいる。偶然ではないだろう?」
指先に止まった白い羽虫をふっと吹いて、彼はかすかに微笑んだ。わけも分からないまま、私はたった今の言葉に頷く。
 ―――薬売りを始めたばかりのころに、思ったのだ。どんなに綺麗な草も花も、薬になるのはその中を巡る雫だけ。似たり、摩り下ろしたりして使うことがほとんどである。何も考えずに摘んでしまった咲きかけの花を潰すとき、どこか胸が痛んだ。そして花瓶に挿してあった萎れかけの花を見て思ったのだ。薬売りを、辞めることはできない。今の私にとっても、村にとっても。それならばせめて、先の短い草や花から、その命を譲ってもらおう。今から咲こうとしているものではなくて、せめて。それが、森に頼らなくては生きていけない私からの、せめてもの感謝とその心ではないか。
 私が驚いたのは、彼がそれに気づいたことだった。村の人間にも私が摘んできたものを興味から眺めた人はそれなりにいたが、それに気づかれたのは初めてのことだった。
(同じようなことを、思ったことがあるのかしら)
ふいにふわり、と柔らかくなった横顔を見て思っていたら、彼が篭の中から一本の薬草を取り出した。くるくると指の先でしばらく眺めてから、少し真面目な顔になってこちらを向く。
「……だが、遠慮のしすぎだな」
「え?」
「これはもう枯れかかっている。これでは良い薬にならないだろう」
「あ……それは、数があまりなくて」
「ふむ」
「隣にあったのは、ちょうど花をつけていたから。いいのよ、家に残っている良い葉と合わせて使うから」
「……だが、願わくば?」
「……もう少し、瑞々しいうちだったらもっと良かったけれど」
誘導されるように、本音を溢す。仮にも摘んだものに対して文句は良くないというのが信条であったが、彼の言う通り、本当はもう少し若い草でないと効果が薄い。どうやらそれは十分に分かっているらしい相手に対して、ここで隠しても仕方ない。私の答えを聞いた彼はそうだな、と頷くなり、すっと手のひらを翳した。
「その願い、お前の精神に敬意を表して叶えてやろう」
耳ではなく、頭の奥に直接響くような声。何が、と問うよりも先に、それは目の前で起こった。石の上に置かれた、枯れかけた薬草。その上に翳された褐色の手のひら、その指の先から、翠の雫が一滴、落ちる。
「……!」
声にならないとは、このことだろうか。ぽたりと弾けたエメラルドの雫が、欠片となって萎れた葉に吸い込まれていった瞬間、その葉が、茎が、瞬きをするような速さで青さを取り戻していったのだ。そして彼はその茎を小さく折ると、また一滴、翠の雫を落とした。今度は途端にそれが葉を広げ、花を咲かせ、種を落とした。
「手を」
言われるがままに差し出した手は、ぐるりと裏返されて手のひらを向けさせられる。その上に、わずかに瑞々しさを取り戻した薬草と、その種がそっと置かれた。
「その草は、種が見つかりにくい。森には数があまりないが、それほど弱くもないからどこでも育つ」
「あ……、え、これ」
「庭先で育てるといい。上手くいけば、毎年採れるようになるだろう」
「……!」
「そちらは、少し時間を戻しておいた。……お前の信念は悪くないが、薬売りが薬の材料に遠慮をしすぎては、村が泣くぞ」
ほら、と返された篭に、たった今受け取ったものを促されて入れる。小さな篭の中で、先ほどまで萎れていたはずのそれは、鮮やかな、それでいてもう褪せかけたような、まさに私が日頃探すような色をしていた。種はなくさないよう、持っていたハンカチに包んだ。それを青桜の脇にそっと収めて、改めて彼を見る。
「……ありがとう。ねえ、あなたは」
「?」
「人間では、ないのね」
村の人達と、私と、何ら変わりなく見えるその姿。けれど私はもう、ここまでのことをすべて見た上で、彼を自分と同じ人間だなどとは思っていなかった。ならば何なのだと訊かれたら、私にだって分からない。けれど、彼は私達に近い姿をした、何か別のものだ。それだけは、確信するほかなかった。
「逃げないのか」
「それは……驚かないわけじゃないけれど、逃げるようなことはされていないわ。むしろ本当に感謝している」
「……感謝、か」
「?」
「懐かしい響きだ」
腕飾りをつけていないほうの手が、すっと伸ばされる。その指先にもう、傷口はない。頭の後ろを軽く押さえられて、こつんと額が触れた。滲むように近い、深い泉の水面の色。なぜだか初めて会った気がしないその眸に、自然と力が抜ける。
「俺が誰だか、分からないか?」
頭の中に、何かが流れ込んでくる。暖かい日の水のような、どこまでも優しい温度。ごぼりとその奔流の中に溺れそうになって目を開けば、閉じた瞼が視界に入った。同じように、私もまた目を閉じる。
 ―――声が、する。人の声、人の声、たくさんの人の声だ。村人だろうか。それにしては皆、幾分か古びた服装をしている。
(あれは、何?)
言語は聞き取れるものとそうでないものとが交じり合い、どうやら私の知らない時代のようだった。音で把握するには限界があることを知って、目を閉じた中で、頭の奥を巡る景色に目を凝らす。石の壁。あれは神殿だ。真新しいそこに、数人の男が文字を彫っている。
「シルヴァ、シルヴァ」
彼らはそう言いながら、一文字ごとにああだこうだと言い合い、また彫り進めた。場面がゆっくりと変わっていく。
(また神殿だ)
変わった先は、いくらか時間の経過した神殿のようだった。火を灯した松明を持って、男達は神殿の屋根を見上げ、笑っている。女達はその後ろで小麦の包まれた布を抱えたり、笛を携えたり、中にはそれを吹く傍らで歌っている人も見える。彼らは皆、上を見ていた。私も意識を集中させて、彼らの見ている方向へ目を向ける。
「……え……」
思わず上げた声は、全く別世界のもののように、まともに耳から聞こえた。くす、と小さく笑ったような声が、同じく耳に入る。―――神殿の上には、彼がいた。まさしく今笑った声のような、初めの印象とはずいぶん違う穏やかな、それでいて少し幼げな笑みを浮かべて。髪は今より短い。だが身に着けているものといい、その容姿といい、同じと言わざるをえなかった。
(……シルヴァ)
繰り返される、村人達のその言葉。それは彼に向けられていた。幸福そうに手を合わせ、歌を捧げ、収穫を報告する。その、意味は。
 ―――ふ、と頭の中が白くなって、それからゆっくりと落ち着いていく。私はもう何を驚くこともなく、目を開けた。すぐ傍にあった眸が、すっと遠ざかっていく。すべて、私には分かった。
「……シルヴァ」
「……」
「あなたは、森の神様……、ううん」
頭の中でまだ、あの清浄な笛の音が響いている。どこまでも真っ直ぐな、信仰と、それ以上の親しみを込めた音色。膝の上に抱いた篭の中で、薬草が風に揺れた。濁りのない水を吸って育った、綺麗な緑。

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