ライオンコバルトU(♯)

「おい」
「?」
「それもまた、本能か?」
 ぐ、と膝の辺りに力を感じて視線をやれば、粗末な靴で踵を立てようとする足が目に入った。“種”の遺伝子に支配されているとは言え、知能は人間だ。この状況でその抵抗が如何に無駄か、分からないわけではないだろう。証拠にというべきか、女はすでに諦めかけた顔をしている。それにも関わらず、足にかかる力はどんどん増していった。
「……」
「……ああ」
問いかけに返事がない。あれほど威勢が良かったのはどうしたのかと思ったところで、首にかけたままの自分の手に気づいた。闇雲に掴もうとするのは無謀だ。あの時、振り返ったその首に手をかけて、そのまま地に打ちつけた。ずっとそうしていたのか。捕らえてしまえば余裕なもので、ふとああ何と答えるだろうと気になった。ゆっくり手を緩める。女は数度噎せて、気丈な目を取り戻した。
「知らない」
予想通りの答えに、納得する。そして同時に、この女から仲間の居場所を聞き出すのは少し面倒そうだなとも、思った。

「……私を捕らえてどうするの」
 首を絞める手が緩んだのをいいことに、私は無意識にそんなことを訊いていた。声を上げるたび、また噎せそうになる。
「さあ?」
「喰うなら喰えばいいのよ。好きにしたら?」
「そうだな……それじゃあ」
精一杯強がってはみたが、真っ直ぐに睨みつけているはずの彼の眼がぶれる。震えているのだ。彼のはずはない。ならば私か。無自覚に彼の膝へ力を込めていた足を、重力に任せて下ろす。呼吸がまた、楽になった。
「お前の仲間の居場所……そうだな、羊の居場所を吐け」
「!」
「……知ってるって顔だな。分かるだろ?……ほら、吐いたら離してやるよ」
ゆるり、爪の先が喉を撫でる。彼の言葉がぐわんと頭の奥に響いて、こびりついた。
(……どうして)
そして、それ以上に。私は私が嫌になった。
一番始めにこびりついたのは、離してやるよという言葉。私を、見逃してやってもいいと言った声。
(嫌だ……)
私は、次いである人を思い浮かべてしまった。先の避難のとき、私を逃がそうとしてくれた人と、それを止めた人。彼らは羊だと、そう言っていたと、私は。
「……っ」
思い出して、しまった。差し出すわけにはいかないと、囮にまでなって守ろうとしていたはずの、仲間を。この命の土壇場で、自分と天秤にかけるような真似をしてしまった。酷い。酷い話だ。私は結局、生きていたいのか。たった一本の木より軽んじられる存在だと分かっていても、帰りたいのか。今もどこかで期待している。あの“巣”の仲間が、私の様子を見に来てくれはしないかと。助けてくれるのではないかと、期待している。自分のために。
(所詮は“弱者”なの?)
指先に力を込めたら、目の前にある黄金が歪んだ。
(貴方に屈するの?……誰かを差し出して、長らえようとするの?)
頭の奥が、すうっと澄んでいく。そんなのは違うと、私の内側が騒ぐ。ここで屈するのと、見えすいた罠に期待をかけて仲間を売った後で喰われるのと、どちらがより惨めだろうか。結末は分かりきっているのだ。それならば私は少しでも、誰も知らなくても、強くありたい。
「嫌よ。仲間を売るくらいなら、一人で逝ったほうがまし」
美しく、凛としていたいのだ。世界がおかしかろうと、周りが虚しかろうと関係ない。その中でも、心だけは持ち続けられる。誰にも歪ませはしない、力も何もない私にも与えられている、私だけの大切なもの。
「……そうか、残念だ」
彼の声が耳に届いたその瞬間、再び首にかけられた手に、力がこもった。

 無駄な時間を過ごしたな、と燃えてゆく森を見て思う。恐らくこの女は囮に使われたのだろう。仲間の居場所を吐かせたら、顔も見られていることだ、始末しておくつもりでいた。だが、意地だけは稀に見る強さであったらしい。命を天秤にかけて自分から捨てるとは、こんな相手は久しぶりに見た。
(自分を囮に送り出した仲間を、守る……ねえ?)
理解のできない感情だ。狩る側である俺は、仲間というものを持たない。その時その時で共闘することは珍しくないが、そこには何の親しい感情もなく、むしろ何も獲れなかったらそいつを狩ろうくらいの考えなのだ。お互いに。寄り添い合って一人になって、それでもまた寄り添い合う。時として守る。そんな面倒な関係の、何を失いたくないのか。分からない。
「……所詮は“弱者”の考えか」
「え?」
「“強者”の俺に分かるものじゃないな」
「……!!」
「そもそも“弱者”同士が集まったところで、何が―――」
「……黙れ!!」
「!」
強く押さえたはずの喉から、爆ぜるような声が上がった。咄嗟に見開いた眼で、赤いその目を見つめる。布のように広がった金の髪に、その赤は不気味なほど映えて、揺るぎない視線をより固くしていた。
「口を開けば“弱者”だ“強者”だって……貴方もそうなの」
「……」
「“弱者”だったら何?命が……生きるために集うことが、軽いとでも?……馬鹿にするのも大概にして」
浅い呼吸を繰り返しながら、身体中の酸素を使いきるかのように女は捲し立てる。遠くで人の声がした。森の火を消しにかかっているらしい。この女の“巣”の、仲間とやらだろうか。声のするほうをちらりと気にしたが、女はまた、こちらに視線を戻した。
「“強者”ですって?くだらないわ。私達の命の上にしか生きられないくせに、何が“強者”よ!貴方こそ一人じゃ死ぬしかできない、本当の“弱者”なんじゃないの!?」
声が、頭の奥を揺らす。殴られたような鈍い痛みに、目の奥で火花が散った。くらりとよろめきそうになって、首にかけた手に一層の力を込めて堪える。女は平然と、俺の反対の手に爪を立てた。
「……」
「……何とか言ったら?私からはこれでおしまい、仲間については吐かないわ」
「何故だ?」
「……さあ?そういうの、格好悪いでしょ。あんなんでも、飢えてた私を拾ってくれた恩人達なの。感謝は忘れないのよ、私」
「……」
紅い火が、燃えている。そう思ったそれは赤い目の中に揺れる、俺の両の眼だった。またその奥に映る、赤い目でもあった。押さえられてもいない喉から、馬鹿じゃないのか、その一言が出ない。
(どうして)
それは出ない言葉に対する疑問だったのか、はたまたそうさせた彼女にぶつけたかった山のような疑問と、苛立ちだったのか。分からないがその中に、俺は確かに見知らない感覚を見つけていた。恐れに似て非なる、背筋の波立つような感覚。それが何物なのか、そこまでは分からない。しかし確かめようとした矢先、ふっと煙が目の前を過った。
「……!」
「……ち、火が大分近くなってきたな……」
森の焼ける匂い。遠かったはずのそれが、いつの間にか目を凝らさずとも見ることのできる場所まで来ている。帰り道が塞がるのも、時間の問題だ。

「おい、女」
「?」
「最後に訊いておく。名は?」
 森が、焼けている。いつの間にか広がった火の手の中に、それと戦おうとする“巣”の仲間達を見た。今出てきてはいけない、隠れていて、そう言いたいのに言いに行けない。最後に、か。几帳面な百獣の王だ。今から喰らう獲物の名など、訊いても仕方ないだろうに。押さえられた手で爪を立てながら、私は口を開いた。
「……ルビィよ」
「そうか」
「貴方は?」
「……さあな、名はない。コバルトと呼ばれたことはある」
「……眼ね」
「それはお前もだろう」
酷くゆっくりとした口調で、彼は言う。そして、その指先が小さく震えた。
「終わりだ、ルビィ」
ああ、ようやくか。緊張を続けすぎていっそ落ち着いてきた心臓が、その言葉と同時にどくんと跳ねた。あと何回、跳ねるのか。そんなことを考えて、きつく目を瞑る。
「じゃあ、な」
「……」
「……」
「……え?」
瞑った瞬間、ふっと手首の拘束が緩んだかと思うと―――彼はそのまま、首に置いた手もあっさりと引いて、立ち上がった。呆然と目を瞬かせながら上体を起こして咳をした私に、彼は対峙した時と何ら変わらない声で、言う。
「気が削がれた、俺は帰る」
「……え、は?」
「東へ行け、あれだけ派手に森をやったんだ。ここはじきに、ハイエナが見に来るぞ。すでに囲まれているかもな」
「え……」
「おい、ルビィ」
黄金の眼が、わずかな青を滲ませて私を見る。
「“弱者”が嫌なら生き延びて見せろ。次に来たとき、まだもたもたここに居ようものなら……」
「……なら?」
「その時は、俺がお前を狩る」
森の方でわっと、歓声が上がった。誰かが火を消し止めたらしい。東へ行け。私は罠か本気か気まぐれか、どれとも知れない彼の言葉を、頭の奥に残す。そして。

「なら……ええと、コバルト」
「?」
「もし、東で会ったら?」
 凛とした声が、そう問いかける。俺は強く美しくあることを、難しいと感じたことなどなかった。
「そうだな、その時は……」
「……?」
「いや、ああそうだ、こうしないか」
俺にとってそれは遺伝子でしかなく、与えられた枠の中いっぱいに満ちているものだったからだ。それは“種”の持てる特権であり、望んで手に入るものでも、また手放せるものでもない。そう思っていた。
「その時は、お前が俺に名前をつけろ」
今初めて、それが狂わされていく。弱くも強い、そんなものが存在する矛盾。逆も然り。俺は驚いたように目を見開いたルビィを残して、今は一人、来た道を戻ることにする。
気が向いたら東へ行こう。見つけきれなかった疑問の答えは、きっとその先にある。
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