ライオンコバルト(♯)

 強く美しくあることを、難しいと感じたことはなかった。そして幸福に感じることも、さほどなかった。俺にとってそれは生まれながらに与えられたものであり、得たものでも、また手放せるものでもなかったからだ。当たり前に背負った“種”。これからも持ち続けるもの。それだけだった。

「逃げろ!この“巣”はもう見つかったんだ!」
「“ライオン”が来るぞ!」
「もたもたしてると狩られるぞ!逃げろ!」
 ざわざわと人の行き交う音で、小さな中庭はいっぱいになる。かすかな、森の焼ける匂い。
(足止めのつもりなのかしら)
小さな火をひとつ放ったところで“ライオン”の足に敵うわけなんて、ないのだけれど。それでも私達は、それくらいの抗いの仕方しか、遺伝子が知らない。
「お、おいあんた!そこのお嬢ちゃん!あんたも突っ立ってないで……」
「ああやめろ、やめろ。……いいんだ、あの子は」
「はあ?」
旗を持って子供達を誘導していた髭の男が、私のことも逃がそうと叫んでいた。それを同じくらいの年代の男が、少し声を落として止めた。聞こえないふりで、私は“巣”の入り口近くに寄りかかったまま、外を眺める。
「いいって、何が……」
「あの子は“小鳥”なんだ。分かるだろう?」
「……それは」
「仕方ないさ。“巣”の決まりだ。それに“羊”の俺達なんかよりは、絶対に足は速い」
だから、と。見知った顔に説得されて、叫んでいた男は押し黙った。やがて足音が二つ、言葉を交わしながら遠退いていく。
「囮は、あの子に任せるしかないんだ。“巣”を守るためには」
カン、カン、と警鐘が鳴り渡る。森の焼ける匂いが少し濃くなった。黄色い木の実を沢山つける、小さな木を思い出す。あの木のもとまで火が寄る前に、“ライオン”を遠くへ離さなければ。あれは“巣”の子供達の宝の木だ。あれを失ったらきっと、彼らは泣く。私一人が帰らなくなるより、ずっと。
(……いけない、こんな考えじゃ)
人の減り出した中庭で、私は手のひらに爪を立てた。守りたいもののために働ける、そこに何を迷う必要があるだろうか。帰ってくればいいだけだ、いつものように敵を誘き寄せて、それから引き離して姿を眩まし、ここへ戻る。大人は皆、笑顔で迎えてくれる。子供達は泣いて、お帰りと集まってくる。そこに何を躊躇う必要があるのか。自分の底に問いかけを落として、答えを聞く前に蓋をした。それでも心を落ち着けようと瞼を閉じれば、隠しようのない胸の内がぐるぐると映し出されて、回る。

―――この世界は、おかしい。
私がそれに気づいたのは、物心ついて比較的すぐのことだった。増えすぎた人類を分類し、自然の姿に戻すという名目で作られた“種”という遺伝子ワクチン。私達は、政府の配ったそれに支配されている。もっとも、その政府はとうに壊滅して、今は形もないのだが。彼らが引いたワクチンは、大半が鹿や兎といった“弱者”だったのだ。かくいう私達も、先祖が“弱者”を引き、その血を余すところなく引いた完全な“弱者”である。弱いものの上には常に強いものが立ち、狩る。それこそが自然の摂理、自然の姿だ。私達は初めから“強者”の獲物として生まれ、育ち、そして逃げ、喰われるために存在する。
(馬鹿げている)
自然の姿と言えば聞こえはいいが、これではまるで共食いだ。私の知らない時代の政府は、何を思ってこんなものを残していったのだろう。今、確かに人類は多すぎることも少なすぎることもなく、自然の中に存在している。だがその内側は惨状だ。一体私達が、何をしたというのか。
(なんて、考えても仕方のないことよね)
今は“巣”の仲間を守ることが最優先。ここにいない人達について、考えている場合ではない。私はすうと息を吸って、入り口の柱に隠れるふりをした。その脇から髪を一掬い、そっと垂らしておく。きっと“ライオン”は、初めに私を見つけることだろう。

 (……火を放ったか)
 たった今通ってきた道のほうで、煙が燻っている。ずいぶんと遠慮がちに放ってあるなと、俺は彼らの愚かさを鼻で笑った。自然の火災ではあんなふうに、控え目に燃えることはない。食糧であり隠れ家でもある、森を燃やすことに抵抗があるのだろう。すなわちそれは、彼らが今もこの近くに住居を構えているということ。
(……結構でかいな)
廃屋のように装ったぼろぼろの塀を飛び越えて、拓けた地面に降り立つ。山羊の匂いだ。羊も栗鼠も、あらゆる“弱者”が歩き回った気配がある。
(……)
まだ近くにいるかもしれない。“種”とは恐ろしいものだ。姿形は俺も彼らもさほど変わらないくせに、本能がこれほど的確に“獲物”だと認識する。生まれながらに俺は、自分が“強者”であり、その中でも百獣の王という遺伝子を持っていることを知っていた。狩りの仕方も抗うものに恐れをなす必要がないことも、遺伝子が知っている。俺は自分の先祖がどういう人間だったのかなど知らないが、ひとつ言えるのは類稀なる運の良さ、それを持っていたということだろう。数万種あったと言われるワクチンの中から、最も生き延びるに困らないものを引いた。それは事実だ。
かくいう俺も、その“強者”の遺伝子を余すところなく引いた完全な“強者”である。
(……あれは)
ふいに視界の隅で、金糸が揺れ動いた。こちらに背を向けて、女が一人、柱に隠れている。
―――身体は、呼吸よりも静かに思考よりも速やかに、地面を蹴った。

「!!」
 かかった。そう思った次の瞬間には、目の前に爪がきていた。息を飲む間もなく、神経が勝手に足を動かす。
「……案外、速いな」
一撃で仕留めるつもりでかかったのだろう、体勢を崩したのは私だけではなく、彼もまた同じだった。ゆっくりと動いた唇が、称賛とも余裕とも、はたまた苛立ちとも取れる言葉の後で、きいと弧を描く。
「……貴方こそ」
「ん?ああ、掠ったか」
わずかな血の匂いを嗅ぎつけたのだろう、彼は私の腕を一瞥して、どうでもいいことのようにそう吐き捨てた。黄金に光る眼。光の加減でそれは時々、ちらちらと青を覗かせる。私はそれをじっと睨みながら、距離を見定めていた。
(……どうしよう)
予想以上に速い。虎を振りきれたことがあるからと、油断していた。あれより幾ばくか遅いと聞いていたが、あの時はこんなふうに、正面から対峙はしなかった。今ここで動いたら、どうなるだろう。五分五分だ。私の方が身軽かもしれないし、彼の方が速いかもしれない。それならば。
(動かなくたって、危ないことには変わりないもの)
全身の神経を、手足に集中させる。ばん、と高く飛んだ瞬間、一瞬前に私のいた場所を彼の爪が抉った。

 ひらり、と空気を掴む感覚に、舌打ちをする。躊躇いながら仕掛けたのが良くなかった。考えていたのだ。あの女を仕留めるか、それとも捕まえて、命と引き換えに仲間の居場所を探るか。対峙した時間が短すぎる。“種”がはっきりと見極めきれていない。だが、あの跳躍から察するに、羊の類ではないだろう。鳥かカモシカ、はたまた何か。それによって、扱いは変わってくる。
「おい、お前」
「何?」
「“種”はなんだ?」
ふわりと距離を取って降り立った女は、石榴のように赤い眼をしていた。勢いを増していく森の炎を、ちらりと横目に見ている。
「さあ?答える義理はないわ、どうしても知りたいなら」
「知りたいなら?」
「……私を捕まえて牙でも見せれば、白状するかもしれないわよ」
言い捨てるなり、背中を向けて地を蹴った女を追う。今度はそれほど高く飛ばず、代わりに距離を伸ばしているようだった。
(……誘導か)
分かりやすい手ではあったが、乗ろうと決めていた。ここは様々な“種”の匂い、気配が入り乱れ過ぎていて、居場所を探ろうにも鼻が利きにくい。女を捕まえて聞き出したほうが、圧倒的に速いだろう。勝算はあった。

 ひゅう、と時折風を切りながら迫ってくる爪を交わし、だんだんと“巣”を離れていく。
(このまま川辺まで……ううん、向こう岸の廃墟まで)
挑発を受け流されなかったことに心底安堵しながら、私は一定の高さを保っては時々降りて、また飛んだ。諦めたり飽きたりされては意味がない。捕まりそうで捕まらない、心臓の冷えるラインを飛び続ける。しかしそれも、目的地の廃墟に辿り着けばおしまいだ。あそこはかつて、私達の“巣”だった。迷路のような構造をしていて、一度や二度通ったくらいでは簡単に出られない。誘い込んで迷わせて、私は空から帰る。今の“巣”に移ってから、何度となく使った手だ。このまま上手くいけば、しばらくは平穏に暮らせる。しかしそう思ったとき、背後の足音が止まった。

「ああ、飽きたな」
 それまでひたすらに動かしていた足を、電池が切れたように止めて俺は言った。数秒遅れて、宙に浮いた女が止まる。
「まあいい、お前以外を探そう」
唇をつり上げてそう言えば、弾かれたようにこちらを振り返った。白い首が、覗く。俺は今度こそ躊躇いなく、地面を蹴って一気に距離を詰めた。

 瞬間、何が起こったのか本当に分からなかった。危機感すら沸かずに、私はただ長すぎる一瞬を送った気がする。首に感じた冷たい感触と、痛みなのかさえ分からない感覚。真っ白になる頭と硬直する身体をそのままに、目だけは、彼の黄金のそれと確かに重ねていた。
「た……っ!」
ガン、と背中を打ちつけた痛みで我に返る。何するの、と叫ぼうとして、自分が声を発せないことに気づいた。は、と掠れた息が漏れる。が、新しく入らない。
「なるほど“小鳥”か。よく飛ぶわけだ」
「……っ!」
「捕まえたのは初めてだな……これが羽根の代わりになるのか?“種”ってのは本当に恐ろしいな」
なあ、そう思わないか。愉快そうな声音が真上から降ってくるが、首を絞める手に声が出ない。答えを求めてなどいないのだ。ぎり、と一括りに掴まれた手が軋みを上げた。終わりだ。地面に引き倒されては、勝てる術などあるわけもない。

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